幕間 嫉妬ガール
第124話
ラグナ・ロイウの港を出発して約三時間後――連絡船は大陸本土に着港した。時刻は十五時を回っており、冬の寒気で満たされた西の空はすでに朱色に染まりかけている。
「ラグナ・ロイウの港を出たのは昼前だったのに、もう十五時を過ぎているのか」
港を出てすぐに、シオンが港の時計台を見て言った。その隣では、エレオノーラが荷物を地べたに下ろし、体を大きく上に伸ばしていた。
「ラグナ・ロイウと大陸本土を繋ぐ連絡船はなんだかんだで二、三時間はかかるからね。で、どうする? 早速、グリンシュタットに向けて出発しちゃう?」
訊かれて、シオンは傾きかけの太陽を見ながら顔を渋くする。
「いや、もう二時間もしないで日が沈む。これから小国地帯に入ることを考えれば、明日改めて出発した方がいい。それに、この国を出る前に色々準備を整えておきたい。今日はこの港町で一泊しよう」
「うい」
エレオノーラは軽い返事で同意して、荷物を担いだ。魔術を行使するためのライフルを収めた縦長のスーツケースに、着替えなどの日用品が入ったスーツケース――三ヶ月前と同じ手荷物だ。
そうしている間にさっさと歩きだしてしまったシオンの後を、エレオノーラは短い不満の声を上げて追う。
と、
(……あれ?)
不意にあることに気付き、心の中で声を漏らす。
(ちょっと待って、こいつと二人きりでホテルに泊まるの?)
三ヶ月前であれば、ここにステラを加えて三人で宿泊していたが、これから暫くはそういうことになるのだろう。
途端、エレオノーラは顔に火が点くような思いになり、目を剥いた。まるで心臓が耳元に来たのではないかと思うほどにバクバクと大きな音が鳴り始め、脈が急速に速まっていく。両足はがくがくと妙な震え方をし、“シオンと二人っきりでホテルに泊まる”という言葉が延々と頭の中で反響していた。
それから暫くの間、自身の行動をエレオノーラは記憶していなかった。気付けば、どこかのホテルの受付に立っており、目の前ではシオンが淡々と手続きを済ませていた。
そして――
「お前の部屋の鍵だ」
シオンが一人部屋を二つ借りて、片方の鍵をエレオノーラに差し出した。
「……ですよねー」
エレオノーラが鍵を受け取り、表情を無にする。彼女の今の気分はというと、いうなれば、数日前から楽しみにしていた祭りが突然の雨で中止になってしまった、という感じだった。
勝手に何かを期待して、裏切られ――エレオノーラは、担ぐ荷物以上の重みを肩にぶら下げているような姿勢で、とぼとぼと自室に向かって行った。
そんな時、
「エレオノーラ」
彼女の背に、ふとシオンが声をかける。エレオノーラが恨めしそうにジト目で振り返ると、
「一時間後くらいに俺の部屋に来てくれ。三〇三号室だ。俺はこれから電話を――」
シオンがそう言った刹那、彼の言葉をすべて聞き取る前に、それがスタートダッシュの合図であったかのように、エレオノーラは自室に向かって駆け出した。
エレオノーラは部屋に入った直後に荷物を放り出し、すぐにバスルームへと向かう。バスタブにお湯を張るのと同時に目にも止まらぬ速さで全裸になり、全力でシャワーを浴びだした。
(え、嘘、マジで!? あれって、やっぱ“そういうこと”なの!? “そういうこと”だよね!? アタシ誘われたんだよね!?)
火起こしをするかの如く備え付けの固形石鹸を両手で擦り出し、夥しい量の泡を発生させる。それらを体中に満遍なく塗りたくったあとで、今度は凄まじい勢いで頭を洗い始めた。
(やばい、やばい! どうしよう! アタシ何も知らない! どうすればいいの!?)
シャカシャカと音を立てる頭からは絶えず泡が吹き出し、エレオノーラの頭は白いアフロになっていた。次にエレオノーラは、頭に白いアフロを作ったまま、身体を泡で入念に擦り始める。
(あいつは元カノいたし絶対色々知ってるしやってるよね? どうしよう、笑われる? 十九歳にもなって何も経験ないのってやっぱ笑われる? 今時この歳でキスひとつしたことないってやっぱおかしい?)
エレオノーラは一度全身の泡を洗い流し――また石鹸を手に取って同じことを繰り返した。
(と、とにかく堂々としなきゃ! シオンに舐められないようにしなきゃ――舐められるかもしれないけど――って違うわ! もう何考えればいいのか……!)
