第121話

「……砲撃が止んだ?」


 シオンが夜空を見上げながら言った。彼に支えられていたエレオノーラも、徐に顔を上げて周囲を見渡す。

 街の中は、先ほどまでの騒ぎがまるで嘘であったかのように静まっていた。家屋が焼け落ちる音と住民の悲鳴は依然として聞こえるものの、大気を震わせる爆音はどこからも聞こえない。


「どうしたんだろう……?」


 エレオノーラが不安げな面持ちでシオンを見上げるが、彼もまたわからないと首を横に振った。

 ラグナ・ロイウの街は、砲撃が開始されて数時間の間に一変したが、まだ全体の二割ほど――東区と呼ばれる部分しか壊滅しておらず、粛清が完了したと判断するには中途半端な状態である。


 だが、そんな疑問も、すぐに放念せざるを得なかった。


 シオンが咄嗟にエレオノーラを自身の後ろに引かせる。何故なら――


「ここまで死にかけたのは、騎士の時でもなかった」


 ランスロットが、こちらに向かって、徐に歩みを進めていたからだ。“帰天”を使って体を再生させているものの、もうあまり力が残っていないのか、ところどころ生傷がそのままになっている。不気味なほどに落ち着き、平然としているが、相当に弱っていることには違いないだろう。


 しかし、それはシオンも同じだった。


「シオン!?」


 突然、膝を折って石畳に手を付くシオンに、エレオノーラが驚いた。シオン自身も目を丸くさせている。それでもどうにかして立ち上がろうと体に力を込めるが、


「戦いで血を流し続けたうえ、“悪魔の烙印”の抑制を払いのけるほどに“天使化”の力を強めたのだ。もう、まともに立ち上がることすらできまい」


 ランスロットの言葉通り、シオンはついにうつ伏せに倒れた。辛うじて意識は保っているが、四肢ひとつ動かせない状態だ。できることと言えば、ランスロットを睨みつけることだけだ。

 無様な姿を見せる弟弟子を見て、兄弟子はつまらなさそうに鼻を鳴らす。


「お前の結末は、くだらない形で迎えることになりそうだな、シオン」


 そう言って、ランスロットがシオンに近づく。咄嗟にエレオノーラが前に出てライフルの先を突きつけるが、ランスロットは特別臆した様子もなく淡々と迫ってくる。


 なす術なしか――と、シオンが強く歯噛みした時だった。

 不意に、いくつかの人の気配を近くに感じ取る。


「双方、そこまでだ」


 夜の凍てついた空気を介して、シオンとランスロットの間を初老の男の声が割いた。

 シオン、エレオノーラ、ランスロットが、その声がした方角を同時に見遣る。

 そこには、三人の男が立っていた。


 一人は、酷くボロボロになった状態のネヴィル。もう一人は、肩や腕、股関節などに短剣を差し込まれ、身体を拘束されたトリスタン。そして最後の一人をシオンが見て、


「総長……」


 思わずといった声を上げた。シオンはエレオノーラに肩を借り、徐に立ち上がる。

 すると、総長ユーグ・ド・リドフォールの目が興味深げに細められた。


「久しぶりだね、シオン・クルス君。もうその体では暫く暴れることはできないだろうが、念のため言っておこう。そのまま大人しくこちらの言うことを聞いてもらいたい」


 ユーグの言葉を聞いて、シオンは尾を下に巻く犬のようにしおらしくなった。

 一方で、


「まさか貴方がこの街にいたとはな。それに、トリスタン枢機卿猊下が随分と酷い有様になっているようだが、これはいったいどういうことで?」


 ランスロットが殊更に苛立ちを携えた顔で訊いた。


「彼には交渉材料になってもらった。ついさっき、街への砲撃を止めてもらったところだよ、取り急ぎな」


 ユーグの回答に、ランスロットはさらに顔を顰める。


「粛清の判断は教皇猊下のご意思だ。砲撃を止めさせるということは、猊下に対立すると――」

「対立すると捉えてもらって結構。我々騎士団は、今回の教皇庁の横暴かつ残虐な行為に、正面から抗議する。十字軍なる軍事組織を騎士団の承認なく結成、運用し、あまつさえ罪のない民間人を大勢巻き込んだ粛清などという悍ましい行為に及ぶなど、到底容認できない」


 何一つ濁すことなく明言したユーグに、ランスロットがたじろぐ。


「これ以上の話は、教皇庁、もしくは騎士団本部に戻ったうえでさせてもらおう。無論、教皇猊下を交えてな。それでもまだ納得できないというのなら、ランスロット枢機卿猊下、今ここで貴方を打ち倒してしまってもいい。交渉材料は、一人いれば十分だからな」


 その言葉が脅しでも虚勢でもないことは、この場にいる全員が如実に感じていた。五十代半ばの初老の男から発せられる異様な覇気が、この上ない証明となっていたのだ。まして、その傍らに拘束されたトリスタンがいるのだから、なおのことである。

