第五章 お見合い事変

第169話

「ローマン・エーベルト? 誰ですか、それ?」


 ソファに座るステラが、ティーカップを片手にシオンにそう訊いた。

 首都方面へ向かう汽車の一等車は、内装全てが高級ホテルさながらのラウンジとなっていた。座ると腰が埋まるほどの豪奢なソファ、それに囲まれて、赤と金で彩られたテーブルが堂々と置かれている。奥には多種多様な酒が提供されるカウンターバーもあった。天井では小さなシャンデリアが、汽車の振動に合わせて小刻みに揺れている。


 シオンたちは五日ほどブラウドルフに滞在したあと、汽車で首都へ向かうことにした。いつ天候が荒れるかもわからない、それも土地勘のない雪道を車やバイクで移動するのは危険と判断してのことだった。

 バイクを手放すことにエレオノーラが最後の最後まで駄々をこねていたが、どうにかシオンが説得し、バイク屋に売り渡すことができた。


 そうして今朝にブラウドルフを発ってから、早五時間が経過し、今の時刻は十四時を回ろうとしている頃だ。

 車内サービスの昼食を終え、一息ついたところで、シオンが今後の話を始めたところだった。


「グリンシュタットの外交官だ。首都ゼーレベルグで目当ての要人と会うには、この男の承認が必要だ」


 シオンの回答にステラが小首を傾げる。


「承認?」

「私たちに成りすまして邪魔をしようとする輩がいないとも限りません。なので、その外交官を通じることで私たちが本物であることを首都にいる要人たちに証明してあげる必要があるのです」


 プリシラが、お菓子を盛った皿をテーブルに置きながら言った。ステラはそこからビスケットを一つ取ってサクサクと食べる。


「なるほど。具体的には何をするんですか?」

「まずは俺たちが間違いなく王女一行であることを、そのローマン・エーベルトという外交官に証明する。その後、エーベルトから紹介状なりを受け取ることになるだろうな」

「じゃあすぐに終わるんですね」


 ステラは特に心配した様子もなく、お菓子をつまみながらティーカップのお茶をすする。その話題にはそれきり興味を失ったのか、隣に座るエレオノーラと一緒になって、どのお菓子がおいしいかを話すようになった。


