第105話

 ラグナ・ロイウでは、直近十五年の間で、二回もの大規模な暴動が起きた。


 もともとの発端は、十五年前、当時の総督であり、イザベラの父であるロドリゴ・アルボーニが、財界の有力者たちと資金面で癒着していたことが明るみになったことだった。ラグナ・ロイウは、当時から大陸屈指の観光地として栄えていたものの、そこに住まう人々の生活は高額な税収によって決して豊かと呼べるものではなかった。観光業の所得が好景気によって増えるのに対し、それに比例するように税金の額が上げられ、住民の不満は常に爆発寸前の状態だった。それがついに、総督の汚職が引き金となり、反政権運動へと発展したのである。


 総督の汚職発覚から二年が経ち、ついに住民は武力行使へ出た。暴徒と化した住民が総督の宮殿に強襲し、総督ロドリゴ・アルボーニを殺害した。当時、まだ十九歳であった彼の娘であるイザベラも暴動に巻き込まれ、拘束された。


 総督が殺害されて数ヶ月後、事態を重く見た教会が、暴動鎮圧のために騎士団を投入することを決定した。圧倒的な戦闘力を以てしての鎮圧劇は、一晩のうちに反政権派の住民を、文字通り一網打尽にした。

 この時、投入された騎士団の指揮を取っていたのが、当時騎士だったガイウス・ヴァレンタインだ。ガイウスの手によって、拘束されていた政権側の要人たちが次々に解放され――その中にはイザベラの存在もあった。


 だが、この時点ですでに、彼女の精神は壊れかけの状態であった。

 その身に、父親が誰かもわからない子を宿していたがために――







「これが、“ラグナ・ロイウの四月暴動”と呼ばれる事件の真相です。貴方の師匠である現教皇、アーノエル六世ガイウス・ヴァレンタインが解決したことでも有名な事件ですね」


 ネヴィルの言う通り、その事件自体はシオンもよく知っていた。知った当時は、自分の師が英雄的な働きを遂げたということに、弟子としてどこか誇らしさすら覚えたほどである。だが、たった今、こうしてネヴィルから真相を聞かされ、シオンは複雑な心境に言葉を詰まらせた。


「ソーヤーは、監禁されていたイザベラが、反政権派の住民に慰み者にされていた時にできた子なんですよ。なんともやるせない話です」


 ネヴィルが眼鏡のブリッジを上げながら、どこか冷たく言い放った。シオンはそれに同意するように、一度目を伏せる。それから、気を取り直すように、ソーヤーが横たわるソファへと目を馳せた。彼女はまだ、小さな寝息を立てて、穏やかな眠りについていた。


「……ソーヤーは、自分の出自を知っているのか?」


 恐る恐るシオンが訊くと、ネヴィルは肩を竦める。


「ええ。何だったらこの話、ソーヤー本人から聞かされたものですからね。ソーヤーはソーヤーで、このスラムに住む当時反政権派だった住民から聞いたみたいですが。イザベラが慰み者にされ、暴動末期には子供を宿していたという事実をね。ソーヤーはそれを聞いて、その子供が自分であると察したのでしょう」


 この子は、いったいどんな思いでその事実を受け入れたのだろう――そう思った途端に、シオンは心を犯されるような不快感に見舞われた。自ずと顔が、事件への嫌悪と、ソーヤーへの同情で、複雑に歪められる。

 そんな胸中を払拭するようにして、シオンは深く息を吐いた。


「……ソーヤーは、どうしてまたスラム街なんかに身を寄せているんだ? 強姦されて産まれた子供であることをイザベラが認められず、捨てたのか?」

「いえ。イザベラは、自分の子供であることに変わりはないとして、普通にソーヤーを育てたみたいです。ですが、イザベラはこの時からすでにおかしくなっていたようでしてね」


 まだ不快な話があるのかと、シオンは辟易した顔になりつつ、耳を傾ける。


「イザベラは、自分を救い出してくれた教皇に恋をしました。そして、それと同時に、自分のお腹に宿る子が教皇の子であると思い込み始めたようなんです。狂ってはいますが、一種の自己防衛だったのでしょうね。そう思い込まなければ、正気を保つことすらできなかったんでしょう」

「それが、ソーヤーがスラム街にいることとどう関係する?」

「イザベラの教皇への貢は、もうこの時から始まっていたらしいです。暴動が治まったあと、イザベラはなし崩し的に父親から総督の地位を引き継ぐことになりました。新たな総督となった彼女は、始めは暴動鎮圧の謝礼として教会へ資金を贈っていたみたいですが、その資金は税金から生み出されるもの。このことを面白く思わない住民たちが――」

