第64話
「エレオノーラ! 今すぐステラと兵を連れて逃げろ!」
シオンが怒号を上げた。刀に手を添えて構えたまま、イグナーツの挙動を見逃さぬよう一切の視線を外さなかった。
エレオノーラが慌てて一歩前に出る。
「ま、待ってよ、シオン!」
シオンを宥めるかの如く、愛想笑いのような笑みを浮かべる。
「相手は騎士団の副総長で、 “賢者(メイガス)”の銘を持つ教会魔術師だよ!? “賢者(メイガス)”は教会魔術師の中でも最上位の術者に与えられる特別な銘! アンタでもさすがに無理だって! もう一度話し合って――」
「そんなことはわかってる、さっさとしろ!」
振り返ってエレオノーラを睨みつけたシオンの表情は、かつてないほどに怒りで歪んでいた。
エレオノーラは怯えに体を震わせ、それ以上の言葉を詰まらせる。それから、奥歯を強く噛み締めてステラの腕を引いた。
「行くよ!」
「え、エレオノーラさん!?」
強く腕を引かれ、ステラは堪らずたたらを踏む。
「待ってください、シオンさんはどうするんですか!?」
「知らないよ、あんな奴! 逃げろって言うんだから、そうするしかないじゃない!」
やけくそ気味にエレオノーラが言うと、ステラは彼女の腕を振りほどいた。
「置いていけないです! だって、あの騎士は副総長で――」
ステラはそこまで言いかけて、うわっ、と短い悲鳴を上げた。
兵士のブラウンが、彼女を肩に乗せて担ぎ上げたのである。
「ステラ様、申し訳ありませんがここに残ることは承服しかねます。騎士同士の争いに巻き込まれれば、この場にいる兵の総力を以てしてもステラ様をお守りすることはできないでしょう。ここは、逃げる以外の選択肢がありません」
ブラウンはステラを諭すように言って、兵士たちを引き連れ、この場から走り去ろうとした。
その間際に、ブラウンに担がれたステラがシオンの名を叫ぶが――彼の耳には、届かなかった。
そして、この廃集落に、シオンとイグナーツの二人だけが残った。未だに燃えるヒュドラの亡骸が、黒騎士と、騎士団副総長に、長い影を残す。
「ギャラリーがいなくなったところで、ぼちぼち始めますか」
イグナーツが煙草を吹かしながら、不意に歩き始めた。向かう先は、燃え続けるヒュドラの死体である。
「アルクノイアではユリウス卿とプリシラ卿と交戦したみたいですが、さすがに議席持ちでもないあの二人では相手にもならなかったようですね。二年間投獄されていたとはいえ、その実力は衰えずといったところでしょうか」
そして、何を思ったのか、突然、ヒュドラに杖を突き立てた。
「とはいえ、私が直接戦うとなると、いささか可哀そうな話でもあります。ウォーミングアップも兼ねて、まずは前座を用意しましょうかね」
イグナーツのその言葉に応じるかのように、ヒュドラの死体に変化が生じ始めた。
ヒュドラの死体が、杖を刺されたところから変形していく。泡立つように肉塊がうねり出し、その巨躯から分離していった。本体から離れたそれらの肉塊は、それ一つが生き物のようにしてさらに何かを模っていく。
それからものの数秒で、変化は止まった。最終的に肉塊が模ったのは、成人男性ほどの大きさの蜥蜴である。大きさもそうだが、何よりもそれが特異と思わせるのは、全身が鱗の代わりに炎に包まれていたことだ。
「“火の精霊サラマンダー”――見るのは久々ですかね? 実を言うと、私もこうして精霊を造り出すのは久しぶりでして。うまくできて、少しだけほっとしています」
イグナーツは煙草を吸いながら、足元を這う三匹のサラマンダーたちに目を馳せた。ペットを可愛がるようにして、火が燃え移ることを恐れずにそれぞれの頭を軽く撫でる。
精霊――魔物が魔術によって生み出された人工生物であるのに対し、精霊には命、あるいは魂と呼ぶべき概念がない。造り出した術者の意のままに操られる、いわば人形のようなものだ。魔物の製造と比べて大掛かりな設備を必要とせず、指示に調教の必要もないことから、より利便性に長けた疑似生命体である。だが、その反面、常に魔術師がその動きを制御しなければならないため、魔物と違い、調教を経て覚えさせた言葉による指示指令はできず、誰もが扱えるというわけではなかった。
イグナーツは紫煙を吐き出しながら、シオンを改めて見遣る。
「さて、まずはお手並み拝見といきましょうか。ガリア公国軍准将、“機械仕掛けの雷神”を屠ったその実力、とくと見せてください」
刹那、三匹のサラマンダーが一斉にシオンに向かって走り出した。さながら地割れの亀裂が広がるようにして、三つの炎が地面を這っていく。
