第65話

 ――また来たの?


 白濁とした意識の中で、“彼女”が呼びかけてきた。

 戦争終結直後に実施された異端審問――あの日から、もう数えきれないくらいに同じ夢を何度も見る。

 何もない白い場所で、自分一人だけが取り残されている。そこへ、“彼女”の声だけが聞こえるのだ。


 ――貴方からしてみれば、私は凄いお婆ちゃんなのだけれど。


  “彼女”の名を呼ぼうとするも、この空間の中では一切の声を上げられなかった。それどころか、手足すら重く、まったく動くことができない。


 ――私たち、仮にも聖職者なのに、こんなことになって大丈夫なのかな。


 悪戯っぽく笑う“彼女”の声だけ聞こえるのが、腹立たしいほどにもどかしかった。何故こうも、苛むような状態で見せてくるのか。


 ――シオン、あとは、よろしくね。


 また、あの笑顔を、せめてもう一度だけ見たい。

 この夢が覚めるのは、いつもその想いが収まりきらなくなった時だった。







 やけにかじかんだ感じと、肌を刺す微かな痛みによって意識を呼び戻した。

 シオンは、うっすらと開けた瞼に差し込む光に目を眩ませながら、小さく顔を顰める。


「シオンさん!?」「シオン!?」


 はじめに視界に入ったのは、青い空だった。その左右に、自身を覗き込む二つの顔がある。今となっては、もはや見慣れた二人の女だ。

 セミロングに整えられたバーミリオンの髪に、青い瞳を持つ少女――ステラ。

 二つ縛りの薄い桃色の髪に、琥珀色の瞳を持つ女――エレオノーラ。


 不安そうに眉根を寄せる二人を認識して、シオンは現実に戻ったのだと理解できた。

 上体を起こすと、身体の節々が痛んだ。イグナーツから受けた攻撃というより、“天使化”による影響だろう。ただ、不幸中の幸いで、“天使化”していた時間が短かったためか、前回ほどの苦痛はない。


「無理しないで」


 背中を支えてきたエレオノーラ。シオンは、未だに霞がかった視力で彼女を見遣る。


「何がどうなった? イグナーツは?」

「わからない。いつまで経ってもアンタが来ないから、夜が明けたタイミングで様子を見にここに戻ってみたの。その時にはもう、アンタ一人が仰向けに寝ているだけで、他には誰もいなかった」


 ようやく視界がはっきりしてきたところで、シオンは周囲を見渡してみた。


 もしや、イグナーツと遭遇したこと自体が夢だったのではとも思ったが、交戦した跡は間違いなく残っている。ヒュドラの亡骸もそのままで、そこから造られた精霊の残骸もしっかりと存在していた。

