第70話

 街の人々の往来が少ない朝五時――今日の空模様は曇天で、日の光はほとんど差し込まず、外は薄暗かった。


 身支度を終えたシオンが、ホテルの部屋のベランダを全開にする。今日は九月の最終日で、冷えた外気が本格的な秋の到来を告げていた。


「鉄道の運行状況と、ガリア兵たちがどれだけ送り込まれたのかを見てくる。二人はいつでもここを出られるように準備を整えてくれ」


 そう言いながら、ベランダの柵に足をかけた。

 エレオノーラが顔を顰める。


「ベランダから出発とか」

「念のためにな。今は人通りも少ないから、出入り口から出ると大通りから見た時に目立つ」


 それに何か意見を返す間もなく、シオンはベランダから飛び降りてしまった。普通の人間がやったとすれば間違いなくただの自殺行為だが、超人的な身体能力を持つシオンは見事に地面に無音で着地した。そのまま街の大通りから死角になるような物陰を伝うように走り、駅の方面へと向かって行く。


 その様子をステラとエレオノーラがベランダから見送り、


「まるでアサシンだね、騎士というより」

「まあ、この旅でやろうとしていることも要人暗殺ですしね……」


 彼の一連の動作について各々感想を残した。

 それから二人はいったん部屋へと戻り、ソファに腰を掛けた。荷物はすでにまとめられてある。あとは、シオンが偵察から戻って来たら、ここを出るだけだ。


「この極楽生活ともおさらばか。一週間近く缶詰で飽きてきたなって思ってたけど、いざお別れになるとちょっと名残惜しいね」


 エレオノーラが体を伸ばしながら言って、足を組んだ。観光こそできなかったものの、ここでの生活はいたって快適であった。街の名産品を使った豪華な料理が毎食用意され、プライベートプールでは適度な運動ができ、それ以外の時間は魔術の研究に当てることができ、まさに贅沢なひと時を堪能することができた。

 エレオノーラはそれらの思い出に郷愁を巡らせるようにして、長いため息を吐く。

 そんな彼女を、ステラはどこか申し訳なさそうにして見ていた。


「なに? どうしたの?」


 その視線に気づいたエレオノーラが声をかけると、ステラは顔を軽く掻いた。


「今更なんですけど、今この局面でエレオノーラさんを付き合わせる必要はないんじゃないかなって思って」

「どういう意味?」

「だって、エレオノーラさんの目的は“騎士の聖痕”の解析なんですよね? 私とシオンさんと違って、王都に行くこと自体が目的じゃないのに、なんだか無理やり連れ回しているような気がしちゃって」


 ステラの言う通り、今この状況下でエレオノーラが王都に行くメリットは、その危険性と照らし合わせるとほとんどなかった。ホテルにいる間に“騎士の聖痕”の解析はかなり進み、研究成果としては一つの実りがある状態である。さらなる探求として、引き続き解析を進めることもできるが、果たしてそれに対し、ステラたちに同行し続けることが割に合うかと言われると、正直微妙な話でもあった。

 エレオノーラは鼻を鳴らしながら肩を竦める。


「ホント、今更だね。まあ、いいんじゃない? “騎士の聖痕”も全部解析したわけじゃないし、シオンについていって調べたいことはまだある状態だからね」


 それを聞いたステラが、何かを企んでいるような、若干厭らしい笑みを浮かばせる。


「とか何とか言って、シオンさん本人が目的だったり、しますかね?」


 口元を押さえて、ふひ、と、変な笑い声を出した。


「――ねえ、ステラ」


 不意にそう呼び掛けたエレオノーラの顔は、目を軽く細めて無表情だった。先ほどまでは冗談に付き合ってくれそうなくらいには穏やかな雰囲気だったのだが――途端に、少しだけ空気が張り詰めた。

