第136話
時刻は十九時を回り、外は夜の静けさに包まれていた。点在する街灯が照らすのは、しんしんと降る小さな雪の粒だけだ。人通りが極端に少ないのは、恐らくは日中にあった魔物の襲撃を警戒してのことだろう。
「今夜は急に客が少なくなったな」
ステラたち三人は、ホテル一階のレストランで夕食を取っていた。
一足先に皿の上を空にしたユリウスが、食後のコーヒーを手にしながら不意にそう言った。レストランには、二人掛け、四人掛け、六人掛け、それ以上のテーブルが合計二十以上並べられているが、埋まっているのは全体の二割ほどである。
「魔物の襲撃を警戒して、今日は外に出るのを控えているのだろう。無理もない」
プリシラが食事の手を止めずにそう推理した。彼女はその後で、ふとステラを見遣る。
「ステラ様、あまりお食事の手が進んでいないようですが、いかがされました?」
ステラは、料理にほとんど口を付けていなかった。ナイフとフォークを手にしたままの姿勢で、じっとテーブルに視線を落としている。
「……もし私が女王になったら、この国が抱えるような問題にも向き合うことになるんですよね」
眉根を寄せたステラが、ぽつりとそう呟いた。
ユリウスが鼻を鳴らす。
「シビアな現実を見せつけられて、怖気づいたか?」
その言葉に、ステラはさらにしゅんとなる。無理もない、十五歳の少女が一国の主になろうとしているのだ。それもそうだろうと、ユリウスとプリシラは顔を見合わせて互いに肩を竦める。
「ステラ様。シオン様から言伝をひとつ預かっています」
「言伝?」
プリシラから唐突に言われ、ステラは首を傾げる。
「“もし女王になることが嫌になったら、すぐにプリシラとユリウスに言え。二人に従って、大陸の外に逃げるといい”」
途端、ステラは吃驚した顔で勢いよく椅子から立ち上がった。
「そんな! 私、信用されていないんですか!?」
「いいえ、それは違います」
反射的に声を張り上げたステラの問いを、プリシラが間髪入れずに否定した。
隣で、ユリウスが煙草に火を点け、大きく吹かす。
「あいつはてめぇにオッズを張った。だが、んなもん気にせず最後はてめぇ自身で生き方を選べってことだ」
ステラがさらに困惑した顔で眉根を寄せる。
「どういう意味ですか?」
「ログレス王国の女王になる重荷に耐えきれないと判断した場合は、それもまたステラ様の正しいお考えであり、ご自身の人生を優先するべきだ、ということかと」
プリシラからの回答を受け、ステラは誰の目から見てもわかるほどに激しく動揺した。
「そんな! 私は――」
「生まれた血で自分の生き方を決められるのも癪だろ。てめぇの生き方くらい、てめぇで決めろよ。無責任だなんだと罵る輩が腐るほど出てくるだろうが、自分の人生あっての命だ。顔も合わせたことねえ自国民のために一生を捧ぐことに耐えられないってんなら、それもまた一つの答えだ」
まあ落ち着けと言わんばかりに、ユリウスがステラを宥めた。彼の口調は特に責めているわけでもなく、まして諭している風でもなかった。ただ、淡々と、ステラの真意の受け皿を用意しているような口ぶりだ。
ステラは椅子に座り直し、徐に口を開く。
「……あの、お二人は――」
「俺たちに身の振り方を聞いても無駄だぜ。“それでも女王になりますぅ”って言うなら“おう、頑張れ。こっちも協力してやるよ”としか言わねえし、“実は私、女王になりたくないんですぅ”って言われたところで、“そうか、じゃあ大陸の外に逃がすからな”、としか答えねえぞ。この件に関しては、純度一〇〇パーセント、てめぇの意思じゃないと意味がねえ」
釘を刺すようなユリウスの言葉に、ステラが小さなショックを受けた面持ちになって目をきつく閉じる。それから彼女は、長い息を吐いた。
「……いえ、何でもありません。私は、大丈夫です」
そしてそのまま、再度椅子から立ち上がる。
「私、少し疲れているみたいなので、先に部屋に戻って寝ようと思います」
「かしこまりました。それでは――」
ステラの後を追うようにプリシラも席から立つ。プリシラはステラの警護を任されているため、基本的に二人はお互いに目の届く範囲で行動しなければならない。部屋に戻るにしても、プリシラの同伴は必須だ。
だが――
「すみません。少しだけ、部屋で一人になってもいいですか? 十分だけでいいので……」
そう言って思いつめた表情になるステラを見て、プリシラは彼女の心中を察し、再び椅子に腰を下ろした。
「……かしこまりました。ですが、十分だけです。それまでには、私も部屋に戻ります。どうか、ご容赦を」
「はい。ありがとうございます」
ステラは静かに承諾して、レストランを後にした。背中に暗い影を落とすステラを無言で見送ったあと――プリシラは食事を、ユリウスは煙草とコーヒーによる一服を再開する。
「俺ならさっさと大陸の外に逃げて自由を謳歌するけどな。あのちびっ子、気骨があるのか、それともクソ真面目なのか――後者だったら、二十歳になる前に頭禿げ散らかしてるだろうな」