 騎士団副総長にして、最上位の教会魔術師であるイグナーツが、敵の止めを刺し損ねたとは考えにくい。恐らくは、見逃されたと考えるのが妥当だろう。


 シオンは顔を顰めながら頭を軽く左右に振った。


「いったい何が目的だ、あの男」


 忌々しく小声で吐き捨てて、立ち上がる。エレオノーラに肩を貸してもらいながら、シオンはもう一度周囲を見てみた。

 ここに居合わせているのは、自分の他に、ステラと、エレオノーラ、それにブラウンを含めた数名の兵士たちだ。兵士たちは、当初より半分ほどの人数になっている。


「他の兵たちはすでに出発したのか?」


 シオンが訊くと、ブラウンが頷いた。


「陽動も兼ねて、偽物たちと一緒に、一足先にリズトーンへ向かわせた。我々も後でそこで合流して、それから国内を巡ることにしている」


 次に、シオンはステラを見る。


「お前は無事なのか?」


 不意に話しかけられ、ステラは一瞬驚いたように体を上下させた。


「あ、は、はい。私は特に何もありませんでしたが――シオンさんこそ、大丈夫なんですか?」

「身体に痛みはあるが、前回のように動けないほどじゃない。これくらいなら歩きながらでも回復する」


 しかし、ステラは、どことなく信じられない――というより、心底心配するような面持ちで、訝しげに眉根を寄せた。


「本当ですか? 意識失っている間、ずっとうわ言を呟いてましたけど……」

「ステラ!」


 すかさず、エレオノーラがステラの言動を咎めるように制止した。

 シオンは、若干、恥ずかしさで顔から火が出るような心境になった。


「う、うわ言?」


 ステラとエレオノーラに確認すると、二人はどことなく気まずそうに頷く。

 シオンは、いたたまれない気持ちに駆り立てられるように、


「な、なんて言っていた?」


 思い切って訊いてみた。

 ステラとエレオノーラは、互いに顔を見合わせて、何とも言えない表情になる。無言で、どちらがその問いに答えるかを押し付け合っているかのようだった。

 シオンはいよいよもどかしさを抑えられなくなり、やや苛立った目つきをエレオノーラに向けた。


「なんだ、そんなに言い辛いことを言っていたのか、俺は?」


 すると、エレオノーラは少しだけ、何か不満そうな顔になって、口を開き始めた。


「……“リディア”って、誰?」


 その名を聞いて、シオンは一気に血の気が引いた。双眸は虚空へと向けられ、口を半開きのまま徐に俯く。


 まさか――いや、夢に見ていたのだから、無意識のうちにその名を口にしていてもおかしくはない。


 異様な反応を見せたシオンに、ステラとエレオノーラが揃って慌てた。


「あ、こ、答えたくなかったらいいんだけどさ」

「すみません、シオンさんの女性関係を野暮に訊いてしまったようで――」

「別にそういう話って決まったわけじゃないでしょうが」

「え、でもリディアって女性に多い名前じゃあ……」


 二人が、微妙な空気にしてしまった責任の押し付け合いを始めだした。

 一方のシオンはというと、エレオノーラの肩から体を離し、一人でふらふらと前進する。地面に落ちていた刀と鞘を拾うと、黙々と剣袋に入れて剣帯に収めた。剣帯を身体に巻いて刀を腰に差し、ステラとエレオノーラに振り返る。


「――昔の同僚だ」


 それだけを答えた。







「本当に王都に向かわれるのですか? それも、たった三人で」


 ブラウンたち兵士が、別れの間際にそう訊いてきた。

 その問いに、ステラは力強く頷く。


「はい。戴冠式をしないことには、ガリアはそれを口実に延々と駄々をこねる一方だと思うので。それしか、選択肢はありません。三人といっても、一緒に来てくれるのは、黒騎士と教会魔術師ですからね。文字通り、百人力です」


 確かな決意を孕んだステラの言葉を聞いて、ブラウンは一度大きく息を吸って、徐に吐いた。


「本来であれば、ステラ様をお守りするのはログレス王国国軍である我らの務めなのですが――それが叶わないこと、どうかお許しください」

「仕方ないですよ。何人も兵隊さんを連れて歩くと、目立っちゃいますからね。こっそり王都に近づくには、シオンさんたちと一緒に少人数で行くのが一番です」


 やけに真面目腐って、まるで無礼を詫びるかのようなブラウンの佇まいに、ステラは苦笑気味に応じた。ブラウンもそれにつられて小さく笑い――不意に、兵士たちが一斉にステラの前に整列し始める。

 そして、


「総員、ステラ王女に敬礼!」


 唐突なブラウンの号令と共に、兵士たちが一斉に敬礼を見せてきた。その後の、直れ、の号令が出されるまで、ステラは呆気に取られた様子で目を丸くさせた。

 ステラがまだ気圧されている最中に、ブラウンが再度近づいてくる。


「それではステラ様、道中、どうかお気をつけて。王都で再会しましょう」


 そう言って、微笑みながら、再度敬礼した。


「はい、ブラウン中尉たちもお気をつけて」


 ステラも慣れない所作で敬礼を返し、そう彼らを激励する。


 そんな短いやり取りを経て、兵士たちはリズトーンのある方角に進みだした。

 彼らが目標とするのは、リズトーンの騒動で生き残った住民たちと、森を追われて国内を放浪しているエルフたちの保護である。また、保護が完了した暁には、国内各地で潜伏している王国軍と合流し、王都へ戻る算段だ。来たる日に、女王に即位するステラを必ず守りに行くと、ブラウンたちは誓ってくれた。


 ステラは暫くその背中を一人ひとり見送っていたが、やがて見えなくなったところで――


「シオンさん、エレオノーラさん」


 振り返り、黒騎士と、教会魔術師に向き直った。


「あともう少しですが、引き続きよろしくお願いします」


 かしこまった王女に、エレオノーラがなれなれしく肩を寄せる。


「どうしたのさ、今更、改まっちゃって」


 エレオノーラがステラの両頬を揉みながらそう揶揄った。ステラは頭の後ろを掻きながら、どことなく申し訳なさそうな笑みを見せる。


「い、いやあ、自国の兵隊さんたちを目の当たりにしたら、しっかりしなきゃ、って思いまして」

「王様っぽくなってきたんじゃないのー。この、この」


 照れるステラの両頬を、エレオノーラがさらに指で揉みしだいた。


 そんな二人のやり取りを、少し離れたところでシオンは眺めていた。

 いたって平和な微笑ましいやり取り――だが、シオンの表情は、あまり柔和なものではなかった。


 どうしても、疑念が晴れないのだ。


「ちょっと、シオン。さっきから何怖い顔してんの?」


 エレオノーラ――彼女の存在が、この旅の中で不穏に大きくなっていることに、彼は気付き始めていた。

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