第194話

 シオンの病室は、騎士団が手配した特別個室だった。シャワー室や化粧室、おまけにラウンジのようなスペースにラジオや冷蔵庫など、あらゆる設備が揃っており、下手な賃貸物件よりも充実した一室だ。


 エレオノーラは、換気のために開けていた窓を閉めたあと、ベッドの上で昏睡状態のシオンを見遣った。こうなってから今日で一週間が経過するが、依然として目を覚ます気配はない。


「……早くしないと、ステラがどこかに行っちゃうよ」


 エレオノーラはそう呟きながら、ベッド横の丸椅子に座った。シオンの顔を軽く撫でたあと、彼の右手を両手で握り、沈痛な面持ちで顔を近づける。


「お願いだから、早く目を覚まして……」


 そして、祈るように目を瞑り、小さく首を下げた。

 そのままの状態で、時計の秒針が半周した時――不意に病室の扉が開かれた。


「入りますよ」

「ほあっ!?」


 驚いて振り返ると、イグナーツが開かれた扉の前に立っていた。その後ろにいるのはプリシラで、


「エレオノーラ……貴様、何をしていた?」


 シオンの手を握るエレオノーラを見た途端、露骨に顔を顰めて威嚇してきた。

 エレオノーラは慌ててシオンの手を放し、何事もなかったかのように髪を整える。


「な、何って、ちゃんと看病してたけど?」

「……ほお?」


 こめかみに青筋を浮かばせるプリシラが、いつの間にかエレオノーラの隣に立っていた。エレオノーラは視線を合わせないように、一筋の冷や汗を頬に残しながら顔を背ける。


 女性陣のそんなやり取りには構わず、イグナーツはマイペースにソファへ腰を掛けた。


「あまりふざけている時間はないので、さっさと話を進めさせてもらいますね」


 その言葉通り、イグナーツの声色は真剣だった。エレオノーラとプリシラは姿勢を正し、イグナーツの方へ向き直る。


「我々騎士団は、これから大きく二手に分かれて行動します。一つは、ステラ王女奪還。もう一つは、聖女の護衛です。そこで、エレオノーラ、貴女にはこのままシオンを看てもらいます。貴女は騎士団の人間ではないですが、師の顔を立てると思ってどうかご協力を」


 イグナーツに言われ、エレオノーラは少しだけ戸惑った。依頼された内容についてではない。ステラを奪還するという言葉に違和感を抱いたのだ。


「それは構いませんけど……ステラを奪還するって、あの子がどこにいるのかわかったんですか?」

「これからそれを調べに行くことにはなるのですが――ダキア公国です」


 即答だったが、エレオノーラの顔はさらに訝しげに顰められた。


「ダキア公国って……あの“吸血鬼の国”ですか? あそこって確か、聖王教の信者の入国を禁止していませんでしたか?」

「ええ。あの国は国民が特定の宗教に入信することを禁止しているため、聖王教を信仰している者の入国を基本的に認めていません。我々のような教会関係者は殊更に嫌われるでしょうね」

「なら、ステラがそんなところにいるとは到底思えないんですが。仮にいたとしたら、教皇、もしくは他の教会関係者がステラと一緒にダキア公国に入ったってことですよね? 宗教を認めていない国に入るなんて……」

「だからこそ、ですよ。誰かから何かを隠すコツは、絶対こんなところにいないだろうという場所に隠すことです。今回は、“セラフィム”の移動経路からそれなりの裏付けもありますしね」


 まさか、と無言で唸るエレオノーラを余所に、イグナーツは続けた。


「ダキア公国にはアルバート卿、レティシア卿、セドリック卿を特使として遣わせます。これからグリンシュタットの外交ルートを利用して、我々の入国を認めてもらえないか調整する予定です。議席持ちの騎士三人ともなれば、いかにあの国といえど、無視することはしないでしょう。 聖女については、私が主導して騎士団本部へ送り届けます。護衛に付くのは、私と、メイリン卿、それとユリウス卿、プリシラ卿です」