 ランスロットは微かに歯噛みし、ユーグを睨みつけた。


「聖女アナスタシアはいかがされるので? 彼女は貴方と同行していたはずだ。教皇猊下に匹敵するほどの権力者を、貴方の護衛なしに――」

「聖女の件は心配ご無用。すでに私の代わりの議席持ちが護衛に付き、ラグナ・ロイウから脱出してもらっている」


 暗に聖女を人質にすると示したランスロットだが、ユーグはすでに手を打っていると突っぱねた。

 ランスロットは、露骨に面白くないという表情をする。


「……いいでしょう。ここは一度、十字軍を引かせます。その代わり、トリスタンの身柄と、教皇猊下と貴方のご出席が前提とした交渉の場を設けることは、確約していただきます」

「無論だ」


 ユーグの快諾を受け、ランスロットは鼻を鳴らして踵を返した。その背に向かって、ネヴィルが軽く手を挙げる。


「ああ、トリスタン枢機卿猊下ですが、十字軍の完全撤退を確認するまでこのまま預からせてもらいますね」


 しかしランスロットは無言のままで、一人夜の闇へと消えていった。

 これでようやく、張り詰めた空気が和らぐものと思ったが――


「さて、次は君だ。黒騎士シオン・クルス」


 ユーグが、今度はシオンへと厳しい目を向けてきた。シオンは、エレオノーラに支えられたまま、身を強張らせる。


「ここ数ヶ月の間、君に何があったのかはイグナーツ卿を通じておおよそ把握している。今回の十字軍の凶行には、君の身勝手な行為にも一因があると思料する」


 そう言って冷たい視線を向けるユーグに、シオンは目を合わせられなかった。シオンは、騎士だった頃から、総長にだけは頭が上がらないのだ。その圧倒的な強さもさることながら、すべてを見通したかのような振る舞いに、いつも気圧される。


「君の処遇については、騎士団の内部でも意見が割れているところだが――」


 ユーグはそこで区切って、力を抜くように息を吐いた。


「まずは、休むといい。色々と迷惑を被ったが、ステラ王女に関わる一連の働きに助けられたのも事実だ。お互いに思うところもあるだろう。落ち着いた状況になってから、今後について話そうじゃないか」


 と、どこか場を和ませるような口調で言った。ユーグは小皺の目立つ顎髭の顔に、周りが気付くか気付かないかほどの小さな微笑を携え、踵を返す。


 シオンとエレオノーラが、鷲掴みにされていた心臓を解放されたかのように、呆然と安堵し、長い息を吐いた。

 それを見たネヴィルが、苦笑いしながら肩を竦める。


「と、いうことらしいので、黒騎士殿と“紅焔の魔女”殿は、こちらで指定した場所で今夜は一泊してもらえますかね? 街の惨状が気になるとは思いますが、そこは応援の騎士たちが何とかするのでご安心を」


 騎士の応援が来るということにシオンは難色を示したが、文句を言ったところで何も変わらないとすぐに無言で受け入れる。


「で、早速案内してあげたいところなんですけど、僕はこの後、拘束したトリスタン枢機卿猊下を総長と一緒に――」

「少し、待ってくれ」


 不意にシオンが、ネヴィルの説明を遮った。それからシオンは、エレオノーラから離れ、よろよろと歩き出す。向かう先は、ソーヤーと、イザベラの亡骸だ。


 ソーヤーはひとしきり泣いたあと、両目を赤く腫らして、イザベラの傍らに座り込んでいた。シオンが近づいても特に反応を示さず、じっと母を見つめている。

 シオンは、そんなソーヤーに、一枚の封筒を手渡した。ランスロットとの戦いで血に染まり、運河の水で濡れているが、どうにか読み物として扱える状態である。


「イザベラの私室に入って恋文を漁っている時に偶然見つけた。同じような手紙がまだ私室にいくつかあるかもしれない」


 封筒を受け取ったソーヤーは、中身を広げて、そこに綴られた文章に目を通す。


「イザベラは確かに正気を失っていたが、それでもなお、お前の母親としての記憶と人格は残っていたみたいだ。時折、そのことを思い出し、手紙を残していたらしい」


 文章には、イザベラの字で、娘のことを案ずる記載が長々と綴られていた。また、度重なる暴動の被害によって、自身の記憶や人格がおかしくなっていること、ひとたびおかしな人格に切り替わると娘を思い出せなくなること、娘に会えない苦悩や後悔、懺悔が書かれていた。

 そして、文章の最後には、娘を想う愛だけは不変であり、いつか必ず正気を取り戻して探しに行くという強い決意と誓いが記されていた。


「イザベラは、ずっとお前のことを愛し続けていた。それが今のお前にとって何の糧になるのかはわからないが、それだけは紛れもない事実だ」


 ソーヤーは泣かなかった。手紙から視線を外し、再度、安らかに眠る母親の顔を見遣る。


「……うん。お母さんも最後に、そう言ってくれたよ……」


 ソーヤーの声は囁くように小さかったが、確かな力強さを感じさせるほどに、凛然としていた。


 それを見て――シオンは吊るされた糸を切られたように、その場に倒れた。

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