第68話
シオンたち一行がグラスランドに入ってから、すでに五日が経過しようとしていた。これまでの騒動に対する休息を取るに充分な時間だったが、一向に身動きが取れないこの状況に、やや苛立ちを覚え始める頃でもあった。
現在、一行はグラスランドの片隅にある小さな個人経営のホテルに滞在している。ここはかつて、ログレス王国の王族たちがお忍びで旅行をするために利用していた場所だ。王族専用の部屋があり、一般人には決して開放していないため、そこならガリア兵や騎士団が来てもやり過ごすことができると、ステラの提案だった。ホテルのオーナーは、前女王の友人でもある恰幅のいい初老の貴婦人で、ステラの姿を見るなり、号泣しながら歓迎してくれた。ステラのことは幼少期の頃から知っているようで、一時期、王女死亡説が国内に流れていたこともあるらしく、その反動もあってえらく手厚いもてなしを受けることになった。
そのあまりの居心地の良さに、いっそこのまま暫く休めたらいいのにと、滞在初日にエレオノーラが口走ったのだが――何の因果か、そうならざるを得ない状況になってしまっていたのだ。
「まーた新聞読んでんの?」
部屋のプライベートプールから出てきたエレオノーラが、身体を拭きながらシオンに話しかけてきた。布面積の少ない、中々に際どい黒の水着を着用している。彼女はそのままソファに座った。
「寝る時と食事の時以外、そればっかりじゃん」
テーブルの上のジュースを飲みながら、呆れるように言ってきた。
一方でシオンは、黙々と新聞を広げ、ペンで気になる記事をひたすらマーキングしていた。彼の座る椅子の横には、すでに数えきれない数の過去の新聞が積まれている。
「そういうお前こそ、寝る時と食事の時以外は、泳いでいるか、俺の背中調べているか、何か魔術の研究しているだけだろ」
「アンタと比べたら割と健康的で有意義な生活をしていると思うけど」
エレオノーラは苦笑して、積まれた新聞を一つ手に取った。
「今更なんだけど、何をそんなに熱心に調べてんの? 丁寧にマーキングまでして」
広げて、シオンを小馬鹿にしたように見遣った。
「二年近く投獄されていたせいで、今の大陸の時世がよくわかっていない。騎士団分裂戦争が終わってから今まで、何がどうなっていたのかを追っている。ホテルの外に出られない以上、これくらいしかやることがない」
「アンタもプールで泳げばいいのに。水着ならホテルが貸してくれるよ? 体動かした方がいいと思うけど」
「ここに来るまで散々動かしてきただろ。むしろ、今はゆっくり休んでいたいくらいだ」
シオンが言うと、エレオノーラは肩を竦めて新聞をテーブルの上に放り投げた。それから足を組み直し、
「それにしても、いつまでここに居ればいいんだろうね。ここに来たときは居心地が良すぎてずっと休んでいたいとは言ったけど、さすがに飽きてきたな」
やや退屈そうにぼやいた。
シオンたちがホテルから出られない理由――それには、二つの要因があった。
一つは、騎士たちがこの街に徘徊しているかもしれないということ。この街について間もなく、シオンがそれに気付いた。騎士団が保有する空中戦艦スローネが、この街の近隣に向かって高度を下げていくのを目撃したのである。空中戦艦は、円卓の議席Ⅳ番――ヴァルター・ハインケルと一部の騎士のみが、その複雑な操舵機構を魔術によって制御できる代物だ。
まず間違いなく、自分たちがグラスランドにいることが知られているだろう。その上、おそらくはアルバートたちも空中戦艦の中にいると思われる。不用意に外に出れば、今度こそ追い詰められる可能性があった。
二つ目は、王都へと続く交通機関が、すべて止められてしまったことだ。比重としては、こちらの方が深刻だった。何故なら、ログレス王国の王都は、大陸本土から若干西に離れた場所にある孤島の上に存在しているのである。そこに辿り着くためには、船の定期便を利用した海路と、大陸本土から伸びる数本の海峡大橋、及び鉄道を利用するしか他に手段がないのだが、それらすべてが、突然、ガリア軍によって制限をかけられた。どうやら厳重な検問が仕掛けられているようで、恐らくは、ステラを捉えるためだろうと、シオンは予想した。