 ステラが慌てて両手を目の前で振る。


「あ、ご、ごめんなさい。ちょっと調子に乗ったというか、いつも意地悪されるから少し揶揄ってみたかったというか――」

「アンタはさ、シオンと、女王になること――どちらかを選ばないといけない状況になったら、どうする?」


 エレオノーラの琥珀色の双眸が、魔女の飼い猫が見つめるかの如く、ステラを捉えていた。







 グラスランドの駅舎は、中世に建てられた大型図書館を改装して造られたものだった。中世以前の街並みを色濃く残すこの街の景観を損なわないようにと配慮された、建築家たちの努力の賜物である。

 そんな古風な駅舎を目前にして、路地裏の陰でシオンは顔を顰めた。人通りの少ない早朝だが、駅舎の正面大階段の周りだけ人でごった返している状態だ――それも、ガリア兵だけで。

 恐らくは、王都行の汽車の運行が再開したことに伴い、警戒を強めてのことだろう。その目的は十中八九、ステラだと思われる。ガリア軍も、ステラがこのグラスランドから王都へ向かうことを予想しているようだ。


 ガリア兵の数は、見えるだけで五十人は駅舎前に配備されている。駅舎の中にも何人かいると考えるべきだろう。あれだけの数、シオン一人ならいざ知らず、ステラを守りながらとなると、さすがに強行突破するのは無謀だ。

 だからといって、アルクノイアでやった時のように貨物列車に飛び乗ることも得策ではない。一度使った手段のためにガリア軍も警戒しているだろうし――何より、ステラとエレオノーラの反発が強そうだ。


 それに、派手に立ち回れば、騎士に気付かれる恐れがある。空中戦艦スローネがこの近隣に停泊していることは、グラスランド到着初日に確認済みだ。この街に騎士がいることはまず間違いない。ガリア軍と騒ぎを起こせば、騎士たちを呼び寄せることになる。


 そしてその騎士とは、黒騎士討伐の任に当たっているアルバートたちのことだろう。アルバートと正面から戦うことだけは、何としても避けたかった。


 鉄道を使って王都へ入るのは諦めるしかないのか――そんな考えが過ぎる。最悪、王都が大陸本土から離れた孤島であることを利用し、どこかで小型船を調達して密航する方がいいのではとも思い始めた。当然、王都に近づけば近づくほどに警備が厳戒になるのだろうが、少なくとも、今この状況を打破する術は何もなかった。


 シオンは短く嘆息して、ひとまずホテルへ戻ることにした。ステラとエレオノーラに今後のことを相談し、いったんはこの街から出ることを提案するつもりでいる。徒歩での旅路にまた不平不満を言われるかもしれないが、致し方ないと説得させるしか他にない。


 二人が文句を言ってげんなりする姿が浮かぶ。それに、ほんの少し、可笑しさを感じた。


 不意に、殺気を感じたのはそんな時だった。


「――!」


 シオンは咄嗟に身を屈めた。直後、頭上の高さにある周囲一帯の物が悉く切断されていった。あと一歩、気付くのが遅かったら、シオンの頭はミンチ機に巻き込まれたかのように細切れにされていただろう。その証拠に、路地裏に積まれていたゴミ袋や金属籠、看板の類が、一瞬の間にずたずたに刻まれていた。


「ユリウスか!?」


 シオンが声を張ると、それに応じるかのようにして、路地裏壁のダクトの上から人影が現れた。金髪オールバックの銀縁眼鏡をかけた男――ユリウスの姿を見るなり、シオンは心底嫌った表情で舌打ちをする。


 ユリウスがダクトから飛び降りて地面に着地した。

 シオンは、ユリウスが立つ逆方向に踵を返そうとしたが――今度は、突然現れた氷の壁によって、逃げ道を塞がれる。

 そして、シオンの前に降って立ち塞がってきたのは、銀髪の女騎士、プリシラだった。


「いい加減、かくれんぼにも飽きてきた頃だ。ここいらでケリつけようぜ、黒騎士」


 ユリウスが鋼糸を周囲に巡らし、プリシラが長槍を構える。

 前後を挟まれたシオンは、静かに刀を鞘から引き抜いた。

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