第69話
シオンは若干の息苦しさで目を覚ました。うつ伏せの体勢のまま寝てしまったようで、首の痛みと、喉のつまりで起きる。
ゆっくりとベッドから体を引き剥がすと、部屋の中はまだ陽の光で明るかった。
どれだけ寝ていたのだろうか――そんな疑問を抱いた直後に、
「アンタのお昼ご飯、アタシとステラで食べちゃったからね。勿体ないから」
エレオノーラの声が、遠回しに回答してくれた。
シオンは軽く頭を振って、さらに意識をはっきりさせる。ベッドの上に座り直し、部屋の中を軽く見渡すと――デスクに座るエレオノーラがこちらを見ていた。ステラはというと、隣のベッドで涎を垂らしながら寝ている。
「今、何時だ?」
「十四時。三時間くらいかな、アンタが寝てたの」
エレオノーラを見ると、彼女はもう水着姿ではなく、いつものフリル付きのブラウスに、コルセットスカートの姿だった。
彼女が付くデスクの上には、魔導書とノートが乱雑に広げられている。どうやら、日課となっている魔術の研究をしている最中のようだ。
「ここに来てからよく昼寝するなとは思っているけど、アンタさ、本当に身体大丈夫なの?」
不意に、そんなことを訊いてきた。
シオンはインナーを着つつ、顔を顰める。
「問題ない。よく寝るのは、今まで寝不足気味だったせいだ。旅が始まってからこのホテルに泊まるまで、まともに熟睡したことがなかったからな。いつ敵の襲撃を受けてもいいように、意識は常に半分覚醒させていた」
「それは知ってんだけどさ――」
エレオノーラは溜め息を吐いて続ける。
「ギルマンと副総長と戦った時に“帰天”を使って、身体、かなりボロボロになってんじゃないの?」
「――大丈夫だ。ギルマンの時はともかく、イグナーツと戦った時は“天使化”していた時間も短かった。特別、身体に異常もない」
「ならいいんだけどさ……」
どこか納得はしていない顔で、エレオノーラは肩を竦めた。それから彼女は大人しくデスクに向き直り、魔術の研究を再開し始める。
その様子を、シオンは少しだけ怪訝な顔つきで見遣っていた。
何故、イグナーツと戦った時に“帰天”を使ったことを知っている?――あの場に、エレオノーラはいなかったはずだ。確かに、騎士団のナンバーツーと戦うのだから、切り札である“帰天”を使うことは容易に想像できるが、彼女のさっきの言い方は、まるでその場に居合わせたか、“誰か”から聞いたかのような口ぶりだった。
情報が錯綜している件に重ねて、どうにも、この女を信用しきれない。
「ちょ、ちょっと、さっきから何まじまじと見つめてんの?」
シオンが凝視していることに気付いたエレオノーラが、恥ずかしそうに声を上げた。
違和感の正体、及び証拠が掴めていない以上、ここで不用意に疑いをかければ、この先どんな影響が出るかわからない。シオンはとりあえずやり過ごすことにした。
「ところで、何の魔術の研究をしているんだ? たまに夜遅くまでやっているが」
「アンタの背中。このホテルに缶詰めになったおかげで、解析が凄い進んだからね。色々まとめてんの」
「まとめてるって……大丈夫なのか、記録に残して? 教会にバレたら、命を狙われるぞ」
“騎士の聖痕”と“悪魔の烙印”――大陸史が始まって以来、教会が頑なに独占してきた大いなる力の象徴。機械文明が発達し、多くの人間が容易く“力”を行使できるこの時代になってもなお教会がその権威を失わないのは、偏にそれらのお陰といっていい。
そんなものが書物としてまとめられ、第三者の手に教会の機密情報が渡ってしまうことがあれば、その影響は計り知れない。
しかし、エレオノーラはそんなことなど露ほども懸念していない様子で肩を竦めた。
「別に公表なんてしないし、アタシしか見返さないよ。それに、どうせ暗号化してアタシにしか読めないようにするし」
対策になっているのか、回答になっているのか、何とも言えない主張に、シオンは芳しくない顔をする。
「そういう問題か? もし教会にバレたとして、俺も守ってやれる自信はないぞ」
エレオノーラが吹き出した。
「ぶっ倒れてアタシに運ばれてた癖に、なに言ってんの?」
普段の彼女からは想像もつかないほどにゲラゲラと品のない笑いをする。
そんな姿を見て、シオンは軽く嘆息した。
「後悔しないならいい」
その直後に、エレオノーラは笑うのを止めた。そして――
「――いいよ、別に守ってくれなくて」
ベランダから入り込んだ風の音に、その小さな声はかき消された。
※
「ロットン茶法事件は?」
「……聖王暦一七七七年十二月十二日!」
「聖王暦一七七三年十二月十六日」
シオンが出した歴史の年号問題に自信たっぷりに答えたステラだったが、誤答だった。ステラはベッドの上で枕に顔をうずめ、うわあああん、と、わざとらしく声を上げる。
「何で私こんな馬鹿なんですか! 自国で起きた重大事件の年号すらまともに答えられないなんて!」
「真面目に歴史を勉強しなかったからでしょ」
エレオノーラが的確に原因を言い当てた。
「だって、歴史なんて大人になっても絶対役に立たないと思ってたんですもん! そんな百五十年以上前の出来事知ってたところで何か意味あるんですか!」
「王族の言葉とは思えないな」
「同感。ホント、大丈夫なの、この国?」
シオンとエレオノーラが辛辣な言葉を残すと、ステラは、ぐぬぬ、と、もどかしそうに歯を食いしばった。
