第60話

 廃教会の壁が小刻みに震える。爆撃でも受けたかのような振動だ。

 ただならぬ出来事に、エレオノーラとブラウンはすぐに窓から外を確認した。

 夜の闇の中で、巨大な煙が上がっているのがわかる。その発生源は、ステラたちのいる宿だ。そしてその宿はというと、巨大な何かに押しつぶされたように倒壊してしまっている。


「ブラウン中尉!」


 エレオノーラとブラウンが驚いている矢先に、一人の兵士がこの廃教会の二階にやってきた。


「何事だ!?」


 兵士は息切れしたままブラウンの前で敬礼した。


「魔物が現れました! 複数の頭を持つ大蛇です! 現在、兵が応戦中ですが、小銃ではまともな攻撃にならず、討伐は難しい状況です! 即刻、この場からの撤退を進言いたします!」

「ヒュドラだね。なんでまたそんな大層な魔物が――」


 エレオノーラが魔物の種類を当てた直後、不意にブラウンが銃口を彼女に向けた。


「魔術師! 貴様の仕業か!?」


 しかし、エレオノーラは嘆息気味に息を吐いて首を横に振った。


「そんなわけないでしょ。いくら魔術師でも、こんな設備もない場所で魔物なんてそうほいほい造れるものじゃないし。ていうか、アタシは魔物製造に関しては門外漢だからね」


 彼女の説明を聞いて、ブラウンは歯噛みしながら銃を降ろした。


「くそ! まずはステラ様をお守りすることが最優先だ! ステラ様、トーマス大臣!」


 突然、ブラウンに声をかけられ、自称ステラとトーマス大臣は体をビクつかせた。


「お二人はこれから私についてきてください。安全な場所までご案内します」

「よ、よろしくお願いしますわ、兵士さん」「あ、ああ。是非とも頼んだ」


 二人が同時に頷いたあとで、ブラウンは報告に来た兵士に目を馳せた。


「お前は上の階にいる黒騎士殿に応援を要請してくれ。黒騎士殿であれば、魔物の処理など造作もないだろう」


 指示を受けた兵士は、はい、と勢いの良い返事をしてすぐに三階へと昇っていった。

 そんなやり取りを尻目に、エレオノーラは一人で一階に続く階段へと走り出していた。そこへ、ブラウンが手を伸ばす。


「こ、こら、魔術師! 勝手に動くな!」


 エレオノーラは一瞬だけ立ち止まり、振り返った。


「悪いけど、アンタらの指示を聞いてる余裕はないの。こっちは“偽物”じゃないんで」

「は? “偽物”?」


 ブラウンが眉間に皺を寄せて呆ける。その隣では、自称ステラとトーマス大臣が、ぎくっ、と身を強張らせていた。







 外に出ると、怒号と発砲音、それに“巨体”が地面を擦る音が忙しなく響いていた。


 月明りと燭台の灯に照らされて映るのは、巨大な漆黒の蛇――しかし、先の兵士の報告通り、その頭部は一つではなく九つある。全長でいえば五十メートルはあるだろうか。ヒュドラと呼ばれるこの大蛇もまた、ゴブリンやオークと同様、自然界に存在しない、魔術によって造られた人工生物――魔物である。


 兵士たちが小銃の弾丸を立て続けに撃ち込むが、その漆黒の鱗に傷一つ残せないでいる。一方のヒュドラはというと、そんなことなど全く意に介してないようで、どことなく気だるそうにゆっくりと前進しながら、何かを物色する様子で舌をちろちろと出していた。