三匹いるサラマンダーのうちの一匹が、シオンの頭に向かって大口を開けた。サラマンダーの身体はヒュドラの血肉を利用して造られているため、生物と同様に有機的ではあったが、身に纏う炎がその実体をぼやかしている。何も知らない者が見れば、それは朱色に燃ゆる幽霊にしか映らなかっただろう。
シオンは刀を引き抜き、縦一閃にサラマンダーを斬り裂いた。斬り裂かれたサラマンダーは地面に落ちると同時に元の肉塊に戻り、直後に灰となる。
それを見たイグナーツが、おお、と嬉しそうに声を上げた。
「あっさりと一匹倒しましたか。剣の腕はいまだ健在ということですね」
続けて、左右からサラマンダーがシオンに向かって襲ってくる。
シオンはそれを上に飛び退いて躱すと、落下の勢いを利用して片方のサラマンダーの頭を踏み抜いた。地面ごと穿つ踏みつけは、サラマンダーの頭を跡形もなく爆散させる。
刹那、もう一匹のサラマンダーが、激昂したかのようにその身に纏う炎を花弁の如く広げた。まさしく炎の精と呼ぶにふさわしい有様になった状態で、シオンへと突進していく。
だが、すでにシオンの姿はなく――彼は、いつの間にかそのサラマンダーの胴体を横に分断していた。最後の一匹は、蝋燭の火が消えるような趣で地に伏した。
二十秒もかからなかった一連の出来事に、イグナーツが拍手を送る。
「さすが、円卓の議席ⅩⅢ番の実力は伊達ではないですね。サラマンダー三匹、並の騎士ならそれなりに苦戦したであろうに。一匹だけでも、強化人間くらいであれば楽に倒せるくらいの強さなんですがね」
イグナーツは手にしていた煙草を消し炭にした。
「体も温まってきたところで、そろそろ本番といきますか」
その一言を受けて、シオンは刀を構え直した。イグナーツからは殺気を感じないが、異様な圧はひしひしと肌に刺さっていた。
イグナーツがどんな戦い方をするのか、それは元部下のシオンもよく知らなかった。多種多様な魔術を駆使し、それこそ御伽噺に出てくるような“魔法使い”のように、ありとあらゆる現象を恣意的に起こすということくらいしか、情報は持ち得ていない。
そんな彼と敵対する上で最も気を付けるべきは、何といっても、先のトーマス大臣を一瞬にして消してしまった、物質の分解である。イグナーツは、生物、非生物を問わず、ありとあらゆる物質を分子、あるいは原子レベルまで分解することができる。
当然、その魔術を食らった生物は死ぬことになるのだが――それには他の魔術とは違った、特定条件下でしか行使できないという制約があった。それは、分解対象が生物であった場合、術者がその生体情報を遺伝子レベルで把握しておく必要があることだ。
制約をクリアするには、イグナーツが分解対象の生体情報を即席ですべて解析する必要がある。解析する手段として一番手っ取り早いのが、採血して間もない対象生物の生き血を手に入れること。
つまり、シオンは、イグナーツとの戦闘において血を流すことはできないのだ。
「随分と慎重ですね、貴方らしくもない」
サラマンダーと対峙した時とは打って変わって大人しくなったシオンを見て、イグナーツが挑発した。
「このまま何も起こらないというのもつまらないので、先に仕掛けますか」
そう言って、イグナーツがシオンに向かって人差し指を向ける。すると、突如として指先から稲妻が迸った。稲妻はそのまま矢のようにシオンへと向かい、彼の胸を穿とうとする。
シオンは、その光の矢を間一髪のところで避けると同時に、一気にイグナーツへと肉薄した。そのまま刀を素早く薙ぎ、イグナーツを逆袈裟に斬りつけるが――
「いい反応です。なんだ、二年間の運動不足は、まったく問題ないみたいですね」
イグナーツは血を出すこともなく、また、着ている服にすらも異常がない様子でそう言った。
シオンが、忌々しそうに顔を顰める。
「くそっ!」
悪態をついた後で、一度イグナーツから距離を取った。それからシオンは呼吸を整えながら刀を握り直す。
そこへ、
「シオン、もう一度考え直してはみませんか? どう考えても、貴方が私に勝つことはあり得ないと思うのですが」
イグナーツが再度提案してきた。
しかし、シオンはその言葉を聞いて、さらにその赤い双眸を怒りの炎で染め上げる。
「――ほざくな!」
そして、怒号に合わせて“帰天”を使った。
“天使化”したシオンは、赤黒い稲妻を纏い、双角に見立てられた欠けた光輪を携えた。
