第六章 さようなら

第67話

 聖職者たちの朝は早い。日の出よりも早くに起きていた彼らは、礼拝堂を始めとした教皇庁内の至るところに出入りを始めていた。

 忙しなく動き回る彼らが、自身を目にした時に軽く会釈をしてくるのを尻目に、イグナーツはブーツの音を重そうに鳴らしていた。教皇庁の最奥部にある一室――教皇の執務室とされている部屋に、イグナーツは向かっているのである。礼拝堂を通じてそこに向かうまでの壁天井には、中世頃からの強大なフレスコ画が隙間なく描かれていた。神話、あるいは聖書の出来事を描いた装飾絵画の内装が、来訪者をその物語の中へ取り込もうとしているかの如く、大胆かつ荘厳に出迎えてくれた。


「お久しぶりです、副総長」


 執務室へと続く両開きの扉の前に、二人の騎士が立っていた。

 二人の騎士は、イグナーツを見るなり、各々の胸に手を当てて軽い会釈を見せてくる。


「お久しぶりですね、リカルド卿、ハンス卿。貴方たちⅧ、Ⅸ番コンビも、教皇専属の護衛になって随分と経ちますね。そろそろ飽きてきた頃じゃないですか?」


 円卓の議席Ⅷ番――リカルド・カリオンは、頬から口周りまで薄く伸ばした髭を擦りながら、苦笑して肩を竦めた。歳は四十前後で、堀の深い小麦色の顔をした偉丈夫だ。ウェーブのかかった黒髪はしっかりとまとめられており、前髪部分を少しだけ垂らして色っぽく見せている。


「飽きたなんてもんじゃないですよ。この教皇庁から出たのなんて、もう半年も前の話だ。女の子一人ナンパできやしない」

「そう言って貴方、二週間ほど前に若いシスターにちょっかい出したそうじゃないですか。ちゃんと私の耳には入っていますからね。気を付けてください」

「なんと。でも、大丈夫ですよ。手は出してません、まだね」

「そのまま出さないでください。私が怒られてしまう」


 イグナーツとリカルドがそんな調子で軽口を言い合っている傍ら、もう一人の騎士――円卓の議席Ⅸ番――ハンス・ノーディンは、その間、瞬きひとつせずに精巧な等身大の彫像の如く立っていた。リカルドと同じくらいの年齢と身長だが、色白な肌をしている。頭髪と髭が一切ないところも対照的であった。常に眉間に皺を寄せているが、これが彼の平常時の顔らしい。


「ハンス卿も大変ですね。教皇猊下だけでなく、リカルド卿のお守もしないといけないのは」

「お気になさらず。慣れています」


 見た目の厳つさに違わぬ重厚な声だ。


「それは頼もしい」


 ハンスの真面目で短い回答に、イグナーツが軽く笑う。

 リカルドはそれを見て鼻白んだ。


「俺をいじめるのはその辺にして――猊下がお待ちかねですよ、副総長」


 途端に、イグナーツは気が重たそうな顔になる。


「猊下、怒ってました?」

「ええ、そりゃもう。なにやらかしたんですか?」

「心当たりがあり過ぎて、見当もつきません」

「準備万端ですね」


 リカルドはそんな皮肉を言いながら、扉に手をかけた。彼の動作に合わせて、ハンスも反対の扉に手をかける。それから二人は、言葉を交わすまでもなく、息ぴったりに扉を開いた。


「何かあったら、骨は拾ってください」


 イグナーツが最後にそう言い残し、扉の奥へと入っていく。

 すると、リカルドが、


「貴方は死んでも何も残さないでしょう」


 呆れるように笑って、扉を閉めた。

 部下たちとのひと時の談笑を終え、イグナーツは扉の奥へと歩みを進めだす。執務室へは二重扉となっており、さらに狭く短い廊下が続いていた。間もなく、先ほど通った扉よりも一回り小さい扉の前に辿り着き、


「聖王騎士団副総長、イグナーツ・フォン・マンシュタイン、ただいま到着いたしました」


 三回、ノックした。

 奥から返事がないことを了承と捉え、イグナーツはそのまま執務室へと入る。

 執務室は、最後に通った扉の大きさからは想像もつかないほどの広さがあった。五歳児くらいの子供であれば、数十人はここにいれて運動場にできるほどの空間だ。内装は慎ましく質素だが、逆にその無機質ともいえる雰囲気が、一定の物々しさを漂わせている。