 ユリウスとプリシラも同行するのかと、エレオノーラは少し意外に思った。そんな顔でプリシラの方を向くと、彼女は小さく頷いた。


「私がいなくなるからといって、シオン様に妙なことをするなよ」

「アンタじゃあるまいし」


 脈絡なく突然嫌味なことを言われ、エレオノーラは反射的に皮肉を返した。そうやってまたいつものように二人の間に小さな火花が迸るが――イグナーツが短い溜め息を吐いて話を戻す。


「さっきも言ったようにエレオノーラにはシオンを看てもらいますが、念のため貴女たちにも護衛をつけておきます。リリアン卿とヴィンセント卿が、貴女とシオンを守るのでご承知おきを」


 リリアンとヴィンセント――エレオノーラにはあまり関わりのない人物だが、議席Ⅲ番とⅩⅠ番の騎士ということだけは知っている。騎士団の最高幹部を二人も護衛に回すとは中々に穏やかではないと、エレオノーラは思った。


「その二人って議席持ちの騎士ですよね? 何か、やけに手厚くないですか?」

「手厚くするのは当然です。貴女とシオンは、教皇を罷免するための大事なカードですから」


 イグナーツに言われ、エレオノーラはすぐ納得した。教皇の実子である自分と、教皇の弟子であるシオン――エレオノーラは教皇の隠された性事情を示す証拠であり、シオンは教皇の更なる隠された真実――“教皇の不都合な真実”を知るだろう人物だ。

 教皇を罷免するためには、その立場に就く人物が相応しい背景を持っていないことを示す必要がある。その大きな要素となり得るこの二人を蔑ろにすることは、確かに騎士団としてはできないだろう。


 イグナーツはソファから立ち上がった。


「伝えたいことは以上です。ステラ王女のことは気になると思いますが、いったんはアルバート卿たちに任せて――」

「俺も行く」


 小さな声だったが、刃を通すような勢いでイグナーツの言葉が遮られた。

 声の起きた方を見ると、そこにはベッドから上半身を徐に起こすシオンの姿があった。


「シオン!」「シオン様!」


 振り返ったエレオノーラとプリシラが驚きの声を上げ、シオンの身体を慌てて支える。

 二人に支えられながら、シオンは瘦せこけた顔で睨むようにイグナーツを見た。イグナーツは目を伏せ、嘆息する。


「面倒なタイミングで目を覚ましてくれましたね」

「俺もダキア公国へ行く。アルバートたちに同行させろ」

「駄目です」

「体なら大丈夫だ。もう治っている」

「体の話じゃありません。アルバート卿たちと貴方じゃ相性が悪すぎる。絶対に喧嘩になりますよ」


 イグナーツの見解に、エレオノーラは苦虫を嚙み潰したような顔になった。


「わかるかも」


 しかし、シオンは断固として首を縦には振らなかった。そればかりか、ベッドから立ち上がろうとしている始末である。


「なら勝手に行かせてもらう」

「言うと思いましたよ。いつかのように、また氷漬けにされたいですか?」


 イグナーツがシオンの目の前に立ち、冷ややかな視線で見下ろした。それをシオンが、燃えるような色の瞳で睨み返す。

 イグナーツは、言うことを聞かない子供の相手をするような顔になって、長い溜め息を吐いた。


「……シオン、ここはもう我々に任せて、大人しくしてくれませんか? 別に貴方のことを過小評価しているわけではない。ただ、ステラ王女を手放してしまった今の状況下で、彼女と同じく重要人物である貴方を必要以上に危険に晒したくないんですよ。今回の件は、今までの十字軍との小競り合いとはわけが違う。ダキア公国は吸血鬼たちが支配する国です。吸血鬼の危険性は貴方も知っているでしょう?」


 いつになく真面目な顔で吸血鬼の危険性を説くイグナーツだった。

 珍しい師の姿を見て、エレオノーラがプリシラに小さく訊いた。


「吸血鬼って、騎士から見てもヤバい存在なの?」

「私も実際に会ったことはないが、夜間にしか活動できないという厳しい制限はあるものの、単純な身体能力は私たち騎士に匹敵すると聞く。何よりも厄介なのはその不死性で、ヒトの血さえあれば頭部を欠損しても再生できるらしい。その再生力は、“天使化”した騎士以上だ」


