第135話

 夕暮れの寒気が顔の腫れに障るのを感じながら、ラルフは王国騎士団の隊舎へと戻った。途中、自分を目にした他の騎士たちが驚いた顔をしていたのは、恐らく先の魔物の襲撃で死んだとでも思っているからだろう。まるで亡霊を目にしたかのような無数の視線がラルフに向けられていたが、彼は構わず、隊舎の奥へと進んでいった。


 不意に背後から人の気配を感じたのは、隊舎奥へと続く廊下を歩いている時だった。

 ラルフが振り返ると、


「ラルフ!」


 そこには、ラルフのかつての婚約者であり、王国騎士団六番隊を率いる隊長――セシリア・ロスの姿があった。セシリアは、疲れた表情で目の下に軽い隈を作っていたが、ラルフの顔を見た瞬間、驚きと喜びに頬の筋肉を緩めた。


「無事だったのね! 貴方の姿をどこにも見なかったら心配していたの。顔を酷く腫らしているようだけど、大丈夫?」

「お気遣いありがとうございます、ロス隊長。痛みは強いですが、特段、命に別状はありません」


 ラルフは、それまでの鬱屈した様子を微塵も感じさせないほどに機敏な動きで敬礼をしてみせた。

 対するセシリアは、ほっとしつつも、どこかぎこちない笑みを返す。


「それならよかった。でも、暫く安静にしていてね。あと、そんな堅苦しい態度はやめて。今は私たち二人しかいないでしょ?」


 言われて、ラルフは廊下の前後を見てみた。セシリアの言う通り、周囲に人影は他にない。一定間隔で天井に吊るされた電灯が残す影は、二つだけだ。


「……君と親しげに話しているところを誰かに見られたら、また誰に何を言われるかわからない」


 無意識に声を潜めてラルフが言うと、セシリアは肩を竦める。


「なら、少しだけ貴方の部屋にお邪魔してもいい? ちょうど陛下たちの警護を交代したところで、この後の夜間警護に備えて仮眠を取る時間をもらったの」

「……すまないが――」

「ガリア公国とどうなるのか、聞きたくない?」


 断ろうとしたラルフだが、あたかもそれに食いつくとわかっていたかのような言葉でセシリアが誘ってきた。


 ラルフは小さく息を吐き、無言で自室へと歩みを向けた。その後ろを、セシリアが追う。


 騎士が寝泊まりに使う隊舎の部屋は、役付きでもない限り、基本的には二人から四人で住まう相部屋だ。だが、ラルフに関しては違った。一般の騎士の中でも、彼だけが個室を与えられている。しかしそれは、優遇とは真逆の意味での待遇だ。

 ラルフの部屋は隊舎の地下にあり、物置に隣接する粗末なものだった。もとは周囲の物置と同様に扱われていた部屋だが、ラルフの入団と同時に彼専用の個室として与えられたものだ。部屋の中にはベッドと小さなテーブル以外に何もなく、ひび割れた石造りの壁、床、天井からは絶えず小さな虫が侵入してくるような有様だった。

 だがそれでも、ラルフはこれでよかったと思っている。下手に他と騎士と相部屋になれば、それこそこれ以上に酷い扱いを受けていたかもしれない。それを鑑みれば、彼にとってはこの上ない良物件であった。


 部屋に入った二人は、そのままベッドに腰を下ろす。

 それから間もなく、セシリアが口を開いた。


「結論から言わせてもらうと――ガリアと軍事同盟を結ぶという方針は、七割がた決まっていると思っていい。陛下としては、あとはガリアから提示された条件をどこまで呑むかということが焦点みたい。どうにかして交渉に持ち込もうと、今も大臣たちを集めて必死に話し込んでいる」


 神妙に語ったセシリアに、ラルフが眉を顰める。


「ガリアとは何を交渉するつもりでいる?」

「ガリア軍を常駐させるためにノリーム王国の領土の一部をガリア公国に譲渡することは、もう呑むしかないと陛下は諦めている」

「じゃあ、陛下は亜人の引き渡しに難色を示しているのか?」

「……ええ」


 ラルフは少しだけ表情を明るくした。今の今まで亜人の劣悪な扱いに何の対策も施さなかった国王が、ここにきてようやく道徳的な考えに至ったことに感動したのだ。


「そうか。陛下もようやく――」

「でも、貴方が期待しているようなことで悩んでいるわけじゃない」


 しかし、矢で射抜くように鋭いセシリアの声が、その感情を刺した。

 ラルフの顔から、すぐに感情が消える。


「陛下が心配されているのは、労働力の確保についてなの。この国の亜人には、誰もやりたがらない過酷な重労働や、過剰な接待を求められる接客業に就かせている。陛下は、亜人全員がガリアに引き渡されることで、この国の経済や国民の生活基盤が崩壊することを強く懸念しているの」


