第177話

 時計の針が二時を回った深夜――キルヒアイス親子の宿泊先のホテルは、武装組織“燎原の獅子”の襲撃を受け、重々しく殺伐とした雰囲気に包まれていた。従業員と宿泊客のほとんどが屋外へ避難したことで、廃墟のような異様な静けさで満たされている。


 ロイヤルスイートルームへは、ホテル最上階のエレベーターホールから廊下経由で一直線に繋がっていた。

 廊下には覆面を被った二人のテロリストが小銃を手に見張りをしており、窓から外の様子を注意深く観察していた。

 ロイヤルスイートルームの中では、残り十二人のテロリストたちが、所狭しとリビングを占拠している。リビング中央のソファには、アルベルト・キルヒアイスと、その娘ハルフリーダ・キルヒアイスが、両手両足を縛られた状態で座っていた。両者とも恐怖に顔を青くさせ、身を小さく震わせている。


 部屋のカーテンの隙間から外の様子を伺っていたテロリストの一人が、不意に他のメンバーへ駆け寄っていった。


「シェリング、やはりお前の言う通りだ。騎士団の連中がこの街にいるらしい。恐らくお前の素性ももう割れているだろう。すぐにでも警察と一緒になってここへ攻め入る可能性がある」


 シェリングと呼ばれたテロリストは、大胆不敵に覆面を脱ぎ捨てる。覆面の下にあったのは、獅子の鬣を彷彿させる茶髪を携えたライカンスロープの男の顔だった。歳は四十前半といったところで、頬や額には痛々しい傷跡が無数に刻まれていた。


「わかり切ったことをいうな。だからこその人質だ。騎士団は今、世間的な評判を落としている。安易に俺たちを襲撃することは避け、慎重な行動をとるはずだ。いきなり攻め入るなんてこともしないだろう」


 シェリングが鋭い眼光を返すと、進言したテロリストは尾を巻く犬のように大人しくなった。

 続いて、シェリングは別のメンバーを見遣る。


「それより、こちらの要求に対して警察はどう答えている?」


 訊かれて、電話番は軽く肩を竦めた。


「金はすぐに用意するそうだ。三十分以内には準備が整うらしい。ただ、ボスの釈放と、企業撤退の件はまだ何も動きがない」

「ボスの釈放は急がせろ。企業撤退の方は、ひとまず優先順位を下げてもいい。ここにいるアルベルト・キルヒアイスを適当に痛めつければ、後は時間の問題だ」


 シェリングが、ソファに座るアルベルトを睨んだ。

 アルベルトは一瞬、怯えに身体を震わせたが、すぐに表情を引き締めた。


「だ、誰が貴様らテロリストに屈するものか。そもそも、私を痛めつけたところで、我が財閥傘下の企業はこれまで通りの経営を続けるだけだ。無駄な望みは捨てるんだな」

「それだと困るんだよ、当主様」


 シェリングがアルベルトの正面に立った。そして、包帯の撒かれたアルベルトの左の脛を強く蹴る。目に見える量で包帯から血が滲み、アルベルトの足首から床にかけて赤い筋が延びた。しかし、アルベルトは歯を食いしばり、悲鳴を押し殺した。

 シェリングが感心したように、ほお、と声を上げる。


「足に弾丸ぶち込まれても威勢のよさをなくさないのはさすがだな。立派な当主の器だ。けどな――」


 シェリングの太い腕が、ハルフリーダへ伸ばされた。ハルフリーダは首根っこを掴まれ、短い悲鳴を上げる。


「お前を痛めつけて駄目なら、娘の方を今ここでボロ雑巾にしてやってもいい。どうだ、そう言われたら考えも変わるだろう?」

「いやっ! 離してください!」


 ハルフリーダが拒絶すると、彼女の身体はすぐさまもう一つのソファへと投げ捨てられた。

 直後に、テロリストたちが下卑た笑いをしながら、ハイエナのようにハルフリーダへと群がった。

 アルベルトの顔が、自身の傷口を蹴られた時とは比較にならないほどに歪められる。


「待て! 娘に何をするつもりだ!?」

「何もしないさ。お前が俺たちの言うことを聞いてくれたらな」


 シェリングのその言葉が合図であったかのように、テロリストたちが一斉にハルフリーダの衣服を引き裂き始めた。絹を裂くようなハルフリーダの悲鳴が室内に響く。


「さあ、どうする?」

「き、企業の撤退なんて、当主の私であってもすぐには実現できない! だから――」

「そんなことはわかっている。だから俺たちはな、確かな約束をしてほしいんだ。アンタの口から、『キルヒアイス家の傘下にいる企業は今後ガリアから完全撤退させます』っていう約束をな。それが完遂されるまで、お前たちは俺たちと一緒に寝食を共にしてもらう」