 プリシラの説明にイグナーツが頷いた。


「そんなのが政治を支配している国です。貴方のように手当たり次第に周りに喧嘩を売る交渉の仕方では、命が幾つあっても足りないでしょう」

「それはあの武闘派三人も同じだろ」

「あの三人は意外と交渉上手ですよ。その強さから武闘派なんて言われていますが、政治の手腕もかなりのものです」


 イグナーツが言うと、シオンはあからさまに不機嫌になった。無表情だったが、何一つ納得していないことは如実に見て取れた。

 イグナーツは困った顔で長い息を吐く。


「貴方がそこまでステラ王女に拘る理由は、何なんですかね?」

「単純だ。王都に命がけで連れていく、あいつとそう約束した」

「それだけ、という話でもないでしょう。“リディア”が追い求めた理想に最も近い人物が、ステラ王女だからなのでは? 結局、貴方の行動の根幹にいるのはいつも“リディア”ですね」


 イグナーツは呆れた声で言ったが、シオンはいたって真剣な面持ちだった。何と言われようと、何も譲る気はないという意思がひしひしとそこから感じ取れた。


「……仕方ありませんね」


 数秒のにらめっこの後で、ついにイグナーツが根負けした。


「このまま駄目だ駄目だと言い続けたところで、貴方が勝手な行動をするのは目に見えています。シオン、貴方がダキア公国でステラ王女を探しに行くことを許可します。ただし、幾つか条件を設けます」


 イグナーツが右手の指を立てながら説明を始めた。


「ひとつ、アルバート卿たちとは異なるルートで入国してもらいます。貴方は彼らとは違うアプローチでステラ王女を探してください。同じ方法で手数を増やしてもあまり意味がありませんからね。ふたつ、貴方の護衛に付くはずだったリリアン卿、ヴィンセント卿、それとエレオノーラをそのまま同行させます。潜入中の意思決定の優先順位はリリアン卿を第一位としてください。そして三つ目ですが――」


 イグナーツはそこでエレオノーラを見遣った。


「貴方とエレオノーラに、騎士と教会魔術師としての主従契約を結んでもらいます」


 突然出てきた聞きなれない言葉にエレオノーラは小首を傾げた。同時に、プリシラが明らかに狼狽する。


「い、イグナーツ卿!? そ、その必要はさすがにないのでは……」

「あの、イグナーツ卿、主従契約、って何ですか?」


 エレオノーラが訊くと、イグナーツは続けた。


「エレオノーラをシオン専属の教会魔術師にするってことです。エレオノーラはシオンの従者という立場になり、彼の言うことには絶対服従することになります」

「ぜ、絶対服従……!」


 その言葉に、エレオノーラは妙な反応を示して頬を紅潮させた。その横では、プリシラが歯列を剥き出しにして悔しそうに歯軋りしていた。


「それだけを聞くと従者側には何のメリットもないように思えますが、従者はこの大陸で騎士と同等の特権を行使できるようになります。それと同時に、騎士には従者の命を保障する義務が発生します。つまりシオンは、何よりもまず、エレオノーラを守護することを考えなければなりません。そこら中に騎士並の強さを持つ吸血鬼がいる国です。シオンはエレオノーラを命がけで守ってください」


 プリシラが勢いよく挙手した。


「イグナーツ卿、そんな危険な場所なら、そもそもとしてエレオノーラを同行させるべきではないのでは?」

「エレオノーラには、シオンの“悪魔の烙印”の解呪を引き続き進めてほしいのですよ」


 イグナーツの言葉に、プリシラが押し黙る。


「現状、“悪魔の烙印”に最も詳しいのがエレオノーラです。もし完全に解呪してシオンが全盛期の強さを取り戻すことができれば、ガラハッドには及ばずとも更なる戦力として期待できます。アルバート卿に勝ったと聞きましたが、所詮それもたった一回のまぐれの領域でしょう。“帰天”を使える貴方には、是非とも安定した強さを身に付けてもらいたい」


