第106話

「本当に、騎士を辞めてしまうのですか?」


 シオンが従騎士から騎士になった日――叙任式が終わり、さらにその後の祝賀会が終わった夜に、シオンは師にそう訊いた。

 騎士団本部の人気のない回廊に、シオンと、師はいた。回廊の片側壁一面はガラス張りになっており、満月の光が陽の光の如く、師弟を明るく照らしていた。


「ああ。お前へのアコレードを、俺が騎士として務める最後の仕事と決めていた」


 師――ガイウスは、宴の途中で会場から人知れず抜け出していた。それに気付いたシオンが、慌てて彼の背を負ってこの回廊で呼び止めたのだが――


「その……光栄ではありますが、やはり、弟子であった私個人の思いとしては、ようやくガイウス卿と共に、一人前の騎士として……」


 騎士となった喜びも束の間、自らの叙任と同時に発表されたガイウスの枢機卿への転身に、シオンは頭の整理がまだ追いついていなかった。

 そんな混乱が露骨に顔に出ていたのか、足を止めて振り返ったガイウスは、嘆息するように鼻を鳴らした。ようやく弟子の独り立ちを見届けることができた矢先に、情けない顔を見せられ、一種の失望の念を抱いているようだった。


「自惚れるな。お前はまだ騎士になっただけだ。先には“円卓”がある。さらに言えば、俺は議席Ⅱ番の副総長だった。お前が騎士になったところで、到底、すぐに肩を並べられるものではない」

「し、失礼いたしました」


 ガイウスが叱咤激励をするように少し声を張ると、シオンは反射的に背筋を伸ばして表情を引き締めた。

 そんな他愛のない師弟のやり取りがされている時、ふとそこに、月明りがもう一つの人影を増やした。


 修道服に身を包んだ女――その歳はすでに百に近いにも関わらず、美貌という言葉を体現するかの如く若々しく、美しかった。なにより、月から生み出されたかのような金髪碧眼と、人間とは異なる翼のような長い耳が、彼女の容姿を特徴づけていた。


「シオン」

「り、“リディア”……」


 修道女――“リディア”に声をかけられ、シオンは呆けた顔で振り返る。


「騎士への昇進、おめでとう。今日まで、よく頑張ったね」


 “リディア”が、慈母のような笑みを携えて、シオンの昇進を称え、喜んだ。

 途端、シオンは顔の筋肉を緩め、僅かに頬を紅潮させた。意中の女性からの突然の称賛にどう答えてよいかわからず、もじもじと俯きがちに頭の後ろを掻くことしかできないでいた。

 このままではいけない、どうにかして気の利いた言葉を返そう――そうやって口を開きかけた時、


「あ、ごめんね。お師匠さんと何か話していた最中だったみたいね。じゃあ、私はこれで」


 すでに手遅れと言わんばかりに、“リディア”は軽く手を振ってこの場から立ち去ってしまった。

 ぽかんと開けられたシオンの口から、あ、あ、という、間抜けな声が漏れる。中途半端に前に伸ばされた彼の腕が、虚しく下ろされた。


 いたたまれない空気で満たされた沈黙が回廊に漂う。

 不意に、ガイウスが口を開いた。


「シオン。最後に師として、ひとつだけ助言――いや、忠告しておく」


 これまた唐突な話題の切り出し方だった。シオンは落胆の気持ちのまま、師の言葉に耳を傾ける。


「今のお前たちがどういう関係なのかまでは知らないが、“リディア”とは――亜人とは、一線を引いておくことだ」


 そう言ったガイウスの顔は、月明りを背に受けていたため、陰になってよく見えなかった。だが、金色の双眸がはっきりとこちらを捉えていることだけはわかった。先ほどまでの世間話に興じるようなものではない。シオンが従騎士として仕えていた時、常日頃、“騎士の教え”を説いていた時のものと同じ、刃物のように鋭い視線だった。