「そ、そんな馬鹿な……!」

「冗談を言っているように聞こえるなら、目を覚まさせてやるよ」


 シェリングが言うと、テロリストたちはいよいよヒートアップして次々と雄叫びを上げた。ハルフリーダの衣服はもはや跡形もなく破り捨てられ、あられもない下着姿となっている。


「お父様! 助けて! お父様!」

「やめろ! ハルフリーダは関係ないだろう!」


 強姦されそうになっている娘を見て、アルベルトが怒号混じりに声を張り上げた。

 しかし、シェリングはそんなことなど心底どうでもよさそうに、まるでこれから世間話でも始めるかのような所作で、アルベルトの隣に座った。


「ご当主様、俺はそんなことを聞きたいんじゃない。わかるだろ?」


 そう言ってシェリングは、アルベルトの肩に右腕を回した。

 娘の悲鳴を延々と聞かされ、アルベルトは顔に夥しい量の汗を滴らせる。

 そうしている間に、ついにハルフリーダは下着すらも剥ぎ取られ、テロリストの一人に股を強引に開かされた。


 ハルフリーダの口から甲高い絶叫が迸るが――それに負けじと、電話の音がけたたましく鳴り響いた。


 途端、テロリストたちが一斉に動きを止め、静かになる。

 シェリングが顎をしゃくって指示を出すと、電話番が受話器を取った。それから十秒ほど、電話先と会話が進められる。電話番は受話器を置くと、シェリングの方を振り返った。


「シェリング、金の用意ができたらしい。これからここに交渉役が届けに来る」

「交渉役? 何をしている、誰一人としてこのホテルに立ち入れさせるなと言っただろうが。おい、誰かホテルの入り口まで行って――」


 シェリングが皆まで言う前に、突然、部屋の扉がノックされた。


「……誰だ?」

「身代金を届けに来た。扉の前に置いておく」


 シェリングの問いかけに、扉の向こうにいる声の主は淡々と答えた。

 扉の前の廊下には見張りが二人いるはず――こうして何事もなく扉の前にいるということは、本当に金を届けに来ただけなのだろうか。


 テロリストたち全員がそんなことを頭に思い浮かべた矢先、突如としてこの場にいる全員の視界が暗転した。


「何だ!?」


 ホテルが停電を起こしたのだ。内部の灯りが瞬時に消えたことで、暗闇になれていない目は完全に視界を失うことになった。

 突然の出来事に、テロリストたちから狼狽の声が漏れる。


「狼狽えるな! おい、さっさと灯りを点けろ!」


 シェリングが一喝した――その時だった。


 ズン、という鈍い打撲音が闇の中に響く。続けてさらにもう一回――鳴ったと思った矢先にさらにもう一回。


「何だ、この妙な音は!? 誰か返事をしねえか!」


 不気味な打撲音が五回ほど鳴った後、次に響いたのは六発の銃声だった。暗闇の中でほんの一瞬煌めく銃火が何者かの姿を映し出すが、テロリストたちがその姿を双眸に捉えることはなかった。


 そして、


「な――」


 ホテルの灯りが戻った時、リビングの様子は停電前から一変していた。

 テロリストたちは、シェリング以外の全員が床に伏しており、微動だにしていない。また、灯りが消える前にはいなかった人物の姿もそこにはあった。

 それは――


「き、君は、カール・エーベルト君!」

「カール様!」


 テロリストの装備から強奪した拳銃の銃口をシェリングに向けて立つ、カール・エーベルト――もとい、シオンだった。


「カール・エーベルト……外交官のドラ息子か!」


 シェリングが吃驚し、強く歯噛みする。


 シオンは、シェリングにすら自身がカール・エーベルトであると思われたことに、一瞬何とも言えない顔になった。だがすぐに表情を引き締め、銃把を握り直した。


「無駄な抵抗はやめ、大人しく武装を解除して投降しろ」


 冷たく言い放ったシオンの気迫に、シェリングが堪らずたじろぐ。


「た、ただの外交官の息子がこんな超人的なことをしでかすとは……!」

「もう一度言う。大人しく投降しろ」


 聞く耳は持たないと、シオンが間髪入れずに再度投降を促す。

 しかし、シェリングは体をわなわなと震わせながら、両目を怒りに赤く染め上げた。


「……き、貴様もこの国の人間ならわかるだろう!? キルヒアイス家がガリアの経済に多大な影響を与えていることを! ガリアは俺たち亜人の怨敵であるばかりか、グリンシュタットにとっても仮想敵国に他ならない! 野放しにしておけば、亜人もこの国も、いつかガリアに蹂躙されることになるぞ!」

