第200話
深い霧のかかった夜の街道を一台の車が走行していた。ヘッドライトは息を潜めるように控えめに点けられている一方で、湿気でぬかるんだ道を抉るタイヤの音は豪快に夜の静寂を破っていた。
「三貴族?」
車の助手席に座るシオンが、バックミラー越しに後部座席に座るリリアンにそう訊き返した。リリアンの隣に座るエレオノーラと、車を運転するヴィンセントも、シオンと同じくリリアンの次の言葉を待っていた。
「はい。この国を実質的に支配する強大な貴族の三家がそう呼ばれております。アルカード家、カルンスタイン家、ヴァーニィ家――この三家が、ダキア公国の実権を握る貴族です。特にアルカード家につきましては、当主オルト・アルカード伯爵がこの国の国家元首を務めておいでです」
シオンたちは今、車の中で、リリアンからこの国の実情を聞いているところだった。数少ないダキア公国に関する情報だが、騎士団が保有する限りのものを、リリアンが入国前に予め整理、暗記していたのだ。
「そっちはアルバートたちが接触するんだったか。んで、俺らはどうすんだ、“お嬢様ぁ”?」
ヴィンセントはいつもの間延びした語尾で、リリアンを揶揄うように質問した。
リリアンの恰好は、どこか退廃的なイメージを抱かせる黒を基調としたフリル付きのドレス姿だった。偽装した旅券に書かれた人物と相違ないように見せる姿のはずだったが、もとより精巧な人形のような容姿をしているリリアンには想像以上にその装いが似合っていた。そのため、今の服装になってからというものの、特に意味もなくヴィンセントには“お嬢様”と、面白おかしく呼ばれていた。
対してヴィンセントはというと、そんな彼女の執事という設定でいる。儚げに美しく、可憐なリリアンの傍に立つのに相応しい恰好として――これまた厳かでシックな燕尾服姿だった。モノクルを付け、あからさまでこの上なく冗談染みた、いかにもな執事が出来上がった。ヴィンセント本人はそれを気に入っているようで、事あるごとにわざとらしく執事的な振る舞いを見せ、シオンたちを笑わせようとした。もっとも、それに応えたのはエレオノーラだけだったが。
「わたくしたちは、この街道を進んだ先にある、カルンスタイン家の領地に入ります」
「そのカルンスタイン家の領地に、ステラの所在に繋がりそうな何かがあるのか?」
「いえ、今のところは特にありません。ですが、カルンスタイン家は三貴族の中でも特に人間や亜人に友好的と言われております。この国ではヒトの日中の活動は厳しく制限されていますが、カルンスタイン家が管理する領地では人間や亜人たちのためにその規制を緩和しているとのことです。つまり、吸血鬼たちの目がないところで動き回ることが比較的容易と思われます。わたくしたちのような外部の人間が情報収集をするには、うってつけの場所かと」
「アンタたち議席持ちの騎士でも警戒するほどなんだね、吸血鬼って」
シオンとエレオノーラは、大陸を新婚旅行中の夫婦という設定で入国している。なお、リリアンとは遠い親戚という体だ。
シオンは小奇麗なスーツに黒のコートを羽織り、つがい役となるエレオノーラは淑やかな黒のドレスを着ていた。双方、リリアンとヴィンセントの組み合わせと比べると幾分か落ち着いていて地味な装いだったが、元が映えのある美男美女であるため、人通りのある場所で並んで歩けば、それなりに目立つ存在だろう。
「まあなぁ。俺も昔、一回だけやり合ったことあるが、確かに厄介な相手だった」
何気なく言ったヴィンセントに、シオンが、意外だなと眉を顰めた。
「初耳だ」
「んあ? 言ってなかったっけか? 俺が議席持ちなる少し前だ。ダキア公国で重罪を犯した吸血鬼がとある小国に逃げ込んで不法滞在してたことがあってなぁ。その国のルールに従わないどころか、殺人、強盗、強姦とやりたい放題に暴れてたもんだから、騎士団に討伐命令が出たんだわ。で、勝つには勝ったんだが、俺らと同じ騎士以外であそこまで手こずったのは、今のところの生涯、その吸血鬼だけだったなぁ」