 シオンはそれに、妙な悪寒を覚えた。


「それはどういう――」

「一度、互いの“血”を許してしまえば、双方、幸福とは程遠い結末を迎えることになる」


 やけに回りくどい言い方をするなと、シオンは思った。具体的になんの話をしているのか、すぐには理解ができなかった。


「……以前、私に話してくれた混血に関わる話でしょうか?」


 そう訊いてみたが、ガイウスは無言で踵を返し、シオンに背を向ける。


「ガイウス卿!」


 咄嗟に呼び止めると、ガイウスは振り返らずに立ち止まった。


「私は――俺は、貴方に教えられたことはすべて正しいと思っています。ですが、今言ってくれたことは――」

「“師弟揃って、神に逆らう必要もあるまい”」


 ガイウスのその言葉は、まるでそれ以上の追及を許さないかのように、突き放す口調だった。

 シオンの頭はますます混乱した。いったい、この男は何を伝えたいのだろう――


「神に逆らう、というのは――」

「いや――今のは、余計な一言だったな。忘れろ」







「どうしたんだよ、兄貴?」


 時刻は十五時四十五分になった頃だ。イザベラの宮殿前には、抽選会を勝ち残ったパーティの参加者が集まっており、受付の開始を待ちわびている。

 シオンとソーヤーもその中に紛れており、開場までの残り時間をどう過ごそうか、手持ち無沙汰にしていた。

 多くの参加者が今か今かと待ちわびている中で、シオンは、参加証となる白の仮面を被り、宮殿外の柱に背を預けて一人過去に思い耽っていたのだが――突然、ハッとして顔を上げ、それに気付いたソーヤーが首を傾げてきたのだ。


 シオンは、意識を目の前の現実に戻し、同じ仮面を被ってこちらを覗き込むソーヤーに気付く。


「何でもない」


 短く答えて、気を取り直すように片手で仮面の位置を微調整した。


 エレオノーラが何故イザベラと共に行動しているのか――開場までの間、そのことを考えていたはずなのに、いつの間にか騎士時代のガイウスとのやり取りを思い出してしまっていた。それは偏に、エレオノーラがガイウスの実子であるという事実が、頭に強く焼きつけられたからなのだろう。


 ――“師弟揃って、神に逆らう必要もあるまい”。


 当時は何のことかまったく理解できなかったが、あの男が去り際に残したこの言葉を思い出した時、シオンの中で、とある“一つの仮説”が、青天の霹靂の如く導き出された。

 その時シオンは、一瞬息が止まるような思いに見舞われた。思わず、仮面の下で目を見開いてしまうほどに。


(……だとしたら、イグナーツが知りたがっている“教皇の不都合な真実”を知るのは俺ではなく――いや、“証明”するのは、エレオノーラということになる)


 エレオノーラの年齢を考えれば、叙任式の日にあの言葉が発せられた時、すでにガイウスは子持ちであった。そしてそれは、ガイウスと体を交えた女が存在したということになるのだが――その先にあるさらなる事実こそが、“教皇の不都合な真実”なのだろう。


 そう結論付けた時、シオンは、まるで死神に心臓を鷲掴みにされているような焦燥感を覚えた。

 もしこの仮説が事実だとしたら、確かにガイウスは、イグナーツが期待するように教皇としての立場を問答無用で失うことになる。


 そして、それと同時に、エレオノーラの不可解な行動にも、ある一定の推理を導くことができた。


 ――……ならさ、いっそこのままどっか逃げる?

 ――いいよ、別に守ってくれなくて


 三ヶ月前、エレオノーラと共に旅をしていた時に、彼女から発せられたいくつかの言葉が思い出される。


 シオンの仮説は、ガイウスの過去の発言と、自身が黒騎士になるまでの“境遇”、それらに加え、エレオノーラの言葉も照らし合わせたことで生み出すことができたのだが――いずれにしろ、エレオノーラと接触し、本人に確認をするほか、この仮説を証明する手段は他にない。


 これ以上は今ここで深く考えても意味がないと、シオンは大きく息を吸い込み、不可視の圧力に急かされるような気分を無理やり落ち着かせる。

 それから、気を取り直すようにソーヤーを見遣った。


「ソーヤー」

「ん?」

「お前が寝ている間に、ネヴィルからお前とイザベラの関係を聞いた。お前が女の子だってこともな」


 話を聞いてしまった以上、ソーヤーの件も無視はできない。

 改めて今後について話をしようとそう切り出すと、ソーヤーが自身の背景を知られていることに驚きと狼狽に声を震わせた。


「……あ、兄貴、俺――」

「お前がパーティの会場で何をしようとしているのかは知らないが、作戦に影響が及ばない限りは好きにしてくれていい。むしろ、イザベラの気を引き付けて時間を稼いでくれるというのなら願ったり叶ったりだ。だが、無茶なことは絶対にするな。離れている時に何かあっても、俺は助けに入ってやれない」