 プリシラは再度激しく歯軋りをしていたが、それ以上の反対意見を出せないでいた。

 それを無視して、イグナーツは話を進める。


「ちなみにですが、今時点でどれくらい解呪できた感じですか?」


 訊かれて、エレオノーラは思い出しながら口を開いた。


「ラグナ・ロイウを出発してからも少しずつ解呪を進めていましたが、まだ半分も、といった感じです。三、四割が妥当なところかと」

「では、当面は六割を解呪することを目標にしてください。頼みましたよ、師である私の名誉を守ると思って、尽力してください」


 イグナーツが冗談交じりに鼓舞したが、エレオノーラの関心はそんなところになく、


「絶対服従……」


 今後のシオンとの関係を想像することに頭のリソースを割いていた。頭の中の妄想が自ずとエレオノーラの口角を気色悪く上げていくが、


「何を考えているのかは知らんが、お前が期待しているようなことは絶対に起きないからな」

「な、何の事?」


 プリシラが血走った目で顔を近づけ、警告してきた。エレオノーラは素知らぬ表情で、視線を逸らす。


 そんな二人のやり取りを尻目に、イグナーツは懐から何かを取り出し、シオンに手渡した。


「シオン、これを」


 それは、騎士である身分を証明する“剣のペンダント”だった。シオンが自身のそれを見るのは、リーデンフェルトであったお見合い騒動の時以来である。


「今はもう、凍結されていた貴方の資産も自由に使えるはずです。ダキア公国に入る前に、念入りに準備をしてください」


 シオンは怪訝に眉を顰めた。


「資産凍結の解除って、何があった? 俺は黒騎士だろ、そんなことがあるのか?」

「貴方が寝ている間に、教皇庁から貴方宛ての免罪符が発行されました。黒騎士を無罪にすると。ステラ王女との取引でしょうね、彼らも仕事が早い」


 これにはエレオノーラと、プリシラも初耳だったようで、シオンと一緒になって驚いた。


「ただ、黒騎士の認定解除は明確に書かれていないですね。恐らく、裁くための罪はなくなったものの、その汚名はまだ付いて回るということかと。かつて騎士だった男が黒騎士となって騎士団に帰還した――状態としてはこんな感じですかね。歴史的に見ても前代未聞ですが――どうです、お気に召しませんか?」


 悪戯っぽく、どこか厭らしい笑みを浮かばせながらイグナーツがシオンに訊いた。

 シオンは“剣のペンダント”を軽く握りしめ、意外にもどこか晴れやかな表情をしていた。


「いや、それならそれでいい。むしろ、教皇であるガイウスと相容れない立場を引き続き取れることに安心しているくらいだ」

「非常に前向きでいい心掛けです。ただ、これでまたわからないことが増えましたね」


 イグナーツの言葉に、シオンは首を傾げた。


「何故、教皇はシオンを他の分離派の騎士のようにさっさと処刑せず、わざわざ黒騎士にしたのか――その謎が、また振り出しです。てっきり私は、シオンの議席持ちの騎士としての発言力を奪うために黒騎士にしたものと予想していたんですがね。弟子だった貴方しか知りえない“教皇の不都合な真実”――これを暴露されないために」


 不意にその言葉を受け、エレオノーラは虚を突かれて心臓の鼓動を一度大きく鳴らした。

 “教皇の不都合な真実”――ガイウスがハーフエルフとの間に子供をもうけていること。それはつまり、エレオノーラが混血であることを示していた。


「シオン、何か心当たりはありませんか? その“真実”が何かということも含めて」

「さあな。俺にもわからない。多分思い出すこともないだろうし、そろそろそれを当てにするのはやめた方がいいんじゃないか?」


 シオンは適当にあしらった。

 だが、イグナーツは少しだけ目つきを鋭くし、シオンの様子を数秒伺っていた。

 恐らく、この時に走った妙な緊張を感じ取ることができたのは、エレオノーラと、シオンだけだ。


「――まあ、いいでしょう。兎にも角にも、引き続きよろしくお願いします。黒騎士シオン」

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