第107話
パーティ会場は、中世以前は貴族たちが会議をするために利用していたとされる大部屋だった。大評議会の間と呼ばれているこの部屋は、千人以上を楽に収容できる広さがあるにも関わらず、支柱は一切存在しなかった。壁と天井には巨大な油絵が描かれており、さながら美術館のようである。
ゆえに、飲食を伴う会場の場として利用するのはいささか相応しくないと思えるが、そういった些細な背徳感すらも上流階級の人間は至高の贅沢と心得ているのだろうと、シオンは参加者たちを眺めながら察した。自分とソーヤーのように抽選会を勝ち抜いた参加者たちは、誰もがこの場の豪奢さに目を回し、どこか挙動不審な振る舞いをしているのに対し、予め参加が決まっていた財界の重鎮たちは、さもこの環境が当たり前であるかのように、優雅に談笑している。
会場に点在するテーブルの上には高級食材をふんだんに使ったご馳走が大量に並べられており、立食形式だった。
シオンとソーヤーは部屋の片隅の方で、特に誰かと会話することもなく、淡々と事態が動くのを待っていた。ネヴィルの話では、この後メイドから何かしらの接触があるとのことだが、今のところそのような気配もない。
イザベラとエレオノーラもまだ会場に姿を現しておらず、特段、気を張るような状況でもなかった。
ひとまずは腹ごしらえと、シオンとソーヤーは、仮面を器用に顔から少し浮かしながら、高級料理をちまちまと食べる。
「ところでソーヤー」
その最中、不意にシオンがソーヤーに声をかけた。
ソーヤーは、フォークに刺した鶏肉を、大きく開けた口の中に運ぼうとしていたところで、その状態のまま動きを止めてシオンを見遣った。
「イザベラと話すにしても、具体的にどうするつもりだ? 曲がりなりにもこの街のトップだ。子供が気軽に話せる相手じゃないだろ」
シオンの問いを聞いて、ソーヤーはフォークと皿をテーブルの上に置いた。
「……イザベラは高慢な性格だけど、子供にだけは優しいんだ。昔から」
暴君と化した実母の中に、まだ優しさの片鱗があることを愁うような声色だった。
「だから、兄貴が宮殿の奥に忍び込む用意ができたら、正面から話しかけにいくよ。他の誰かと話していても、イザベラはきっと子供の俺を優先するはず」
シオンは、イザベラの人柄のことは何も知らないに等しいが、数日前にパレードで見た派手な装いをした状態の彼女を見たあとでは、にわかに信じられない情報だった。
仮面の下の表情が眉唾に顰められるも、イザベラの実子であるソーヤーが確固たる自信を持って言うのだから、それ以上に信憑性のある話もないのだろう。
「わかった。だが、口うるさく言わせてもらうが気を付けろよ。絶対に引き際を間違えるな」
「うん」
ソーヤーが力強く頷いた。
会場奥の壇上に、男の使用人が意気揚々として上がったのはその直後だった。
途端、会場に妙な緊張感が張り詰める。
「会場にお集まりの皆さま、大変お待たせいたしました。これより、イザベラ・アルボーニ総督閣下がご入場されます! どうか、盛大な拍手でお出迎えください!」
壇上近くの扉が二人の使用人によって重々しく開かれると同時に、会場が歓声と拍手に沸いた。
扉から入ってきたのは、派手な緋色のドレスに身を包んだイザベラと、淑やかな紺色のドレスを着た仮面の女――おそらくは、その特徴的な薄桃色の髪からエレオノーラだと思われる。
イザベラは喝采を正面に受け、満足そうな面持ちで壇上に立った。会場が静かになる。
「皆さま、新年の始まりはすこやかにお迎えいたしまして? 昨年は皆さまのご尽力により、ラグナ・ロイウは大陸屈指の観光地として、例年以上に目覚ましい経済的な成長を遂げることができました。どうかこの調子で、本年も抜かりなくよろしくお願い申し上げますわ。本日はささやかながらこのようなおもてなしの場を用意いたしましたので、どうか存分に英気を養ってくださいませ!」
妙に艶っぽい声の祝辞が終わると、先ほどよりも大きな拍手の音が会場をけたたましく満たした。
そのあまりの熱狂ぶりは、ソーヤーが思わず両手で耳を塞いだほどである。
ようやく主賓のお出ましかと、シオンが少しだけ気を引き締めた時、不意に背中に人の気配を感じた。何やらこちらにぶつかる意図で近づいているような足取りで、普段なら難なく横にずれて躱すのだが――シオンはあえて、棒立ちを決め込んだ。
「ああ! も、申し訳ございません!」
案の定、背後から迫った人物はシオンにぶつかった。同時に起こったのは、会場の喧騒を無理やり裂くようなガラスの割れる音――若いメイドが、トレーに乗せていたワイングラスを派手に床に落としたのだ。そしてその中身は、シオンの背中に血塗りのようにしてかけられている。
「すぐに代わりのお召し物をご用意いたします。お手数をおかけして申し訳ありませんが、どうか私と共にお着替えのあるお部屋までご足労願えますでしょうか?」
ネヴィルが言っていたのはこれか、と、シオンは納得した。
「ああ、頼む」
メイドに一言返事をした後で、シオンはソーヤーの方を見た。
すると、ソーヤーは一度唾を飲み込んで喉を鳴らし、意を決した眼差しを向けながら力強く頷いてきた。
お互いになすべきことをなすと、そうして無言で誓い合った。
※
メイドに案内されて入った部屋は、パーティ会場の部屋から百メートルほど離れた場所にある小部屋だった。開きっぱなしのクローゼットに並べられた衣装から察するに、使用人たちの更衣室なのだろう。