 不意に、車両の窓が開かれ、冬の冷気が室内に流れ込む。見ると、ユリウスが明けた窓の近くで煙草に火を点けていた。


「すぐに終わるといいけどな。最近はどこか立ち寄るたびに、何かしら事件に巻き込まれている」

「貴様がそうやって口にするからだろうが。あとここで煙草は吸うな。臭いし寒い」


 言いながら、プリシラがユリウスの口から煙草を取り上げて窓から捨てた。その後すぐに窓が閉められ、ユリウスは悪態をつきながら椅子に座ってそれきり黙った。


 そんなやり取りを尻目に、シオンが唐突に地図をテーブルに広げた。エレオノーラがお菓子のシュトレンを片手に覗き込む。


「で、そのローマン・エーベルトっていう人はどこにいるの? アタシたち今そこに向かってるんでしょ?」

「ここから三つ先の駅、リーデンフェルトだ。グリンシュタットで三番目に大きな都市と言われている」


 シオンが地図を指し示しながら説明すると、エレオノーラが顔を綻ばせた。


「リーデンフェルトかー。初めていくけど、ビールやチーズがおいしいんでしょ? 楽しみ」


 何気ないエレオノーラの一言だったが、プリシラが険しい表情で彼女に振り返った。


「観光しに行くわけじゃないのだぞ!」

「キレすぎでしょ……」


 突然の怒号に、何を大袈裟なと、エレオノーラが冷ややかな反応を示した。だが、その隣では、シオンも同様に少し呆れた視線を彼女に送っていた。


「お前、ブラウドルフにいる間もいいだけビールとチーズを飲み食いしただろ。飽きないのか?」

「な、なにさ。ヒトを食いしん坊みたいに言わないでよ」


 エレオノーラが頬を赤らめて恥ずかしそうに抗議する。

 それを見たプリシラが忌々しげに鼻を鳴らした。


「実際そうだろう。この数日で明らかに身体の体積が増えているのが何よりの証拠だ。今すぐシオン様から離れろ。デブ女が隣にいては窮屈な思いをさせてしまう」


 途端、エレオノーラが眉間と目尻に深い皺を寄せて眉の先を吊り上げた。


「あ?」

「お?」


 エレオノーラもプリシラも、その容姿の美しさはすれ違う男のほとんどが思わず振り返るほどである。それゆえに、怒りの感情のままに歪んだ美麗な顔は、酷く恐ろしいものだった。

 その苛烈さときたら、ちょうど両者の間に走る火花に当てられていたステラが、思わず竦み上がり、すぐに射線上から飛び退いたほどである。


「おい、こんなところでキーキー騒ぐんじゃねえぞ。てめぇらの声うるせえんだよ」


 騒動に乗じて、こっそりと再び車両の窓を開けて煙草を吸っていたユリウスが、堪らず釘を刺した。

 それは美女二人にとっては火に油を注ぐだけだったようで、


「そう言うお前はヤニ臭いんだよ! ていうか煙草吸うな、窓開けんな! 臭いし寒いだろうが!」

「そうだ! 室内がいつまで経っても温まらないではないか! 今すぐ飛び降りろ!」


 怒りの矛先がユリウスへと変わった。

 一瞬気圧されたユリウスだったが、すぐに椅子から立ち上がり、声を荒げる。

 車両内は三人の言い合いでたちまち喧騒に包まれた。


 そんな光景を一歩離れた場所で見ていたシオンとステラ――呆れの感情から出たため息が重なり、ステラがくすりと笑う。


「なんか、一気ににぎやかになりましたね」


 はにかんで言うステラを見て、シオンも少しだけ柔らかい表情になって目を伏せた。


「……そうだな」


 この時のシオンは、目の前の少女の心の強さに、一種の畏敬の念すらも覚えるようになっていた。

 初めて会った時の、世間知らずで、勢いだけで物事をどうにかしようとしていた子供は、シオンの目の前にはもういなかった。

 ステラは表面的には気丈に振舞っているが、未だにノリーム王国での自分の選択を気にしていることは、シオンにはよくわかっていた。それだけではない。アリスを助けられなかったこと、リズトーンで多くの亜人を死なせてしまったこと――どうにもならなかった出来事すべてが、ステラにとっては自ら課した重責なのだ。


 だがそうしたことを目の当たりにしたがゆえに、ステラの器は王としてのそれを形成しつつあった。


 エレオノーラの正体を本人の口から聞かされた時も、ステラは特に動じることもなく、淡々と受け入れた。混血であることなど一切気にせず、むしろそれがどうしたと言わんばかりの態度でいたことに、エレオノーラだけではなくシオンまでも面食らったほどである。


 ステラを信じてよかったと、シオンは一人、胸中で少しだけ誇った。

 これで勉強もできたら言うことないが――と思いかけて、ハッと意識を目の前に戻す。


 エレオノーラ、プリシラ、ユリウスの言い合いが、いよいよヒートアップしてきたからだ。


「あったまきた! 大体、アンタはシオンの何なのさ! 弟子だか何だか知らないけど、昔の関係引っ張り出して他人に突っかかってくるのやめてくんない!?」

「昔の関係ではない! 私は今も昔もこの先もシオン様の弟子だ! というかユリウス! 煙草の火をさっさと消せ! 迷惑だ!」

「どう考えたって迷惑なのはてめぇらの方だろうが! うるせえんだよ、クソが!」


 この騒々しさは、さすがに乗組員から注意を受けるだろう。

 シオンは顔を右手で覆いながら、がっくりと項垂れた。


「おい、本当にほどほどにしろよ。こんな寒い中で強制的に降ろされるのだけは嫌だからな」

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