 シオンは、あくまで、“イザベラの教皇へ宛てた恋文を探す”という作戦が前提であることを釘刺した。目的達成が最優先であることを伝える意図があるのは勿論だが、同時に、ソーヤーの身を案じてのことでもあった。いざという時でも自分は助けに行けないと予め伝えることで、思い切った行動を取らないように意識させるのだ。


 すると、ソーヤーは複雑な面持ちで視線を地面に落とした。


「……俺も、どうしたらいいかよくわかってないんだ。でも、また面と向かって話せば、俺のこと、思い出してくれないかなって。そうすれば、こんな無茶苦茶な政治をやめてくれるんじゃないかって……。兄貴たちの作戦で、イザベラは結局捕まることになるかもしれないけど、それでも、最後に……せめて、もう一度だけ……」


 よくこんな痛ましい状態のソーヤーをイザベラに引き合わせることを許可したなと、シオンは内心ネヴィルに呆れた。

 だが、ここまで来てしまった以上、彼女の悲願に付き合うしかない。


「……お前が本当の娘であること、すぐには言わない方がいい。まずは、ゆっくり、相手の出方を伺え。今のイザベラに、どこまで話が通じるのか、それを見極めるんだ」


 これが精いっぱいのアドバイスだと、シオンが諭すように伝える。

 ソーヤーは顔を上げ、仮面の奥にある双眸に、ほんの少しの力強い光を宿した。


「――わかった。兄貴、俺、頑張るよ」







 ラグナ・ロイウの西区――スラム街に建つ酒場にて、ネヴィルは一人カウンター席に座っていた。カウンターには、食事や酒の代わりに、何枚もの紙が置かれている。無造作に広げられた紙面には、イザベラ糾弾のためにこれまで進めてきた出来事が時系列に図示されており、ネヴィルはそれを見て今後の計画をさらに案じているところだった。


 このまま順調に事が進めば、予定通りイザベラをだしに教皇を追い詰めることができる。騎士団が入手した他の材料を用いれば、早晩、教皇を罷免するに十分な条件が揃うはずだろう。

 ようやく一息つくことができると、ネヴィルは安堵しながら大きく背伸びした。


 酒場の電話がけたたましく鳴ったのは、そんな時だった。

 ネヴィルは顔を顰めながら椅子から立ち上がり、やや乱暴に受話器を取る。


「はいはい。悪いですけど、まだ開店前なんで――」

『私です。イグナーツ・フォン・マンシュタインです』


 また問屋からの取り立ての電話かと思い、開口一番に雑な応答をしてしまったが、受話器の向こう側の声を聞いてすぐに気を引き締めた。

 まさか、上司からの電話だとはと、ネヴィルはまた別の意味で顔を顰める。


「おや、ご無沙汰してます。副総長殿から電話を入れてくるなんて珍しいですね。何か緊急事態ですか?」

『はい。議席Ⅹ番ネヴィル・ターナー。副総長命令です、今すぐ任務を放棄し、ラグナ・ロイウから撤収してください』


 間髪入れないイグナーツの口調は、その内容に拍車をかけるようにして早口だった。


「どういうことですか? イザベラはどうするんです?」

『考えうる中で最悪の状況になりました』

「最悪の状況とは?」

『今、手元に新聞はありますか? 大陸新聞、ユリアランタイムズ、アウソニアレポート、ここら辺の会社のならどれでもいいです』


 突然、新聞を見ろとの上司の不可解な指示に戸惑いながら、ネヴィルは酒場の裏口にあるポストへと向かう。そういえば今日は朝から抽選会の準備やらで新聞を読めていなかったなと、そんな悠長なことを考えていた。

 だが、新聞の表紙一面に書かれた文言を見て、ネヴィルは一気に目を覚ます。慌てて受話器の方へと戻り、


「なんですか、これ!?」


 声を張り上げた。


『私も驚きました。何かのフェイクニュースかと思い、朝刊を見た瞬間はまったく相手にしていなかったのですが、念のため裏取りをリリアン卿に頼んでみたところ――教皇はついにやらかしました』


 受話器の奥で、イグナーツが苛立ちと嘆きを孕んだ長い溜め息を漏らす。


 新聞には、こう書かれていた。



 教皇アーノエル六世、“十字軍”の結成を宣言――騎士団に替わる新たな治安維持部隊として、教皇主導のもと、一月一日より活動を開始



『どうやら教皇は、既成事実を作る作戦に舵を切ったようです。まさか、こんな強引な手段を使ってくるとは思いもよりませんでした』

「待ってください。到底、“十字軍”は教会の組織として認められる状況にないのでは? 総長と聖女の不在を理由に、今は騎士団も承認ができないと駄々をこねている最中なんですよね?」