そんな状態で王都へ向かうのは無謀と判断し、長期滞在ができるここで暫く動向を伺うことにしたのだが――
「待っているしかない上に、いつまで経っても何の当てもできないのは、いささか堪えきれないものがあるな。お前の言う通り、ひたすら新聞を読み続けるのも少し酷になってきた」
堪らず、シオンがぼやいた。新聞を閉じて背もたれに体重を預け、疲れたように目を瞑る。
すると、ふと、いつの間にか背後に回り込んできたエレオノーラが、両肩を揉んできた。
「そんじゃあ、そろそろ本日の印章解析タイムにしますかね? お昼前に、ちょっとだけ、ね?」
「……わかった」
このホテルに宿泊するようになってからは、もはや定常業務のようになっているシオンの背中の印章解析――旅の状況とは打って変わり、その進捗はいたって目覚ましいようで、ここ数日のエレオノーラはご機嫌な様子だった。
シオンは椅子から立ち上がり、上裸になってベッドの上にうつ伏せになる。それから間もなく、エレオノーラが諸々の書籍やペンを手に跨ろうとするが、
「ちょっと待て、濡れた体のまま乗るつもりか? さっきプールから上がったばかりだろ」
シオンが少し驚きながら顔を顰めた。
エレオノーラは鼻を軽く鳴らす。
「ご心配なく。魔術で一気に乾かしちゃうから」
そう言って、慣れた手つきで自身の腕にペンで印章を書きこむ。直後、エレオノーラの体表に纏っていた水気が、一気に水蒸気へと変わった。
それを見たシオンが、少しだけ感心した顔になる。
「こうして改めて見ると、やっぱり凄いな――」
まじまじと見つめられ、エレオノーラは咄嗟に胸と下半身を手で隠した。
「え、ちょ、ちょっと、いきなり何言ってんの! 改まって言われると、アタシだって恥ずか――」
「お前の魔術」
顔を赤らめて若干にやけていたエレオノーラだったが、シオンの最後の一言を聞いて、すん、と表情を無に返した。
彼女はそのまま、無言でシオンの背に乗る。どすん、と、無駄に勢いがつけられていた。
シオンが、短く呻く。
「な、なんだ? 乗るならもう少しゆっくり腰を下ろしてくれ」
しかし、エレオノーラは仏頂面のまま返事をしなかった。
そんな彼女の態度にさらに文句を言おうとしたが、それも不毛だと、シオンは仕方なく押し黙ることにした。
不意に、部屋の扉が開いて、勢いのいい足音が入ってきたのは、そんな時である。
「シオンさん、エレオノーラさん、今日のお昼ご飯はご当地名産のグラスランドビーフのステーキですよ! いやあ、ここに居たらどんどん太っちゃいま――」
オーナーと会話していたステラが、部屋に戻ってきた。
ステラは、二人を見るなり――正確には、シオンに水着姿で跨るエレオノーラを見て、ニヤニヤと顔に厭らしい笑みを浮かばせる。
「すねえ……。ふふ」
「なに?」
エレオノーラが不機嫌に訊いたが、ステラはどこか悟ったような穏やかな顔を返した。
「いえいえ。エレオノーラさんも大胆なことをするなあと思いまして」
その言葉を聞いたエレオノーラが、ハッとしたように顔を赤くさせた。それからすぐに、ステラを睨む。
「何の話?」
「何の話でしょうねー。でも、やっぱり、女の武器は使うに越したことはないですよね」
「ステラ!」
そして、エレオノーラが急に立ち上がり、ステラに飛びかかっていった。二人はそのまま勢い余って、プールの中へと落ちていく。
わけもわからずベッドの上に取り残されたシオンは、騒がしい光景には目を馳せず、小さく溜め息を吐いて静かに目を瞑った。
仮に、こんな世界じゃない、別の、誰もが安全で暮らせる場所で出会っていたら、こんな平和な日常が、それこそいつまでも三人で続いていたのだろうか――眠りに落ちる直前に、何故かそんなことが頭に過ぎった。
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