第117話

 宮殿の回廊にて、窓の景色を横切った“ケルビム・ドローン”の姿を見て、ネヴィルは強く歯噛みした。身に纏う白の戦闘装束は所々血に塗れており、破れた布の隙間から痛々しい生傷が覗いている状態だ。そんな有様ではあったが、ネヴィルは息切れも疲弊した様子もなく、淡々と目の前の敵と対峙していた。


「やってくれましたね……。まさかここまで大胆なことをするとは、驚きですよ。十字軍を認めさせるために、もはやなりふり構わず、ですか」


 レンズの割れた丸眼鏡を外しながら目つきを鋭くした。その視線の先にいるのは、“天使化”した状態のトリスタンだ。

 トリスタンは衣服こそネヴィルの魔術によって損傷していたものの、その皮膚には傷一つない。“天使化”の効力で、ダメージを受ける傍から治癒しているのだ。


「このまま今の大陸情勢を放置しておけば、審判の日はそう遠くない。ログレス王国がガリア公国の実質的な支配下になったことも、昨今の大陸情勢の不安定化の要因だ」

「それを見過ごしているのが教皇でしょうに。ほんと、自作自演の一人芝居がお上手だ」


 辟易した様子でネヴィルは言って、フレームだけになった眼鏡を投げ捨てた。それからケープマントを脱ぎ捨て、ボロボロになった戦闘衣装の袖部分を左右両方引きちぎる。

 そこから露出したのは、肩から手首近くまでぎっしりと刻まれた印章だった。“騎士の聖痕”とはまた違う、ネヴィルが多種多様な魔術を扱うために彫った独自の印章だ。

 それを見たトリスタンが、興味深そうに目を細める。


「圧巻だな。手の先と顔以外、同じような印章が全身に刻まれているのだったか。よくもまあ使いこなすことができると、感心する」

「器用貧乏が僕の売りなので」


 そう言ってネヴィルが首を左右に倒すと、魔術の実行反応である青い光が彼の体から放たれた。すると、瞬き数回の間に傷が治っていく。“天使化”ほどの治癒能力ではないものの、一分もせずに、見た目はほぼ全快の状態になっていた。


「“天使化”した騎士を倒すには、やっぱり我慢比べしかないですかね」

「私の体力切れを狙っているのか? 好きにすればいいが、あまり現実的な手段とは思えんな」


 トリスタンが呆れたように肩を竦めると、ネヴィルはどこか皮肉った顔で微笑した。


「じゃあ、遠慮なくやらせてもらいますかね。決め手の欠けた泥仕合は得意なので」


 そして、ネヴィルが両手をかざした瞬間、トリスタンの左右から突如として壁が迫ってきた。トリスタンを挟み潰すように現れた壁だが、彼はすでにネヴィルの眼前へと肉薄していた。そうして突き出された槍の切っ先がネヴィルを貫くが――瞬間、彼の姿が白昼夢のように掻き消える。


「……幻影か」


 トリスタンが、いつの間にか周囲に立ち込めていた霧を見て、忌々しそうに呟いた。

 槍が貫いたのは、トリスタンの言う通りネヴィルの幻である。回廊を満たす霧に電流を流し込むことで立体的な光の映像を作り出す魔術で、ネヴィルの得意技でもあった。


 そうやってトリスタンが動きを止めたほんの一瞬、彼の周囲に、夥しいまでの電気が流れだす。立ち込める霧を電線代わりに、宮殿内の電源を利用し、ネヴィルが電撃を見舞ったのだ。基本的な原理は幻を作り出す要領と同じだが、これはそれを攻撃に転用した魔術である。


 普通の人間なら即死するほどの電流を流し込んだが、果たしてトリスタン相手にはどうか――電撃の熱によって霧が晴れた先で、トリスタンが体をふらつかせながら徐に立ち上がる。


 刹那――


「そこか」


 目にも止まらぬ速さで、トリスタンが渾身の槍の一突きを放った。槍の切っ先は、霧の中で姿を隠していたネヴィルの左わき腹を深々と貫き、壁に磔の状態にした。

 ネヴィルは苦悶の声を上げ、口から微かな血を吐いた。


「お、お見事……! 僕の居場所がよくわかりましたね……!」

「魔術の実行反応――青い光は隠せないからな、それを探せばいい。攻撃を受ければ、調子に乗って長々と魔術を使うと思った」


 槍を捻りながら言ったトリスタン――電撃で焼け爛れた顔の皮と肉が、“天使化”の治癒能力でみるみる再生していく。

 対するネヴィルは、どこか自嘲気味に顔を歪ませていた。


「な、なるほど、いい勉強になりました……油断大敵ですね……!」

「もう二度とその教訓を活かすことはないだろうがな」


 さらに槍が捻られ、堪らずネヴィルの口から悲鳴が漏れる。


「ぼ、僕のこと、捕縛して交渉材料にするんじゃなかったんですか……?」

「殺しはしない。だが、気絶させたうえで手足はすべて斬り落とす」

「そんな殺生な……」


 冗談交じりにネヴィルが笑ったが、それもまた彼自身の絶叫で掻き消えた。

 何の躊躇いもなく淡々と槍を捻るトリスタン――ネヴィルはすでに自分の死期を悟る段階に入っていた。


 やがて意識も朦朧とし、痛みも薄れていく。

 ああ、議席持ちになんてなるんじゃなかった――そんな思いがネヴィルの脳裏に浮かぶ。

 と、その時だった。


「そこまでにしてもらおう」


 不意に起こったのは、それなりの年期を経た男の声だった。

 ネヴィルとトリスタンが揃って周囲を確認すると、回廊の奥から、人影が一つ、こちらに向かって歩みを進めていた。


「……誰だ?」


 その身なりは、カーニバルの仮装そのもので、中世の貴族を再現したかのような小奇麗な装いだった。顔には仮面を付け、日中に催された抽選会の参加者のようである。


「議席持ちの騎士への攻撃はおろか、多くの民間人が住まう都市への無差別攻撃となれば、もはや看過することはできない」


 静かだが、その言葉から発せられる圧に、ネヴィルはおろか、トリスタンすらも微かに畏縮していた。

 だが、トリスタンはそんな微かな弱みを掻き消すかのように、ネヴィルを磔にしたまま、突如として現れた人物に向かって足を踏み出す。


「何者だ? ここは現在――」


 トリスタンが何かを言いかけている間に、小奇麗な装いをしたその男は、不意に仮面を外した。

 そして、トリスタンが狼狽する。続けて、気絶しかけていたネヴィルも目を剥いた。


「総長、ユーグ・ド・リドフォール……!」


 仮面の下にあったのは、白髪と白髭を携えた初老の男の顔――それはまさしく、聖王騎士団総長にして円卓の議席Ⅰ番――ユーグ・ド・リドフォールの姿であった。

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