『新聞の記事をよく読んでください』


 ネヴィルは新聞をカウンターに広げ、詳細欄を読み進めた。


 そこには、


 騎士団の統率力不足により分裂戦争が引き起こされたこと

 騎士団が黒騎士を取り逃がしたこと

 あまつさえ黒騎士を生かし、密かに匿っていたこと


 以上が、事細かに、わかりやすく記載されていた。

 ネヴィルは奥歯を強く噛み締めながら前髪を乱暴にかき上げる。


「……要は、立て続けに不祥事を起こした騎士団が信用ならないから“十字軍”を支持しろと」

『耳が痛いところですが、大義名分としては十分すぎますね。これを先に公表されてしまっては、世論を使って封じ込めることも難しい。黒騎士の件に関しては身から出た錆とはいえ、中々に辛いものがあります』


 きっとレティシアあたりにこっぴどく詰められたのだろうと、イグナーツの疲れた声を聞いて、ネヴィルは苦笑した。


「状況は理解しました。ですが、この件が僕の任務とどう関わってくるので?」

『“十字軍”は手始めに、教会へ不正な寄付金を送りつけているイザベラの捕縛を任務としたようです。教皇が関わっている不正の証拠を自ら狩り取り、手柄にしようという企てです』

「イザベラをマッチポンプに使いますか。えげつないことをする」

『えげつない話はこれで終わりではありません。よりによってこの任務にあたる“十字軍”の指揮官、元議席持ちの騎士二人なんです』

「誰ですか?」


 不穏な言葉を耳にし、受話器を持つ手に自ずと力が入る。

 そして、数拍の間を置いて、徐にイグナーツが発したのは――


『ランスロット・マリス枢機卿と、トリスタン・ブレーズ枢機卿です。数年前、当時まだ騎士だったガイウス・ヴァレンタインと共に“歴代最強の騎士団”の一角を担った二人ですよ。貴方もよく知っているでしょう?』


 ネヴィルは、鏡がなくとも自分の顔色が悪くなったことを如実に感じた。


「まさか、その二人がラグナ・ロイウに向かっているんですか?」

『ええ、そのまさかです。ことの重大さ、理解できましたか? 総長と聖女が不在である今この局面で“十字軍”と事を構えてもいいことは何もありません。政治的にも、貴方の身の回りの話にしても。なので、今すぐに、我関せずといった体を装って――』

「イグナーツ殿」


 今すぐにでも逃げる準備をしろと話すイグナーツを、ネヴィルが制止した。


『何です?』

「最悪のさらに下の最悪って、何て呼ぶんでしょうかね」


 歯切れの悪いその言葉に、イグナーツが表情を露骨に強張らせたのが電話越しでもわかった。


『……何かあるので?』


 そして、ネヴィルは、これまでの出来事をすべて話した。

 それは勿論、任務遂行に、黒騎士シオンに協力を仰いでいることである。


 一通り事情を説明し終えたところで、受話器の向こうから、イグナーツが怒りの溜め息を吐きだした。


『……ネヴィル卿、貴方、一年間無給でも許されないですよ』

「いっそ解雇してくれませんか?」

『駄目です。とにかく、この後始末、何としてもつけてください。私もすぐにそちらに向かいます』


 すぐに怒りを鎮めて冷静な指示を出したイグナーツに安堵しつつ、ネヴィルは自身を戒めるように歯噛みした。


「もう少しでうまくいくのではと思っていたんですけどね……」

『まあ、不運であることは否定しませんよ。ですが、よりによってシオンに協力を仰いでいることを隠していたとは。あれだけ彼が来たらすぐに連絡を寄越すよう、口を酸っぱく言っていたのに』


 上司からの小言に、大変申し訳ない、と、それっぽく詫びを入れる。


『それはともかく、シオンとランスロットは、ガイウスを同じ師に持つ兄弟弟子――その仲は、顔を合わせれば斬り合いが始まるほどに険悪だったと、私は記憶しています』

「僕もです。自分で蒔いた種とはいえ、最悪の最悪もいいところですよ、本当に」


 “十字軍”という軍事組織が、教皇の一方的な裁量で動き始めていることも問題であるが――今この状況としては、シオンとランスロットの接触が、何よりも最優先に退けるべき事案であると、二人の騎士は認識を合わせた。

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