第118話

 総長ユーグ・ド・リドフォールの歩みは穏やかだった。しかし、彼に相対するトリスタンは、畏怖にも似た感情をその顔に浮かばせていた。

 ユーグは外した仮面を回廊に投げ捨てると、軽く顎の白髭を擦る。


「枢機卿猊下、これは少々――いや、大分やり過ぎでは? 総督一人、あるいは議席持ちの騎士一人だけならいざ知らず、騎士団が保有する空中戦艦を駆り出してまで街そのものを攻撃するなど、正気の沙汰とは思えませぬ。それに、私は十字軍なる組織の結成も運用も認めた覚えはない。この騒動、どう収束させるおつもりか?」


 初老らしい落ち着いた声ではあったが、それを発した顔の目つきは鋭く、明確な敵意を双眸に宿していた。

 トリスタンは一歩引き下がり、落ち着かせるように一度唾を飲み込んだ。


「何故、貴方がこんなところにいるのですか? 聖女と共に行方をくら――」

「先に私の質問に答えていただきたい」


 ぴしゃりと言い放ったユーグに、トリスタンが微かに慄く。


「……教皇猊下のご命令です。ラグナ・ロイウの総督確保に手こずるようなら、街そのものを粛清対象とし、更地に変えろと」


 それを聞いたユーグは深く嘆息し、軽く目を伏せた。


「蛮行ここに極まれり――まったく以て浅はかな話だ。大陸史を築いた先人たちの努力も虚しく、ここに来て武力行使に舵を切るとは、嘆かわしい」

「他人事のように嘆いておられますが、十字軍の結成は必定です。昨今の大陸情勢の悪化、すべては騎士団の惰弱な思想が招いた結果でしょうに」


 すかさずトリスタンが言い返したが、ユーグの鋭い視線を受けてすぐに押し黙る。


「だから騎士団に代わり、十字軍の存在を認めろと。教皇猊下――いや、ガイウス・ヴァレンタインらしい、傲慢な大義だ」


 そう言ってユーグは目を細め、嘲笑うように鼻を鳴らした。

 それをトリスタンは、微かな怒りを込めて睨みつける。主の侮辱を受け、畏敬の念が闘争の意思によって掻き消された。


 トリスタンは、磔にしたネヴィルのもとへ踵を返した。そして、そこから槍を引き抜こうと手を伸ばすが――


「――!?」


 刹那の間に、腕を肘から切断されてしまった。

 驚愕に剥いたトリスタンの瞳に映るのは、すぐ傍でユーグが長剣を振り抜いている姿だった。切断されたトリスタンの腕と長剣の間に鮮血の軌跡が残る――その間に、トリスタンはユーグから離れようと、即座に床を蹴る。

 直後、トリスタンはもう片方の腕も失った。

 文字通り、瞬きひとつ許さない微かな時の狭間にて――トリスタンは、ついには両足すらも失う。

 四肢を失ったトリスタンの体が、背中から回廊の床に叩きつけられる。即座に“天使化”の効果によって失われた四肢の再生が始まるが――


「首元の神経を分断されては、再生したところで自由に動くことはできまい」


 間髪入れず、トリスタンの喉元にユーグの長剣が突き立てられた。ガンッ、という鈍い音を立て、トリスタンの体はなすすべなく床に固定されてしまう。


「キミには交渉材料になってもらう、この騒ぎを治めるためのな」


 口から血の泡を吐き出して慄くトリスタンを、ユーグは冷たい視線で見下ろし、そう吐き捨てた。

 それからユーグは、磔状態のネヴィルのもとへ向かった。

 ネヴィルは、自身の情けない姿に自嘲しつつ、上司に黙礼する。


「まさか、総長殿がいらっしゃるとは……」

「息災で何よりだ、ネヴィル卿」

「冗談は、よしてください……。普通の人間なら、即死しているような傷、ですよ……」


 皮肉なのか冗談なのか、よくわからないユーグの言葉を受け、ネヴィルは脱力した。


「総長殿、これ、引き抜いて、もらえますか……?」

「抜くと失血死してしまうのではないかな?」

「治癒魔術で、すぐに、傷を塞ぎます……お願い、します……」


 ユーグは、ふむ、と短く了承し、ネヴィルに刺さる槍を握った。


「では、ゆくぞ」

「はいどうぞ……!」


 短い合図の後で、ネヴィルの脇腹から槍が引き抜かれた。一瞬、鮮血が噴水のように吹き出るが、すぐにネヴィルが治癒魔術で脇腹の空洞を塞ぐ。低い苦悶の声を数秒漏らしていたが、魔術の行使が終わると同時にそれも止まった。