「仮にここでキルヒアイス家が持つ財力と権限をアンタらテロリストが掌握したところで、盤石な軍事力を持つガリアを今すぐどうこうできるとは到底思えないがな」

「だからこそガリアからキルヒアイス家傘下の企業をすべて撤退させるのだ! この一家が経営する企業にはガリアの軍事産業に関わっているものも多数ある! それらを無理やりにでも機能不全にすれば、あの国を著しく弱体化させることができるはずだ!」

「……そんな単純な話ならとっくの昔に誰かがやっている」


 誰にでも思いつきそうなことが何故今なお実現に至っていないのか――そんな単純なことにすら気付かないのかと言わんばかりに、シオンは嘆息気味に舌打ちをした。


「言いたいことはそれだけか? 今から五秒数える。それ以内に武装解除しなければ撃つ」


 シオンは改めて拳銃の先をシェリングへと向けた。


「五、四――」


 躊躇いなくカウントが始められ、シェリングが怯み――ゼロになる前に、シオンの拳銃から弾丸が放たれた。しかしそれはシェリングではなく、シオンの背後で床に伏していたテロリストの一人を穿った。見ると、撃たれたテロリストの手には拳銃が握られており、シオンに銃口が向けられていた。それに勘付いたシオンが、咄嗟に止めを刺したのである。


 次の瞬間、大きな破裂音と共に、リビングがほんの一瞬、昼の太陽よりも強い光に満たされた。

 シオンは反射的に両目を右腕で覆う。


「閃光弾か!」


 右腕を退いて目を開けると、そこにシェリングの姿はなかった。

 さらには、


「ハルフリーダ! ハルフリーダ! どこにいる!?」


 ハルフリーダの姿もソファから消えていた。

 窓際では、カーテンが強風に煽られて激しくうねっていた。床にはガラスの破片が散乱しており、恐らくシェリングは、窓ガラスを突き破って外に出たのだろう。


 シオンはカーテンを払いのけ、外を覗いた。

 するとそこには、全裸のハルフリーダを肩に担いだシェリングが、ホテルの外壁の溝を使って器用に地上へ降りている姿があった。軍人上がりのライカンスロープの身体能力があれば、人間の女一人担いで高層ビルを外から降りることなど造作もないはずだ。


 追跡しようと、シオンが窓の縁に足をかけようとするが、


「カール君!」


 アルベルトが酷く青ざめた顔でシオンに縋りついてきた。


「娘が、娘が!」


 シオンは思わずバランスを崩し、危うくアルベルトごと窓から落ちそうになる。


「わ、わかっている。わかっているから離してくれ」

「娘を頼んだ! 助けてくれた暁には、君の言うことを何でも聞こう! お願いだ!」

「わかったから早く腕を離せ!」


 半ば強引にアルベルトを払いのけ、シオンは改めて窓の縁に足をかけた。

 そしてそのまま、五十階に位置するこのロイヤルスイートルームから地上へと、一気に飛び降りた。落下の衝撃に備えるため、瞬間的に“帰天”を使って体を強化する。それから間もなく地上へと到達し、勢いよく石畳の上に両足を着いた。


「どこへ逃げた?」


 割れた石畳の隙間から捲り上がる土煙に軽く咽ながら、シオンはあたりを見渡した。

 すると、


「シオン“卿”」


 そこに、イグナーツの姿があった。


「主犯のルドガー・シェリングは、ハルフリーダ・キルヒアイスを人質にしながら黒の中型トラックで逃走しました。平ボディに幌を張ったタイプですね。北西に向かって逃げたのを警察が確認済みです」