「ステラ様は貴様と違って高貴で繊細な方なのだ。一緒の目線で考えるな」
プリシラがユリウスの見解を一蹴した。
「それは結構なんだが――あの王女、ガキであることを抜きにしても、国の政治に向いているとは到底思えねえ。同年代の子供と比べても優しすぎる」
「ああ。非情な決断を一人だと選べないタイプだろう。捨てるという選択肢を、無意識のうちに外している感じがする」
ユリウスは紫煙を吐き、どことなく呆れた顔で引きつらせた。
「まったくよお、シオンも色々変わったな。まさか、あんなガキに自分の余生を全部賭けるとは。あいつも昔は教皇に似て、利用できるものは利用してさっさと切り捨てるタイプだったんだがな。まあ、“最愛のヒト”を失って、二年間も投獄されりゃあ価値観の一つも変わるか」
「多分、違う」
多分、という言葉が付けられたものの、プリシラの口調はやけに明瞭だった。
「あ?」
「シオン様が変わったのは、恐らくここ数ヶ月の話だ。ステラ様が、シオン様を変えたのだ」
プリシラが、シオンの事情を知っているかのように語り出した。思わずユリウスは怪訝に顔を顰める。
「なんでそう思う?」
「居心地がいい。ステラ様は、自分の存在を否応なしに無条件で認めさせてくれるのだ。この数日の間一緒にいるだけでも、それは強く感じた。恐らくはシオン様も、そんなステラ様の器に触れ、心境を変えられたのだろう。復讐以外に何もないと思っていた自分の存在を認められたことで、少しずつ心に余裕が生まれ、結果、かつて“リディア”様と語った理想の世界を再び目指そうと思ったのだと、私は考える」
「珍しいな、お前がシオン以外の奴をそこまで褒めるなんて。そういや、あの王女も多分シオンに好意を持っているんだろうが、お前、あの“紅焔の魔女”とかいう女魔術師の時と違ってヒステリー起こさねえな。さすがに大国の王女相手には尻込みしているか?」
ユリウスが露骨に揶揄って厭らしい顔になるが、プリシラは嘲りで鼻を鳴らすだけだった。意外にも、その反応は落ち着いていた。
「馬鹿が。そう思うのなら、そう思っていればいい」
「普通に馬鹿にされたみたいでいつも以上にムカつくな。どういう意味だよ?」
「わからないのなら知る必要もない。それより――」
プリシラが皿の上の料理を完食し、ナイフとフォークをテーブルに置く。
「貴様こそ、シオン様への怒りを鎮めた方がいいのではないか?」
ナプキンで口元を拭き取るプリシラ――対して、ユリウスは鋭い目つきになり、誰もいない虚空を睨んだ。
「貴様の弟子が死んだ真相を、副総長と、シオン様本人から聞いただろう。あれを受け入れられないほど、お前も子供ではないはずだ。もはや不毛な怒りだろう」
プリシラが諭すように言ったが、ユリウスは依然として険しい表情のままだ。
「……それとこれとは別の話だ。どのみち、俺の弟子が死んだきっかけを作ったのはシオンだ。赦すつもりは毛頭ねえよ。事が全部片付いたら、必ず殺す」
低い声で唸ったユリウスは、煙草の灰が落ちていることにも気付かないでいた。それを見かねたように、プリシラが嘆息する。
「当初、お前の弟子のカタリナは、シオン様を止めるために任務へと赴いた。だが、シオン様が実際にやっていたことを目の当たりにし、彼女もまた騎士の矜持に従い、分離派に与する形となった。彼女は、決してお前を裏切ったわけではない」
ユリウスにはそれが説教染みたように聞こえ、彼は思わず舌打ちをして乱暴に足を組んだ。
「それを理解できないほど拗らせてねえよ」
「念を押しておく。確かにカタリナはシオン様に憧れていた。だが、それは決して恋情によるものではない。私が言うのだ、間違いは――」
「うるせえな! んなもんはどうでもいいって何度も言ってんだろうが!」
プリシラに皆まで言わさず、ユリウスが苛立ちに任せて吠えた。ユリウスは短くなった煙草を一気に吸って勢いよく吐き出し、コーヒーを雑に喉に流し込む。それから煙草の火を消して、椅子から立ち上がった。
「クソが、コーヒーがまずくなった。俺は部屋に戻るぜ」
「そうだな、そろそろ戻るか。ステラ様には悪いが、やはり一人にしておくのは少々――」
そう言ってプリシラも椅子から立ち上がった時、会話が止まった。二人の視線の先は、レストランの出入り口へと向けられている。そこには今しがた入店した四人組の男たちがいたのだが――
「こいつは思いがけない幸運だ。まさか、ガリア大公もこのホテルに泊まるなんてな」
その中に、ガリア大公カミーユ・グラスの姿があったのだ。他の男たちが持つ手荷物を見る限り、彼らもこのホテルに宿泊するものと思わる。
それを見たユリウスが愉快そうに口の端を歪め、プリシラも頷いた。
「ああ。ガリア公国がこの国で“本当にやりたいこと”を知れそうだ。あの覇権主義国家が、小国相手に大人しく同盟を結ぶとは思えない」
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