その名に反した禍々しい見た目になった直後、イグナーツへと疾駆する。駆け抜け様に振られた彼の剣閃は間違いなくイグナーツの胴体を上下に分断したはずだが――振り返って確認すると、例によってイグナーツは何事もなかったかのように無事でいた。
イグナーツは、変わり果てたシオンの姿を見て、少しだけ目を細める。
「なんて有様ですか。まるで“天使”とは程遠い。さしずめ、貴方の使うそれは、“堕天”、そしてその姿は“悪魔”といったところで――」
言いかけたところで、イグナーツの頭が上顎半分から、シオンの刀によって刎ねられる。
しかし、
「――すか。いやはや、昔の貴方の“天使化”状態は、それはとても美しいものだったんですがね。何だか、不良になってしまった親戚の子供を見ているような気分ですよ。親戚いないんですけどね」
イグナーツは無事な様子で、嘆かわしそうに首を左右に振っていた。
余裕たっぷりな振る舞いをするイグナーツ――その一方で、シオンはすでに疲労困憊といった様子だ。激しい息切れを起こしており、肩を大きく上下させて呼吸している。追撃すらも憚られているようだった。
イグナーツがそれを見て、呆れた顔になる。
「“天使化”の一時的な身体強化は、騎士の強靭な肉体があってようやく耐えられるもの。そして、“天使化”中に使うことのできる電磁気力を利用した斥力と引力の操作は、それ以上に行使者の身体に負担をかける。まして、シオン、貴方の“帰天”は“悪魔の烙印”による抑制効果を無理やり無視するようにして発動させている。その身体にかかる負荷は、通常のそれとは大きく逸脱しているでしょうに」
自分事のようにして忠告をぼやいた。
だが、シオンはそんなことなどまったく耳に入っていないようで――悪魔を呼びつけるような雄叫びを上げた。
直後、シオンから、赤黒い稲妻が周囲の物質を消し飛ばすようにして沸き起こる。
シオンは、赤い光刃そのもののとなって、イグナーツへと強襲した。
もはや、生物の枠組みを外れ、光の速度さえ上回ったのではと思わせるほどの一閃だった。
そうしてシオンが最後に放った一刀の跡には、何も残っていない。地面は広範囲に黒く焼け焦げ――その上に、イグナーツの姿は微塵も残っていなかった。
しかし――
「少し、頭を冷やしましょうか」
突如として現れたイグナーツが、いつの間にかシオンの隣に立ち、一方的に肩を組んでいた。
そして、シオンがそれに驚く間もなく――彼は“氷漬け”にされてしまった。
文字通り、刹那の出来事だった。
シオンの身体は、イグナーツに首を向けた状態で、時間そのものが止められたように静止している。体中の表面を白い氷で覆われ、季節外れの氷像になっていた。
イグナーツは徐にシオンから体を離すと、どこからともなく煙草を取り出して火を点ける。
「やれやれだ。暴れん坊なところはまるで変わっていない。普段はいたって涼しげなんですがね」
そう言いながら煙草を吹かし、シオンを正面に見据える。
「強さにかまけた無鉄砲さ――貴方個人の話であれば大いに結構なのですが、それを今回の騒動に持ち込まれては、こちらとしてもいささかやりにくいのですよ。まあ、ステラ王女を保護しつつ、教皇の弱みを手に入れたことには感謝していますが。私も、“脱線事故に見せかけた”甲斐があったというものです」
イグナーツは、杖の先をシオンの心臓部分に突き付けた。
「ここで貴方を消してしまうのは造作もないことですが――またまた気が変わりました。折角なので、もう少し、貴方には働いてもらいましょうかね。このままだとアルバート卿たちが手持ち無沙汰になってしまいますし」
こつん、と杖の先をシオンに当てると、彼を拘束していた氷が、一瞬で剥がれる。そのまま脱力して倒れるシオンの身体を、イグナーツが受け止めた。
「私から見れば、今の貴方は生者でも死者でもない。何者にもなれず、ただ教皇への復讐心のみを糧に動き続ける哀れな半端者だ」
イグナーツはシオンの身体を仰向けに寝かせる。
「まあ、それほどまでに、“彼女”への想いが強かったということなのでしょうかね。一人の男として同情しますよ、貴方には」
それから煙草を一息吸って、イグナーツは踵を返した。
「願わくば、次に会った時には、かつての気高い騎士としての志を取り戻していることを期待しますよ。黒騎士シオン」
それがシオン本人に聞こえているのかいないのか――そんな些末なことを確認するまでもなく、またしてもイグナーツの姿は、忽然と消えていた。
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