「生きているかね?」


 特に心配した様子もなくユーグが問いかけると、


「……結構、ギリギリでしたね」


 ネヴィルが顔を顰めつつ、力なく笑った。壁に背を預け、ズルズルと音を立てながら床に座り込む。


「命拾いしましたよ、総長殿。でも、何でここにいらっしゃるので?」


 ネヴィルが息を切らしながら訊くと、ユーグは窓の外を眺めた。外は依然として“ケルビム”からの砲撃が雨のように降り注ぎ、轟音と共に夜空がたびたび朱色に点滅していた。


「総督に接触しようとこの街に来たのだが、抽選会の最後の最後で落選してね。どうすれば総督と面会することができるか、宿泊先で聖女と悩んでいたところでこの騒ぎだ。“ケルビム”の砲撃がなければ、危うく十字軍がこの街に来ていたことにも気付かなかった」


 呼吸を整えたネヴィルが、ユーグの回答を聞いて立ち上がる。


「総長もイザベラ・アルボーニにご用が?」

「ああ。だが、今となっては時すでに遅しだ。今日の朝刊は見たかね?」

「ええ。十字軍の記事ですよね?」

「そうだ。実を言うと、私と聖女は数日前から教皇の不穏な動きを察知していた。ゆえに、今後接触がありそうな人物に、用心するよう先回りをして伝えようと思ったのだが――御覧の有様だ。よもや、よそ者が総督に謁見することが、この街ではこれほどまでに難しいとは。仕方なく、郷に入っては郷に従えで、ニューイヤーパーティでの接触を目論むがそれも失敗し、果ては追い打ちをかけるように、同じタイミングで十字軍がラグナ・ロイウに現れたと来た」


 ユーグの嘆息に、ネヴィルもまた呆れたように溜め息を吐いた。


「踏んだり蹴ったりでしたね。いっそ、総長と聖女だって、身分を明かしちゃえばよかったのでは?」

「この街の総督は教皇に対して強い恋情を持っていると聞いた。そこから聖女の所在が教皇庁に知られることも防ぎたかったのでね。安易に肩書を使えなかったのだよ」

「なら、イグナーツ殿に協力を仰げばよかったのでは? 今回の件、彼も大慌てでしたよ。総長殿が連絡をしてあげていたら、事前に何かしらの対処ができたのではと思いますがね」

「教皇庁からの盗聴を防ぐため、電話が使えないことはキミも知っているだろう。ここまで地道に時間をかけて密書でのやり取りをし、そうまでして聖女の行方をくらましていた努力を水の泡にしたくなかった。だが、これほどの事態になるのであれば、聖女の居場所を知られたとしても副総長へ連絡するべきだったと後悔している。所詮は結果論だがな」

「結局、騎士団は後手に回っちゃっていますね。波風立てず隠密に、という我々のやり方が、容赦なく相手方に叩き潰されている気分です。何だか、 “生ぬるい”と殊更に揶揄されているようで、腹立たしくもありますね」

「同感だ」


 ユーグはそう言って、今度は仰向けに倒れるトリスタンを見た。


「もはや政治的なやり取りだけで彼らを制御するのは不可能なのだろう。こうして、直接十字軍の枢機卿とも交戦してしまった。我々の立ち回り方も、そろそろ見直す必要がある」

「全面戦争だけは勘弁したいですね」

「そうだな。そこは最後の砦だ」


 そして、トリスタンの喉元に突き刺さる長剣に手を乗せる。


「そういうわけです、トリスタン・ブレーズ枢機卿猊下。我々騎士団も手段を選ぶ余裕がなくなってまいりました。少々手荒い交渉になりますが、ご協力のほど、よろしくお願いいたします」

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