「具体的には?」
「とにかく体の再生力がすんごいのよ。多分、“帰天”と同等かそれ以上だ。頭ぶち抜いても普通に立ち向かってきた時はさすがに肝が冷えたね」
「その時はどうやって倒した?」
「戦った場所が、その吸血鬼が隠れ家にしていた廃教会だったんだが、そこに銀製の食器が偶然あってな。そいつを弾丸にして心臓ぶち抜いてやったら、あっさりよぉ」
へっへっ、と面白おかしく話すヴィンセントだったが、それなりに苦戦したことは内容から容易に察することができた。
シオンは呻るように両腕を身体の前で組む。
「弱点を突けるかどうかで、戦局が大きく変わりそうだな」
「仰る通りです。この話の流れで、今のうちに、皆さまにこちらをお渡しいたします」
唐突にそう言って話の主導権を得たリリアンが、傍らに置いていたスーツケースを両膝に置き、開けた。そこに入っていたのは、四丁の拳銃だった。
それを見たシオンが怪訝に首を傾げる。
「拳銃? 俺たち全員、戦う手段はそれぞれ持っているが?」
「わたくしたちはあくまで、一般旅行者としてこの国に入国しております。ゆえに、正体を隠すため、騎士や魔術師のような戦い方は極力避けるべきでしょう。我々が騎士、魔術師としての戦い方ができるのは、確実に相手を仕留めることができ、かつ証拠を隠滅できる場合に限ります」
ヴィンセントが、うんうん、と頷いた。それから手を差し出してリリアンから拳銃を受け取り、運転しながら拳銃の状態を確認した。
「なるほどねぇ。普通の人間のフリをするために、護身用の銃を敢えて携帯するってことか。ちなこれ、弾頭が銀製みてぇだけど、大丈夫なんか? この国、銀の扱い厳しいんだろ?」
「問題ございません。仰る通り、この国では銀や銅といった特定の金属の扱いに厳しい規制がかけられております。ですが、その一方で、吸血鬼たちによる犯罪被害から身を護るための手段として、人間や亜人たちが一定条件下でそれら規制品を所持、使用することが法律で認められています」
「おー、吸血鬼たちが支配する国なのに、意外と人間たちに寛大なんだなぁ」
「吸血鬼犯罪はこの国で重罪とされています。特に、吸血鬼が人間を捕食目的で殺害することは、法律上、例外なく死罪となるようです。ですが――」
頷いたリリアンだったが、すぐに逆接の言葉を繋げた。
「最近はそれも、地域を支配する貴族によって大きく差が出ているようです。特に、ヴァーニィ家が支配する地域では、すでに国の法律は形骸化しており、人間や亜人は家畜同然のように扱われる事態となっているとか」
「なんか、この国も色々複雑な事情抱えてそうだね」
うんざりしたようにエレオノーラが言った。
「はい。それと、エレオノーラ様には改めて強く念を押したいことがございます。シオン様も」
唐突に話の中心が自分たちに変えられ、シオンとエレオノーラは揃って間抜けに首を傾げた。
「え、なに?」
「エレオノーラ様は、必ず、ひと時の油断もなく、シオン様と行動をご一緒してください。シオン様は、エレオノーラ様から一瞬でも目を外さぬようにご注意願います」
なんだそんなことかと、シオンとエレオノーラは、同時に肩の力を抜くように緊張の息を吐いて楽になった。
「主従契約がある。それはわかって――」
「就寝、入浴、排泄、これらの時も、シオン様とエレオノーラ様はひと時も離れずにいていただきます」
「はあ!? ちょ、い、いくら何でもそれは……!」
この娘はいったい何を言い出すのかと、エレオノーラは顔を赤くしながら叫んだ。
だが、リリアンの表情はいたって真面目だった。