夕食を終え、時刻は十九時を回ろうとしていた。
ベッドでうつ伏せになるシオンの上にはエレオノーラが跨っており、“騎士の聖痕”と“悪魔の烙印”の解析を進めている。その隣のベッドにステラがいるのだが、突然、彼女から勉強を教えてほしいとの申し入れが二人にあったのだ。これから女王になることを考えれば、教養は高くなくてはならないと、ステラなりに立派な意識を持ったらしい。
そこで、エレオノーラに乗られている間は特にすることもないと、シオンが一問一答形式でログレス王国の歴史問題を出していたのだが、これまでのステラの正答率は二割を切っていた。
自国の重大事件すら把握できていないこの王女に、果たして国の統治を任せることができるのだろうか――そんな不安が、シオンとエレオノーラの胸中に芽生えていた。
「東エルド交易会社が解体したのは?」
「え、何ですかその会社?」
「もう駄目かもしれないね、この国」
ステラがまた大袈裟に枕を抱え込んで声を上げた。この王女、どうやら勉学はからっきし駄目なようで、学校の成績もあまり良くなかったとのことだ。運動と芸術については他と一線を画す能力があったようだが、理系教科にしろ、文系教科にしろ、試験はいつも再々試験までやらされていたらしい。
「女王になった暁には、まずは政治よりも勉強に力を入れた方がいいな。このままだと、お前の失言が原因で大陸中を巻き込んだ大戦争が起こりそうだ」
「……今この状況でそんなこと言わないでください、本当にそうなりそうなんですから」
もごもごとステラが枕に顔をうずめたまま、恨み言のように呟いた。
そんな彼女を見て、シオンは一度黙ることにする。小さく息を吐いて、嘆かわしく静かに目を瞑り――
「――ッ!?」
微かな赤い光と共に突如として走った背中の痛みに、思わず体を跳ねさせた。背中に乗っていたエレオノーラが、小さな悲鳴を上げて後ろに倒れ、ベッドから落ちた。
「何だ、何をした!?」
シオンが驚いて起き上がると、エレオノーラはスカートを押さえながら立ち上がった。
「いったぁ……。ちょっとくらい我慢してよ!」
「だから何をした!?」
シオンの怒声に、エレオノーラは顔を顰めながら口を尖らせる。
「“騎士の聖痕”と“悪魔の烙印”の実行反応をちょっと見ただけ。頑丈な身体してんだから、ちょっとくらい痛いの我慢してよ」
「やるにしても一言何か声をかけろよ……かなり痛いんだぞ、あの赤い光が出ると……」
珍しく痛がるシオンだったが、エレオノーラは、はいはい、と大して悪びれた様子もなく軽く流した。その後で、
「とりあえず、調べたいことは調べ終わったから、今日はもういいよ。さ、お風呂入ってワイン飲もー」
と、身体を大きく伸ばしてさっさとバスルームへ向かってしまった。
そんな彼女の背中を、シオンは苛立ち収まらぬ視線で睨みつけるが、バスルームの扉が閉められ、大きな溜め息を吐いた。それからインナーを着て、ベッドの上に腰を掛ける。
部屋の扉がノックされたのは、そんな時だった。
ステラが、名前を呼ばれた犬のようにして枕から顔を上げる。
「誰ですかね、こんな時間に?」
そのまま立ち上がり、扉へと早足で向かって行く。念のため、シオンも後をついていった。
扉を開けると、そこにいたのはホテルのオーナーだった。恰幅のいい初老の女性で、名をマーサという。
「あ、マーサさん。どうしたんですか?」
「ごめんなさいね、ステラ様。こんな遅くに」
そう言って、マーサは一度左右を見渡し、廊下に誰もいないことを確認する。ただならぬ雰囲気に、ステラとシオンは揃って表情を引き締めた。
「あのね、さっき配達に来てくれた酒屋さんから聞いた話なんだけど、明日から王都行の鉄道が何本か復活するみたいなの」
「本当ですか!?」
咄嗟に喜ぶステラだが、対するマーサの顔は未だに険しいままだった。
「でもね、良くない知らせもあって。今日からこの街に、ガリア兵が多く入って来ているみたい。もしかすると、ステラ様たちのことがバレちゃったのかもしれない。もしそうだったら、私のせいだわ……ごめんなさい」
とんでもない失態を晒してしまったと、マーサは落ち込んだ。
一方で、ステラはすぐに首を左右に振ってそれを否定した。
「気にしないでください。ここにずっと居座っても、遅かれ早かれ気付かれていたでしょうし。それよりも、情報提供、ありがとうございます」
「ステラ様……」
マーサがステラを抱き寄せる。
「今度は、ちゃんと観光で来てちょうだいね」
「はい!」
短い抱擁を終えて、マーサが退室した。すぐにステラとシオンは部屋の奥へと戻る。
そして、
「まずは明日、俺が一人で街の様子を見に行く。お前とエレオノーラはいつでもホテルを出られる準備をして待機してくれ。問題なく鉄道を使えそうだったら、またここに戻って知らせる」
「わかりました」
短い作戦会議を開き、明日出発の準備を始めることにした。
長い休息を経て、三人の絆は充分すぎるほどに深められていた。状況は厳しい。だが、この三人であれば、今まで通り困難を乗り越えられるはず――都合のよい悲劇は、いつも忘れた時にやってくるということを、この時のシオンは気付けていなかった。
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