「察しの良い方で大変助かりました」
部屋の扉を閉めて間もなく、メイドが振り返って言った。
メイドはそれからクローゼットの方へと移動し、かけられた服を無造作にかき分ける。ガサガサと音を立ててそこから取り出したのは、一着の衣装だった。
「イザベラの私室の合鍵は着替えの中に入っています」
シオンは衣装を受け取ると同時に、胸ポケットに合鍵が入っているのを確認する。
「イザベラの私室には、この後で案内する化粧室の窓から外に出て向かってください。そのまま外壁を伝って宮殿中央の中庭に出ると、三階部分に大きめの窓が並んだ回廊があります。そこを宮殿内部の方に向かって進むと大きな扉の部屋があるので、それがイザベラの私室です」
メイドの説明を聞きながら、シオンは手早く着替えた。これまでの中世貴族の仮装のような恰好から、シックな黒のタキシード姿になる。ついでに髪の三つ編みを解いていつものポニーテールに結い直し、それから仮面を付け直した。
シオンの準備が整ったところで、メイドが深々と一礼をする。
「申し訳ありませんが、私ができるのは化粧室への案内までです。どうか、お気を付けて」
「わかった。このあと、案内を頼む」
はい、と短い返事をしたメイドが部屋の扉を開けて廊下に出る。シオンは大人しく後に続き、化粧室へと向かった。
その後、メイドとは化粧室の前で別れた。幸いにも人目がなかったので、この先、化粧室からシオンが出てこないことに疑問を持つ人間もいないはずだ。
シオンは早速、化粧室の窓から宮殿の外に出て、壁伝いに中庭へと向かった。道中、小銃で武装した憲兵が宮殿内を巡回していたが、シオンはその人間離れした身体能力を以て難なく中庭へと到着する。
中庭を囲う壁を見回すと、メイドが教えてくれた通り、三階部分に大きめの窓が並んでいた。シオンは周囲に誰もいないことを確認した後で、一気に外壁を駆け上る。音を殺しながら壁を蹴り、途中の出っ張りに指をかけながら、数秒の間に登りきった。半開きになっていた窓の縁に手を伸ばし、転がり込むように内部へと侵入する。
回廊へと入ったシオンはすぐに体勢を整え、周囲を見渡した。若干の人の気配がするのは、近くに憲兵がいるからだろう。
シオンは足音を立てないように走り出す。途中、憲兵と鉢合わせそうになった時は、回廊の脇に飾られた大きな銅像の陰に隠れてやり過ごした。
そうして宮殿の中心部へと向かっていると、ついにイザベラの私室と思しき扉が視界に入った。大きな両開きの扉で、表面には金の細工がこれ見よがしに施されている。
シオンは素早く合鍵を使ってイザベラの私室へ入った。
部屋の中は薄暗く、窓から差し込む宮殿敷地内の灯だけが視界の頼りだった。目を凝らすと、部屋には、天蓋を付けた巨大なベッドと、デスクと、椅子がそれぞれ一つずつ――そして何より存在感があったのは、窓側の壁以外に並べられた、ガラスの扉付きの書籍棚だった。どの書籍棚も天井まで到達するほどの大きさで、その有様は図書室の一角のようだ。
「これを一つずつ開けて見ていくのか……!」
思わず、シオンの口から弱音のような愚痴が漏れる。
言っても始まらないと、シオンは覚悟を決めるように一度深呼吸をした。そして、片っ端に書籍棚を開いていく。
ネヴィルの情報通り、棚の中は整理整頓されている状態で、日付ごとにいくつもの封筒が収められていた。去年の十二月の区画には、教皇へ宛てた恋文は勿論のこと、詩を書き連ねたメモ用紙のようなものまで入っていた。
どうにもこの類のものは苦手だと、シオンは仮面の下で顔を顰めながら読み漁る。そして、十通目を開けたところで手を止めた。
封筒に収められた恋文――そこに綴られていたのは、ガイウスへの想いと共に、寄付金をその形として送っているという文面だ。
ネヴィルが求めていた恋文が想像以上に早く見つかり、シオンはホッと胸を撫で下ろす。
目当ての物が見つかればこんな場所にはもう用はないと、早々に引き上げる準備をした。散らかした封筒を棚の中に戻し、雑に収めていくが――
「しまった」
強引に詰め過ぎたのか、他の封筒がドバドバと棚から一斉に溢れ出てきてしまった。
シオンは慌てて封筒を拾い上げ、再度棚の中に戻していく。
しかし、不意に、封筒からはみ出た一枚の紙が目に留まり、その手を止めてしまった。
それは、恋文ではなく――
「……これは――」
「何をしている?」
刹那、鋭い一声と共に部屋の明かりが点けられた。
シオンは仮面の下で目を眩ませながら、その声に懐かしさを感じる。
やがて目が光に慣れると、部屋の扉の前に何者かが立っている姿が視界に映った。
「手にしている物を置いて、大人しく両手を挙げろ」
紺のドレスの仮面姿――常にイザベラの隣にいたその女は、“見覚えのある長大なライフル”の銃口をこちらに向けていた。
間違いない、エレオノーラだと、シオンは改めて確信した。
シオンは、嘆息するような短い息を吐いたあとで、徐に立ち上がる。
「……ちょうどいい、個別に接触する方法を考える手間が省けた」
そして、仮面を外し、素顔を露わにした。
「し、シオン……」
シオンの赤い双眸が、狼狽えるエレオノーラを捉えた。
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