「先に申し上げたように、この国では地域によって吸血鬼による犯罪行為が当たり前のように横行しています。そんな吸血鬼たちが最も好む犯罪は、若い女性を強姦したうえでの殺害、及び血液搾取です。それらは、ヒトが無防備になる瞬間――つまり、就寝、入浴、排泄中に行われることが多いとのことです」
唖然とするシオンとエレオノーラ。その一方で、ヴィンセントは納得したように頭を小さく何度も振っていた。
「確かに、そんな状況なら、エレオノーラちゃんの傍には常にシオンを付かせた方がいいかもなぁ。リリアンはいざとなれば一人で撃退するだろうし」
それから間もなく、シオンが意識を呼び戻したように、あるいは諦めたように、表情を改めた。
「わかった」
「シオン!?」
あっさりと切り替え、受け入れたシオンに、エレオノーラが顔を赤くしたまま驚愕する。
「お前の身を護るためだ。協力してほしい」
覚悟を決めた顔で言うシオンだったが、対するエレオノーラは気が動転したように全身を小刻みに震わせていた。空気を求める水槽の魚の如く、口をぱくぱくと動かし、さらに顔を赤く染め上げる。
「ひゃ、百歩譲って……い、一緒に寝るのと、お、お、おおお風呂は、は、い、いいけど……と、トイレだけは……!」
了承を渋るエレオノーラを見たリリアンが、あ、と思い出したように声を上げた。
「ちなみに吸血鬼犯罪の事例をひとつ上げますと――つい、ひと月前のことです。この国のとある小さな町に住む二十歳の若い女性が、夜中に用を足すため、自宅の化粧室に一人入りました。その時、屋根裏の換気口に潜んでいた吸血鬼が女性に襲い掛かり、強姦しながらの吸血に興じ、殺害してしまったとのことです。恐ろしいですね」
「やめてよ! そんなの聞かされたらもう一人でトイレ行けないじゃん!」
エレオノーラが半泣き状態でリリアンを見遣る。
「ですが、現実として起こった話です。エレオノーラ様、どうかご理解のほど、よろしくお願いいたします」
そこで、シオンは合点がいったように、少し長い溜め息を吐いた。
「イグナーツが俺とエレオノーラに主従契約を結ばせたのは、このためか。今更、エレオノーラを騎士団権力で義務的に守らせることに何の意味があるのかと思ったが。まして、教会の権威が届かないこの国で」
「はい。大義名分があれば、お互いのプライベートな場面での過干渉も、双方仕事と割り切って納得ができるでしょう。非常事態とお考えになっていただき、多少の恥は捨てていただければ」
エレオノーラが、いよいよ沸騰寸前の顔を両手で覆いながら俯いた。
「トイレの時も見られるとか、多少の恥じゃないでしょ……! せめて、女同士とか……」
「わたくしはこの度の現場指揮を執る立場にあるため、その任を承ることができませんでした。ご容赦ください」
まあまあと、ヴィンセントが諭すように苦笑する。
「エレオノーラちゃん、逆に考えてみ? まだシオンだったからよかったって。これが俺みたいなどこぞの馬の骨とも知れない男だったらどうだったよ?」
ぴくっ、と、エレオノーラが顔を両手の隙間から双眸を覗かせる。
「な、なんでシオンだと……」
「んあ? だってプリシラが言ってたぜぇ。エレオノーラちゃんはシオンの事が好――」
ヴィンセントが何か言おうとした瞬間、彼の側頭部にエレオノーラの拳が叩き込まれた。エレオノーラは、まるでバンシーに取り憑かれたような叫び声を上げながら、赤面する顔を何度も車の窓ガラスに叩きつけ、狂乱した。
ヴィンセントはというと、車の窓ガラスを突き破ったままの体勢で気絶し、手にするハンドルのコントロールを完全に失った状態だった。
「ヴィンセント! おい、しっかりしろ! ハンドル!」
「駄目ですね。脳震盪を起こしています。シオン様、ヴィンセント様に代わり車の運転を」
「あのおかっぱクソ女ぁ!」
一行はカルンスタイン家の支配する領地へと急いだ。
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