 淡々と状況を伝えてきたイグナーツだったが、シオンは咄嗟に眉を顰めた。


「逃走経路はプリシラが潰したんじゃないのか?」

「どうやら他にも逃走用の車を用意していたようで。してやられましたね」

「適当なことを……」


 呆れてシオンが嘆息するも、イグナーツは特に意に介した様子もなく話を続ける。


「それはさておき、追うなら足が必要です。“こんなこともあろうかと”、ちゃんとこちらも追跡手段を用意しておきましたよ」


 突如として、イグナーツの後方からエンジン音が鳴り響く。

 現れたのは、大型バイクに跨ったリリアンだった。リリアンはシオンの目の前にバイクを停めると、可憐かつ優雅な動きでふわりと降り、それから無言で彼に乗車を促した。


 あまりの準備とタイミングの良さに、シオンの顔が怪訝に歪む。


「どうしました、そんな怖い顔して? 早く追わないと逃がしちゃいますよ?」

「……随分と準備がいいが、アンタ、始めからこうなることわかっていたのか?」

「まさか」


 肩を竦めて即答したイグナーツ――しかし、胡散臭さは依然として払拭されなかった。

 だが今はそんなことは後回しと、シオンはリリアンから渡されたバイクに素早く跨り、エンジンを勢いよく吹かした。アクセルを全開にハンドルを切ると、タイヤと地面の間からけたたましい音が鳴り、直後にバイクが急発進した。


「お気をつけてー」


 どこか間の抜けた声で見送るイグナーツを背に、シオンは夜の街にバイクを走らせた。


 イグナーツから聞いた情報を頼りに、シオンは街中の車道を北西に向かって突き進んだ。車道を走る車たちの間を縫うようにバイクを走らせ、三十秒もしないうちに十台以上を追い抜かす。

 それから十分ほど走り続け――街の外れへと出て間もなく、目当ての車を発見した。

 黒を基調にした平ボディに幌を張ったタイプのトラック――それが走る様子は明らかに普通ではなく、何かから追われているかのように非常に荒い運転だった。


 シオンは、見通しのいい直線に差し掛かったところで、アクセルを全開にした。バイクは瞬く間にトラックの後方に付き、文字通り目と鼻の先にまで迫る。

 あとすんでのところで衝突するというところで、不意にシオンはバイクの上に立ち上がった。

 そして、バイクを蹴り、幌を突き破ってトラックの荷台へと侵入する。

 シオンは荷台の上で軽く前転して受け身を取ったあと、すぐさま面を上げて中の様子を確認した。


「無事みたいだな」


 そこには、一糸まとわぬ姿で体を震わせて縮こまるハルフリーダの姿があった。


「カール様!」


 ハルフリーダは、車道の照明灯を後光にするシオンを見るなり、酷く泣きじゃくった顔で駆け出した。そのままシオンの懐へと飛びつき、全身を埋める勢いで両腕を彼の腰へと回す。


「カール様! カール様! わたくし、怖かったです……!」

「無事ならいい。それより、このトラックを止めな――」

「嫌ですわ! 離れたくありません! わたくしを離さないでください!」

「いや、だからこのトラックを止めないといつまで経っても降りれな――」

「わたくしを抱き締めてください! カール様!」


 このトラックを止めない事には事態は収束しないというのに、ハルフリーダは一向にシオンから離れる様子を見せなかった。

 顔を顰め、ついに耐え兼ねたシオン――とりあえずジャケットをハルフリーダの肩に着せた後で、彼女の顎を軽く指で上げる。


「この際だ。今から大事なことを伝える」


 すると、ハルフリーダは先ほどまでの恐怖に染め上がった表情から一変し、恋する乙女のそれへとなる。


「は、はい……! わたくし、ハルフリーダ・キルヒアイス、心の準備はできておりますわ!」


 ハルフリーダの双眸には、期待に胸を膨らませるピュアな少女の輝きが宿っていた。そして、静かにその瞳が閉じられた時――


「俺はカール・エーベルトじゃない」


 シオンがカミングアウトし、


「……は?」


 ハルフリーダは目を点にして、呆然となった。


 この隙に乗じて、シオンはハルフリーダの身体を引き離す。続けて、畳み掛けるように、


「俺は、聖王騎士団所属円卓の騎士議席ⅩⅢ番――シオン・クルスだ。わけあって、カール・エーベルトを演じていた」


 イグナーツから受け取った自身の“剣のペンダント”を見せつける。


「だから俺は、アンタのお見合い相手でも何でもない。騙してすまなかった」


 そしてシオンは、固まったままのハルフリーダをそのままに、幌の上部を突き破って運転席の屋根へ移動した。そこからさらに左側へと移動し、運転席の扉を勢いよく開ける。


「な!? き、貴様――」


 シェリングが驚愕に目を丸くしたその瞬間、彼の身体は助手席の方へ勢いよく吹き飛んだ。扉を開けざまに、シオンが蹴りを一発放ったのだ。騎士の蹴りを食らったシェリングは、ライカンスロープといえども意識を失わせ、そのまま動かなくなる。