「また同じことが起きたのか」


 シオンがうんざりした声で言うと、ネヴィルも疲れた顔で頷いた。


「ええ。前回の暴動から三年後に起きた、“ラグナ・ロイウの六月暴動”と呼ばれる事件です。前回よりは規模が小さく、鎮圧も街の治安維持部隊だけで事なきを得たようですが――ここでまたひとつ、悲劇が生まれました」

「悲劇?」

「暴徒と化した住民から逃げるために、イザベラが幼いソーヤーと共に宮殿から避難したらしいのですが、その際にソーヤーが海に落ちてしまったようでしてね。母娘はそこで、離れ離れになりました」


 他人の不幸な境遇を聞いてここまで同情する気持ちが起きたのはこれが初めてだと、シオンは閉口した。


「それから、運良くソーヤーはこのスラムに流れ着き、さらに幸運なことに心優しい住民に拾われることになりました。ちなみにその住民というのが、ソーヤーが慕っているあのライカンスロープの二人組のことです」


 だからソーヤーはあの二人組によく懐いていたのかと、シオンは一人納得する。


「そうして、どうにかして命を繋ぎとめることができたソーヤーは、母へ会うために宮殿へと帰ったのですが――この時、イザベラの精神はもう完全に壊れていました」

「どうなったんだ?」

「自分の娘が目の前にいても、それを認識できないほどに怒り狂っていたみたいです。自分の娘が暴動に巻き込まれて死んだと思い込み、実は生きていた本人が呼びかけても、うんともすんとも反応してくれなかったとのこと。ソーヤーはそれきり、イザベラと距離を取ることになったようで、今に至る、という感じらしいです。また、その時を境に、もともと高額だった税金がさらに引き上げられることになりました。度重なる暴動を引き起こした住民への怒りもあるのでしょうが、資金を貯めこませないことで、住民たちの動きを抑圧する目的もあったのでしょうね」


 聞いたことを後悔するほどに後味の悪い話を知り、シオンは項垂れながら嘆息した。それから気を取り直すように頭を軽く横に振り、ネヴィルへ向き直る。


「イザベラとソーヤーの関係はわかった。それで、ソーヤーをパーティに連れていって、アンタは何を企んでいる?」

「僕はソーヤーと取引をしています。パーティに姿を現すイザベラにソーヤーを会わせる代わりに、できるだけ目立って時間を稼いでもらう。その間に、今回の目的である教皇への恋文を探し出す、というものです」

「なんで始めにそれを俺に言わないんだ」


 シオンは天井を仰ぎながら、苛立ちを隠さずに言った。するとネヴィルは、どこ吹く風と言わんばかりのとぼけた顔をする。


「ソーヤーの件に関して言えば、完全に彼女の私情ですからね。シオン殿からしてみれば、そんな背景を知らなくても、ソーヤーがイザベラの動きを封じるために時間を稼いでくれるってことさえ把握していれば、作戦に何の支障もないでしょう。僕なりの配慮ですよ、シオン殿が“紅焔の魔女”と接触することに集中できるように、ね」


 その言葉を聞いて、ふと、シオンは表情を引き締めた。

 “紅焔の魔女”と接触――今の今まで、ソーヤーとイザベラの凄惨な過去に意識を持っていかれていたが、


「――ちょっと待て。今までの話、エレオノーラが一切出てきていない。あいつはこの件にどう関わっている?」


 もっとも肝心としているエレオノーラが、まったく話の中で関りを見せていないことに気付いた。せいぜい、教皇が間接的に関わっている、ということくらいか。

 シオンの問いかけに、ネヴィルが悩ましそうに両腕を体の前で組んだ。


「何らかの手段で、“紅焔の魔女”が教皇の実子であることを知ったイザベラが、教皇への恋情と娘を失った失意を狂気に変え、“ままごと”をしている――というのが僕の見立てです。ですが――」

「その歪な環境にエレオノーラが大人しく身を置く理由がまったくわからない」


 シオンが先に言うと、ネヴィルが頷いた。


「そうなんですよ。気が狂った女の娘として傍にいるなんて、とてもじゃないですが正気の沙汰じゃないです。そうまでして、何故“紅焔の魔女”がイザベラの隣にいようとするのか――残念ながら、僕には見当もつかないですね」


 文字通り、お手上げといったジェスチャーを取るネヴィルだった。

 シオンが、力なくカウンターテーブルの椅子に腰を掛ける。


「エレオノーラ……いったい何を考えている?」


 片手で押さえた口から、思わずその言葉が漏れる。

 パーティの開始時刻まであと僅か――妙な焦燥感が、シオンを苛ませていた。

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