 そして、その空間の中央壁際に設置された机に、教皇は座っていた。ミトラとストールは身に付けておらず、祭服姿でもなかった。人前に出る時とは打って変わり、控えめなカソックを着ている。一見すると司祭にすら思えないみすぼらしい身なりだが、ただ黙って座っているだけでも、その姿には紛れもない権力者としての風格が備わっていた。

 後ろに流すようにまとめられた黒髪に、猫の目のような金色の瞳を携えた顔で、教皇――アーノエル六世は、じっとイグナーツを睨みつけている。


 イグナーツは特にそれに臆した様子も見せず、慣れた足取りで部屋の奥へと進んだ。


「失礼いたします、猊下。何かございましたでしょうか?」


 教皇は、イグナーツが歩いている間に口を開き始める。


「ステラ・エイミスと黒騎士の件について訊きたいことがある」


 イグナーツは机を挟んだ位置で教皇を正面に据えた。


「であれば、わざわざこのようにして対面で話すこともなかったのでは? いつも通り、電話でのやり取りでよかったと思いますが」

「エレオノーラ・コーゼルという教会魔術師が、あの二人と一緒にいるようだな」


 一方的に質疑応答を進められ、イグナーツはその顔から余裕を消した。


「以前、卿からの報告の際には、ステラ・エイミスと同行しているのは黒騎士だけとあったはずだ。どの時点で情報に差異が出た?」

「お言葉ですが、猊下。猊下はその情報をどこから――」

「先にお前が答えろ」


 強い口調で差してきた。イグナーツは一度大きく息を吸い込み、それから徐に口を動かす。


「私が把握している限りでは、黒騎士たちがルベルトワを出立した時点になります。ですので、彼らがアルクノイアに辿り――」

「何故、私に報告しなかった?」

「その必要性を感じなかったためです」

「何故?」

「たかだか教会魔術師一人が増えたところで、猊下が懸念とされるような事態は起きないと思料いたしました」

「卿が思う私が懸念していることとは?」

「無論、ステラ・エイミスが戴冠式を開催し、猊下をログレス王国の王都に招き入れることです。そうすることで黒騎士が猊下を暗殺する舞台を整える、それを懸念されているのでは?」


 イグナーツの回答を受けて、教皇は椅子の背もたれに体重を預けた。


「間違ってはない。だが、それは少しぼかした言い方だ」

「と、仰るのは?」

「私が懸念していることは一つだ。シンプルに、黒騎士が私の前に生きて現れること。それさえどうにでもなれば、黒騎士が暴れようが、どこぞの王女が私を戴冠式に呼びつけて女王になろうが知ったことではない。あの娘がログレス王国の女王になって困るのは私ではなく、ガリアの老人どもだ」

「……ですから、その過程で戴冠式を開催されると猊下はお困りになるのでは? ステラ・エイミスと黒騎士が手を組んでいる状態を放置すれば、暗殺される舞台が造られるのをみすみす見逃すことになる。私は、それを猊下の懸念と捉えております」

「イグナーツ、お前が無駄に話を複雑にする時は、何か隠し事をしている時だ」


 イグナーツの眉間に微かな皺が寄った。

 教皇はさらに続ける。


「まあいい、時間は限られている。話を戻そう。エレオノーラ・コーゼルについてだが――あの魔術師、十九歳にしてかなり腕が立つらしいな。だが、それ以上に気になることがあった」

「いかがされましたか?」

「七歳以前の経歴が一切ない。教会魔術師である以上、対象者の経歴はすべからく明確にされていることが前提のはずだが、これはいったい、どういうことだ?」


 イグナーツは肩を竦めた。


「恐れ入りますが、私もすべての教会魔術師の経歴について事細かに把握しているわけでは――」

「ルベルトワの領主、フレデリックが教会魔術師の募集をかけていた時、エレオノーラ・コーゼルからも申し入れがあったらしいな。その直後に黒騎士とステラ・エイミスがエルフの人体実験を暴き、そして、三人はそのまま旅の一行となった――これは、すべて偶然か?」


 教皇が徐々に語気を強めるが、イグナーツは両手を軽く挙げてとぼける仕草を見せた。


「偶然では? エルフの人体実験の事実が明るみになることを懸念しているのであればご安心を。ご命令通り、研究者として派遣していた教会魔術師たちは皆回収済み、領主と証拠は抹消済みです」

「お前が言う証拠とは何だ? それには何が書かれていた? 何を以て証拠と呼ぶ? そういえば、その報告もまだ受けていなかったな」


 その言葉を聞いたイグナーツの顔が、一気に無表情になる。

 逆に教皇は、目つきが鋭いまま、獲物を捉えたような微笑を口元に浮かばせた。


「まさか、私に虚偽の報告をしているということはないだろうな?」

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