 その隙に、シオンがハンドルを切りながらブレーキを踏み、車を急停止させた。


「事後処理、面倒くさくなりそうだな。色々と……」


 ようやくほっと一息つけたのはいいものの、といった様子で、シオンは長い溜め息を吐いた。







 トラックに乗ってホテルへ戻ると、一番に駆け寄ってきたのはアルベルトだった。


「ハルフリーダ!」


 シオンに連れられたハルフリーダを見るなり、アルベルトは喜びと痛ましさが混ざり合った複雑な表情になる。


「ハルフリーダ! 大丈夫か!? 酷いことはされていないか!? しっかりしてくれ!」


 父に呼びかけられるも、ハルフリーダは何も反応を示さなかった。鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしたまま、心ここにあらずと言った様子で、呆然としている。傍から見れば、まさに悪漢たちに暴行を受けてしまったがために廃人となってしまった女そのものである。

 しかし勿論、彼女がこうなっているのはそんな事実があったからではない。


「か、カール君! 娘にいったい何があったんだ!? どうして何も反応してくれないんだ! テロリストに何かされたのか!?」

「いや、その娘には何も。ただ……」


 シオンはそこで言い淀んだ。ハルフリーダには本当のことを話したが、果たして今このタイミングでアルベルトに同じことを打ち明けるべきかどうか――と、頭の中で目まぐるしく悩んでいた時だった。


「ただ、なんだ!? 教えてくれ!? いったい何が――」

「お疲れさまでした、“シオン卿”」


 ふらっと、イグナーツがどこからともなく現れた。

 そして、イグナーツの言葉に、アルベルトが訝しげに眉を顰める。


「シオン……“卿”?」


 何の脈絡もなく、しれっとシオンの素性を明かしたイグナーツ――慌ててシオンが取り繕おうとするが、イグナーツは軽く手を挙げてそれを制止した。


「い、イグナーツ卿、いったい何を言っているのだ? この者はこの国の外交官の息子で、カール・エーベルトという――」

「彼は聖王騎士団に所属する騎士の一人で、シオン・クルスといいます」

「……は?」


 アルベルトが、娘と同じような顔で目を点にした。


「いえね、実を言うと、今回の会談に差し当たって、テロリストがあなた方親子を襲撃しようとしていること、私たちは事前に知っていたのですよ」


 突然、イグナーツがそんなことを言い出した。


「ですがあまり情報の確度がよろしくなく、本当に襲撃が実行されるかどうか、何とも言えない状態でした。だからといって不必要に警備を厳重にしてしまうと、かえってテロリストたちを刺激しかねないと思いましてね。そこで、シオン卿にはカール・エーベルトを演じてもらい、秘密裏に御令嬢のボディーガードをしてもらうことにしてもらったのです」


 とんでもない出鱈目を言ったイグナーツに、堪らずシオンも驚きで目を丸くさせる。


「襲撃を未然に防げず、怖い思いをさせてしまったことは大変申し訳ありませんが、お二人がご無事で本当に何よりです。テロリストたちも捕まえることができたし、一件落着ですね」


 ハハッ、と一人で愉快に笑うイグナーツだったが、アルベルトは驚きの表情のまま、石像のように動かない。


「さて、これでお二人の安全はしっかりと確保されたので、お見合いはまた改めてカール・エーベルトご本人と実施してくださいな。我々は事後処理がありますので、この辺で失礼します。シオン卿、貴方も手伝ってください」


 そして強引に話を終わらせ、イグナーツは踵を返した。

 呆気にとられて固まったまま動かないキルヒアイス親子――シオンは、恐る恐る近づき、申し訳なさそうに顔を俯けた。


「その……騙して悪かった……」


 それだけを言い残し、足早にその場を後にする。

 すると、


「これで、貴方たちの危ない悪戯は騎士団の任務として処理されることになり、キルヒアイス家からのあらゆる非難は我々に向けられることになりました。グリンシュタットが損害を被ることもないでしょう。貴方の命を助けた借りは今回の働きで返してもらいましたが、これでまた一つ貸しですね」


 前を歩くイグナーツが、背中越しにそう言ってきた。

 シオンは、してやられたと、無言のまま表情を酷く歪めた。


 結果的に大事にこそならなかったものの、この世で最も借りを作りたくない男にまた余計な借りを作らせてしまったと、シオンは心底悔やんだ。

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