第196話

 ステラは、ガラス越しに見える眼前の景色に、この場所に来てからというものの、終始驚きっぱなしだった。

 その広大な空間に空はない。代わりにあるのは、灰色の天井だった。そこから地に向かって伸びるのは巨大な支柱で、至る箇所に厳かに建ち並んでいる。


 大都市一つが、丸ごと地下に収められているのだ。支配者たる不死の貴族――吸血鬼たちが日の光を避けるために創った街だ。中世期頃の煌びやかで派手な街並みを色濃く残し、空を覆う鋼が夜の帳の代わりとなって、そこに深い影を落としている。


「地下にこれほどの大都市があるとは思わなかったでしょう。私も初めて見た時は驚きました」


 ステラは、その都市のとある高級ホテルの一室にいた。地下都市を一望できる、豪奢な装いがされた晩餐室だ。しかし、テーブルに料理はない。


 ステラが振り返ると、教皇がそこに入室してきたところだった。部屋には他に誰もいない。


「……この国は、聖王教信徒の入国を許していないと聞きました。それが、どうして――まして、聖王教のトップが堂々とここにいられるんですか?」


 教皇はテーブルの中央に座った。


「貴女が訊きたいことはそんなことではないでしょう。まずは御着席を。立ち話で済むような話でもありますまい」


 教皇に促され、ステラは大人しく従った。

 すると、教皇は懐から一枚の紙を取り出し、ステラに向かってテーブルの上で滑らせた。


「約束通り、シオンは無罪となりました。まずはご確認を」


 教皇が差し出した紙は、そのことを示す証明書だった。

 ステラは手早く文面を読み、最後に教皇の署名を確認した。


「確認しました」

「よろしい。では、早速本題といきましょう」


 ステラが証明書を懐にしまうと、教皇は背もたれに体を預けた。


「ここなら何者にも邪魔をされず、ゆっくりと話すことができる。私に何を訊きたいのですか?」


 ステラは視線を軽く落とし、一度教皇から目を逸らした。それから両の拳を膝の上で強く握りしめ――意を決した表情で面を上げた。


「猊下は……ガリア公国と結託して何をしようとしているんですか? ガリアによるログレス王国の実効支配を認めたかと思えば、今度は私を女王にして主権回復に協力しようとしている。何を目的に動いているのか、まったくわからないです」

「それは以前にも申し上げた通りですよ。ガリア公国は十字軍結成のために利用しただけだ。ガリアから軍事技術の提供を受けるために、奴らの要求を代わりに飲んでやっただけのこと。ログレス王国の王都――キャメロットの実効支配を黙認しろという願いに応えてやったまでのことです」

「もし戴冠式を無事に終えて私が女王になれば、猊下とガリアの関係は悪化すると思います。それでもいいんですか?」

「ええ、何も問題はない。彼の国から欲しいものは得て、必要なものはすべて揃えた。十字軍はすでにガリアどころか、騎士団以上の戦力を有している。向こうが何か騒いだところで、我々はただ粛々と対応するだけだ」


 淡々と答える教皇に、ステラは自ずと顔を顰めた。


「では、戴冠式を開催することで猊下には何のメリットが?」

「聖女を私の前に誘い出す――これが一番の目的です。彼女に用があってこの数年間、その行方を探し続けていました。ですが、そろそろ疲れてきましてね。なので、貴女の戴冠式を利用させてもらうことにしました。大国の主権にかかわる重大な儀式に名指しで呼ばれれば、無視することなど到底できない。聖女は否応なしに出席することになるでしょう」


 やはり味方というわけではなかったと、ステラは安堵と落胆の気持ちが入り混じった、複雑な息を吐いた。

 それを見た教皇が、小さく笑った。


「無論、ただ開催するだけに終わらせませんよ。貴女を女王にするための手配は、必要最低限ではありますが、抜かりなく進めさせていただきます。ご安心を」


 ステラはそれを、都合よくあやされたように感じてしまい、少しだけ不愉快に思った。


 気にくわない――ステラはこの男と会ってからというものの、常々そう思っていた。何もかもが、この男の予定通りに動かされているようで、非常に不快で、窮屈に感じられた。

 どうにか出鼻を挫けないものかと考え――ひとつ、ステラは仕掛けてみることにした。


「猊下は、騎士団が貴方のことを罷免しようとしていることをご存じですか?」

「ええ。その実現のために貴女の立場と権力を利用しようとしていることも」


 あっさりと回答され、逆にステラが面食らう。

 しかし、ここで引き下がるわけにもいかない。


「私が女王になった瞬間、猊下のことを糾弾するようなことがあったら?」

「好きにすればいい。もっとも、そうしたところで立場を悪くするのは貴女の方だと思われますがね。教皇の協力と支持を経て王位に就いたというのに、直後にその教皇を罷免しようとするなど――たとえそれが人道という名の正義の下に行われたとしても、貴女には裏切り者としての汚名が付きまとうことになる。一国の王がそのような扱いを受ければ、当然、国そのものが同じように白い目で見られることになる。国の行く末を案じるのであれば、あまりお勧めはしません。私のように、教皇という国家元首以上の絶対的な立場を有しているのであれば話は別ですが」