二度目の洗い流しを終えたあと、エレオノーラは勢いよくバスタブに飛び込み、浸かった。そのまま流れる所作で歯ブラシを口に咥え、歯茎から血が出る勢いで磨きだす。そうして、磨いては口を濯ぎの動作を三回ほど繰り返し――不意に勢いよくバスタブから上がり、洗面台の鏡の前に立った。
(全身くまなく洗った。歯もめっちゃ磨いた。あと他にすることは……)
小さな鏡の前で体の色んな箇所を確認し始める。到底、他人の前では見せることのできない体勢になりながら、鏡に映る自分をチェックし――脇の端を見て、目を見開いた。
「毛!」
エレオノーラは、手入れが漏れていた箇所を見つけ、すぐさま剃刀を手にする。それから彼女は、剃り残しを恐れるがあまり、すでに不毛の大地と化している箇所の肌の上にまで念入りに剃刀の刃を滑らせた。
「……ここまでやればいいだろ。やり過ぎてちょっと皮膚赤くなってるけど」
そう言って、赤くひりひりする場所を軽く擦る。
エレオノーラはバスルームから出たあと、手早く体を魔術で乾かした。続けて、スーツケースの中の衣服をベッドの上にばらまき、全裸のまま吟味する。
(服はどうすれば……やっぱりセクシーなの? いや、そもそもそんなの持ってきてないし)
旅をするために持ち出した衣服は、どれも軽くて丈夫な動きやすいものばかりで、到底、色気を放てるようなものではなかった。
エレオノーラはその事実を渋い顔で受けつつ、今度はベッドの端に並べた下着に目を遣る。
(せめて下着はちゃんとしないとね……ここ一番で上と下が合っていないとか論外でしょ。ああもう、こんなことになるなら宿入る前に新しい下着買っておけば……)
そんな心の声をぶつぶつと漏らしながら、エレオノーラはこれから身に付ける下着を選びに選び抜いた。
それが三十分ほど続き、
「……よし!」
上下黒の下着をつけた自分の姿を鏡越しに見て、己を鼓舞するかのように鼻息を勢いよく吐いた。
それからエレオノーラは部屋のバスローブを着て、シオンの部屋へと向かう。すぐ隣の彼の部屋が、やけに遠く感じられた。
扉の前に立ち、一呼吸置いたあと――エレオノーラは意を決した表情で、扉をノックする。
数秒の間の後、徐に扉が開かれた。
「随分遅かったな――って、もう風呂入ったのか。だから遅かったのか」
姿を現したシオンが若干驚いたように言って、
「そ、そう? そんなに時間かかった感覚ないけど、普通じゃない?」
エレオノーラが視線を外しながら、髪の先を指でいじりつつ答えた。
その後、エレオノーラはシオンに案内されるがまま、部屋の中へと入っていった。
「とりあえず適当に座ってくれ」
シオンに促されるも、エレオノーラは立ち止まって固まる。
(……こういう時って、どこに座ればいいの? 普通にソファ? それともいきなりベッド?)
再び、体が火照り、脈が大太鼓を叩くかのように大きくなるのを感じながら、エレオノーラは真剣に悩んだ。
そこへ、
「どうした、座らないのか?」
訝しげに眉を顰めるシオンに訊かれ、
「は、はあ!? んなわけないでしょうが!」
エレオノーラは反射的に、激怒するような声でそう言い返した。それから、ずんずん、と重い足音を立てながら、ベッドに腰を掛ける。
「ほら、座ったけど!? さあ、何すんの!?」
半ばやけくそに、声を上ずらせながら言った。自身の隣を手でバンバンと叩きながら、威嚇するような形相でシオンを見る。
シオンは、興奮状態の猫を目の当たりにしたかのように顔を顰め、恐る恐るソファに座った。
そして――
「明日からの予定について話しておきたい」
すぐに神妙な面持ちになって、そう切り出した。
エレオノーラの顔から、すん、と表情が消える。
「どうした?」
「……あ、そ」
急に大人しくなったエレオノーラを見て、シオンが心配そうに訊くが、彼女はどこか燃え尽きたように双眸を虚ろにする。
それには構わず、シオンは表情を引き締めた。
「さっきプリシラと電話を繋げることができて現況を聞くことができた。ステラたちは色々あって、今はグリンシュタット手前の小国で立ち往生を食らっているらしい。本当はグリンシュタット国内で合流する予定だったが、あいつらが入国できる目途が付かない以上、俺たちもその小国に――」
「ちょっと待って」
真面目な話を始めたシオンだったが、突然、エレオノーラが息を吹き返したかのように遮った。
「プリシラって誰?」
「三ヶ月前にお前も会っている。アルクノイアとグラスランドで」
シオンの回答を受け、エレオノーラの目が据わる。
「あの銀髪ぱっつんボブの女騎士? アルクノイアで、アタシに色々事情聴取してきた?」
シオンは、エレオノーラから発せられる異様な雰囲気に困惑しつつ、静かに頷いた。
「何であいつがアンタと仲良くしてんの? あいつ、アタシのこと何度か攻撃してきた覚えあるから嫌いなんだけど。あとなんか、妙にアンタに懐いている感じがしたけど。どういう関係なの?」
「俺の弟子だ。グラスランドでの一件のあと、仮死状態から復活した俺を付きっ切りで看病してくれたのがプリシラだ。お前の言う通り、三ヶ月前は敵対する立場だったが、今は協力者だ。信用していい。ちなみにもう一人、ユリウスっていう幼馴染の騎士が――」
「付きっ切りで看病?」
エレオノーラが無表情のまま、それでいて瞳に不気味な光を灯して首を傾げた。
シオンはそれに微かに怯みつつ、説明を続ける。
「か、仮死状態から目を覚ました後、俺は暫く五感を失って指ひとつ動かせない状態だった。その時にプリシラが俺の面倒を見てくれた。看病というよりは、介護に近かったかもな」
「シャワーとか、トイレとかもその女が?」
「……た、多分。だが、要介護状態の間は意識も朦朧としていたから、詳しいことは覚えていない」
エレオノーラから発せられる、形容できない強烈な圧を受け、シオンは怯えるように、かつ意味もなく釈明するかのように答えた。
それから暫くの間、室内の空気が凍てついたかのような静寂が訪れる。聞こえるのは、時計の針が進む音だけだ。
そんな、一秒が一時間にも錯覚する重い時が微かに流れ――
「まあ、いい」
「なにが?」
見逃したエレオノーラが言って、シオンがどっと疲れたように訊いた。
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