 淡々と、セシリアは無念そうに言った。

 途端、ラルフが体を震わせる。


「――どうして……!」


 食いしばった歯列から絞り出された声に、セシリアが首を傾げる。


「ラルフ?」

「どうしてどいつもこいつも亜人に対してそこまで酷い扱いができる!? 亜人だって俺たち人間と同じように意思があり、感情がある! 犬猫家畜とは違うんだぞ!」


 そう叫びながら、ラルフはベッドから勢いよく立ち上がった。それを宥めるようにセシリアも立ち上がる。


「貴方の言いたいことはよくわかる。でも、現実を見て。この国は、亜人たちに過酷な労働をしてもらわないと機能しないほどに困窮している。今すぐに何かを変えるなんてことは到底できないの」

「そんなことはわかってる! だから俺たちは昔約束したんだろう! 教会魔術師になって、騎士団で出世して、政治にも強い影響力を持てるようになって、誰もが平和で豊かに暮らせる国にしていこうと!」


 ラルフに両肩を掴まれたセシリアが、彼から視線を外した。


「……そうね」

「君はその教会魔術師になれたというのに、いったい何をしている!? 話に聞くのはいつも役人たちの今日のご機嫌具合だ! 君が教会魔術師として、六番隊の隊長として煌びやかな活躍をしている間に、ミーアたち亜人がいったいどれだけ辛い目に遭ったのか、知らないはずがないだろ!?」

「……そういう貴方は、教会魔術師にすらなれなかったじゃない」


 ラルフからの責め苦を受けたセシリアが、悍ましいほどに冷たい声を返した。彼女は視線を下に向けたまま、幽鬼のような顔になる。


「幼少の頃から大事に育てられ、色んな人の期待を一身に受け、いずれはこの国を背負う有望な人材と評されていたのに――肝心なところで“才能がなかった”なんてオチ、冗談でも笑えないわ。それに、他力本願で願う平和ほど滑稽なものはない」


 その恨み言には、地を無数に這う害虫の気味悪さに似た凄味があった。

 ラルフは今までに見たこともないセシリアの不気味な気迫に気圧される。そこへ、


「ねえ、ラルフ。こんな地下室に押し込められたのを耐えてまで、貴方は何を守りたいの? 度重なる魔物の襲撃と経済の困窮に喘ぐこの国? それとも、奴隷制度が撤廃されてもなお虐げられている亜人たち?」


 セシリアが、先ほどまでと打って変わり、気遣わしげな顔を上げてみせた。しかし、依然として妙な影は残ったままである。

 今度はラルフが視線を床に落とした。


「……守れるものはすべて守りたいに決まっているだろう!」

「ちなみに、今の私にはどちらも守れそうにない。教会魔術師と、騎士団の部隊長という肩書だけでは、あまりにも無力すぎる。せいぜいできるのは、魔物や敵兵に襲われる国民を守ることくらい。私ですらできないんですもの。到底、貴方に守れるはずもないわ」

「わかってる! だが、だからって亜人を犠牲にしていいわけではない!」


 ラルフは再度セシリアの両肩を揺らした。


「セシリア、君は何も思わないのか! 君は国民を守ることしかできないと言ったが、亜人を都合よく虐げるこの国の人間に、それこそ守ってやる価値なんてあるのか!?」


 セシリアは、どこか憐れむような顔で、じっとラルフを見つめている。


「もし本当に、陛下が亜人をガリアに売るようなことをすれば、俺は――」

「聞いて」


 その先を言わせまいと言わんばかりに、セシリアが遮った。ラルフは、思わず面食らった顔になる。


「国の決定に意を唱えてまで貴方が自分の信念を貫くというのなら、好きにすればいい。もう婚約者でも何でもない私には、貴方を止める権利はない。でも、これだけは覚えておいて。貴方が自分の信念に従うように、私は国の理念に従う」


 そう言ったセシリアの表情に、ラルフの知る女の姿はなかった。一国の防衛を任された戦士の顔は、寒気を感じるほどに無機質だった。


「もしこれ以上、自分勝手な考えで何かしようものなら、私は国を守る騎士として、貴方を――」


 そこで区切られた台詞に、一瞬の間が空く。セシリアは大きく吸い込み、長い息を吐いた。そうして次に見せた彼女の表情は、いつもの穏やかな女性のものに変わっていた。


「ごめんなさい。それは言い過ぎね。私はただ、貴方に現実を見て、自分の立場を理解してほしいだけなの」


 セシリアは、自身の両肩に置かれたラルフの手をやんわりと下ろし、部屋の扉に向かって踵を返す。


「私も少し疲れているみたい。自分の部屋で仮眠してくる」


 そう言い残し、セシリアは部屋から出ていった。

 一人残されたラルフは、立ち尽くしたまま動くことができなかった。

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