 逆にアドバイスをされてしまったようで、ステラは恥ずかしさと悔しさで唇を強く噛み締めた。

 そうやって無言でいると、


「他に訊きたいことは?」


 教皇から催促された。

 ステラはすぐに頭を切り替えた。この男から訊きたいことは、まだ山ほどある。


「シオンさんを黒騎士にした理由は、何ですか? そもそも、黒騎士って何なんですか?」

「黒騎士は、教会の歴史上――いや、この大陸で最も不名誉とされる大罪人の証だ。それは何故か――知っての通り、騎士はあらゆる生物を超越した身体能力を有する。ひとたびその力を私利私欲に振るえば、世界に致命的な混沌をもたらす可能性が考えられる。ゆえに騎士は常に教義の下に矜持を持ち、己を律しなければならない。黒騎士は、そんな教義を破り、己の欲望のままに行動し、神へ敵対した背信者だ。忌むべき存在、世界の敵、裏切り者――とどのつまり、強大な力を持て余したがゆえに低俗な過ちを犯した悪漢であることの証明だ」

「シオンさんは昔、猊下の弟子だと聞きました。何故、かつての弟子にそんな不名誉な称号を――」

「奴は騎士団分裂戦争を引き起こした戦犯だ。ゆえに大罪人の烙印を押されることは当然の理。騎士が守るべき戒律を破り、私情で剣を振るい、多くの命を奪った。黒騎士になるには充分な理由でしょう」

「私が訊きたいのはそんなことじゃありません。訊き方を変えます。何故、貴方はシオンさんを黒騎士に仕立て上げたかったんですか?」


 教皇は鼻を鳴らした。


「人聞きの悪いことを仰る。つまり貴女は、私が始めからシオンを黒騎士にするために、騎士団分裂戦争を意図的に引き起こしたとお考えで?」

「はい」


 はっきり言い放ったステラに、今度は教皇が少しだけ臆したように押し黙った。教皇はそれから少し考えるように視線を落とし――再度ステラを見遣った。


「そんな器用な真似、さすがに私でもできない」

「なら、どうして“リディア”さんは死ななければならなかったんですか?」


 その言葉を聞いた教皇の顔に、明確な感情の変化が現れた。目つきを鋭くし、金色の瞳が鋭い刃のように細められる。


「……何故、そこで“リディア”の名が?」

「シオンさんが騎士団分裂戦争を引き起こしてしまったのは、“リディア”さんがハーフエルフだとバレてしまったことが大きな要因です。シオンさんは、“リディア”さんの最期の願いを叶えるため――“リディア”さんと、シオンさん自身が騎士として積み上げてきたものを守るために、亜人をガリアの凶行から救おうとしました。それこそが、騎士団分裂戦争が起こった直接の原因だとイグナーツさんから聞き及んでいます」

「それで?」

「“リディア”さんは、大陸同盟が、ガリアの亜人奴隷制が撤廃されないまま締結されることに強く反発していました。教皇庁は大陸同盟を早く結ぶために“リディア”さんを失脚させたがっていたとも聞いています」

「そうだ。“リディア”は修道女でありながら聖女に及ぶほどの影響力を持っていた。彼女がいなくなれば、教皇庁が主導で進める大陸同盟の締結に――」

「それは教皇庁の思惑であって、貴方の考えではないですよね?」


 ステラの言葉に、教皇が明確な嫌悪の反応を示した。


「……と、いうのは?」

「もし貴方も教皇庁と同じ理由で大陸同盟のために“リディア”さんを失脚させたとしたなら、今こうして私をログレス王国の主権回復に力を貸すことなんてしないはずです。何故なら、単純に大陸同盟を結ばせるためなら、このままガリアにログレスの主権を握らせた方が好都合だからです」


 教皇はじっとステラを見たまま、微動だにしない。


「猊下……貴方はもしかして、ただ単純にシオンさんに――いえ、“リディア”さんに強い怨みを持っていて、それを動機に一連の出来事を裏で操作していたのでは?」


 その推理は、ステラ自身も稚拙だと思った。だが同時に、それ以外に導き出せる仮説もなかった。

 しかし、ここまで言ってしまえば、今更引き下がることもできない。

 ステラは喉に力を入れた。


「そして、シオンさんを黒騎士にしたのは―― “リディア”さんにとって大事なヒトであったシオンさんに、大陸で最も不名誉な名を与えることで、“リディア”さんへの意趣返しをしたかったからなのでは?」


 それから暫く、晩餐室は異様な静寂で満たされた。

 空気を押し固められたような圧迫感――ステラはそれに耐えるように、固唾を呑んで、教皇の反応を待った。


 そして――


「――まさか、君のような子供が正解に辿り着くとはな。総長とイグナーツの賢い脳みそは、ただの脂肪の塊だったらしい。頭が回るゆえに、的外れなそれらしい理由ばかり思いついていた。滑稽で笑いが止まらなかったよ」


 始め、教皇は低く笑った。その後で声を大にして笑い、天井を仰いだ。そうした後で先の言葉を放ち、


「君の言う通りだ、ステラ王女。俺は“リディア”が憎くてたまらない。シオンを黒騎士にしたのも、あの女への“復讐”だ」


 それまでの威厳ある姿とは程遠い、憎悪の感情を剝き出しにした、かつ悪戯をする子供のような小さな笑みを見せてきた。

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