 エレオノーラはすぐにステラたちのいる宿の方へと駆け出した。すると、そこには、荷物とシオンを引きずりながら、必死の形相で息を切らすステラの姿があった。


「よかった! アンタら無事だったんだ! 宿が壊されたからどうなっているか心配だったよ」


 エレオノーラが安堵の表情をすると、ステラはうつ伏せにバタンと倒れ込んだ。


「ぎ、ギリギリでした……いきなり地面からあの蛇が出てきたと思ったら……私たちの宿を蹂躙するように通り過ぎて……シオンさん起きないし、荷物も重いしで……」


 ぜーぜーと、顔を真っ赤にさせながらステラが声を絞り出す。そんな彼女を労わるように、エレオノーラは頭を撫でた。


「よしよし。アンタはホント偉いよ、王様の器、ちゃんと持ってるね。それに比べてこいつは――」


 そう言いながら睨みつけたのは、シオンだ。シオンは未だに覚醒しておらず、目を瞑ったまま地面に転がっている。


「マジで何で起きないの? こんな騒ぎになってんのに。オラッ、起きろ、起きろ!」


 エレオノーラはシオンの上に跨り、彼の両頬を往復ビンタした。しかし、シオンの両頬が赤くなるだけで、一向に目が開く気配がない。

 エレオノーラはため息を吐きながら諦めて立ち上がると、今度は自身の荷物を手に取った。縦長のスーツケースを開き、中からマスケットを模した長大なライフルを取り出す。


「ステラ、疲れてるところ悪いけど、シオン連れてどっか安全な場所に隠れて。アタシはあの蛇なんとかしてくるから、よろしくね」


 ライフルのボルトを引きながらエレオノーラはステラに目を馳せた。ステラは手足をぷるぷる震わせながら、徐に立ち上がる。


「あの大蛇も魔物なんですよね? 何でこんなところに?」

「さあ? あれだけの大きさだから、どっかから逃げ出したのが野生化したとは考えにくいけど――どうでもいいよ、今は。それよりも――」


 ライフルに弾丸を装填し、エレオノーラはそれで自身の肩を軽く叩いた。彼女が言いかけて見つめた先は、ヒュドラの方である。しかし、妙に芳しくない顔になって、小首を傾げた。


「あの蛇ちゃん、何してんだろ?」


 ヒュドラの奇行に、エレオノーラが眉根を寄せた。

 ヒュドラは、偽物たちと大臣のいる廃教会の方へ向かっていた。そのままのそのそと外壁を伝って登ろうとしているが、どうにもキレが悪い――というか、何かに迷っているようだった。うねうねと多頭を巡らして廃教会の中を窓から覗き込んでいるが、探し物でもあるのだろうか。

 そこへ――


「何をもたもたしている! さっさと“偽”王女たちを食い殺せ!」


 そんな怒号がどこからともなく聞こえてきた。

 エレオノーラが咄嗟にライフルを構えて、声の起こった方を振り返る。

 すると、そこには、青い軍服を着た三人の男たち――ガリア兵がいた。

 エレオノーラとステラが、揃って驚愕の表情になる。


「どうしてガリア兵が!?」

「わかんないけど、今の台詞から察するに、あの蛇に“偽”王女を食わせたいみたいだね」


 ステラを背中に庇いながら、エレオノーラが忌々しそうに唸った。そして、ガリア兵に向けて引き金を絞る。

 長大なライフルから放たれた火球はガリア兵たちの目の前で激しい爆発を起こし、彼らを一瞬で吹き飛ばした。直後に、ガリア兵たちが地面から伸びた無機質な蔦に体を拘束され、地面に仰向けに並べられる。

 言うまでもなく一連の事象はエレオノーラの魔術であり、彼女は早速、ガリア兵たちの所に駆け寄った。


「ちょっと、アンタらがあの蛇の飼い主? 何しようとしてんの?」

「な、何だ、お前は……?」


 身体をところどころ焦がした状態でガリア兵が呻く。

 エレオノーラは容赦なく、喋ったガリア兵の腹にヒールブーツの踵をめり込ませた。


「いいからさっさとアタシの質問に答えろ」

「ひゅ、ヒュドラに偽物の王女を始末させようと……」


 ガリア兵は短い悲鳴を上げつつ、素直に答えてくれた。

 しかし、エレオノーラはさらに踵をガリア兵の腹に強く押しこむ。ガリア兵は悶絶しながら絶叫した。


「なんで?」

「偽物の利用価値が、なくなった、から……」


 そこで沈黙してしまった。ガリア兵は白目をむいたまま涎を垂らし、気絶した。


「おい、コラ! 寝るな!」


 エレオノーラがガシガシと踵で何度も踏みつけるが、ガリア兵はされるがままで目を覚まさなかった。他の二人のガリア兵も同様で、というより、最初のエレオノーラの爆炎を受けた時点で意識を失っていた。


 仕方がない、と溜め息を吐くエレオノーラ。


 そんな時、突如、ぎゃあああ、というステラの悲鳴が響き渡る。

 エレオノーラが慌てて振り返ると、


「何でこっちに来るんですか!」

「助けて! 助けて!」

「死にたくない! 僕はまだ死にたくない!」

「ま、待ってくれ! わしを置いてかないでくれ!」


 ステラと、自称ステラと、自称黒騎士と、トーマス大臣が、ヒュドラに追いかけ回されているところだった。

 さらに、


「総員、何としてもあの大蛇を止めろ! ステラ様をお守りするんだ!」


 そのヒュドラの後ろからは、ブラウンを始めとした兵士たちが追いかけている。


「えぇ……」


 エレオノーラが、そんな光景を見て顔を顰めた。

 どうやら偽物たちは、廃教会を出て間もなくヒュドラに見つかってしまったようである。そして偽物たちが逃げた先にステラがいて、彼女は不運にも巻き込まれてしまったらしい。

 そんなステラが、エレオノーラを必死の形相で見遣る。


「エレオノーラさん、助けてください! お願いします! 早く!」


 言われなくてもと、エレオノーラはライフルを構えてヒュドラに照準を合わせた。だが、あの巨体を仕留めるほどの威力を持つ火球を出そうとすると、前を走るステラたちも間違いなく巻き込んでしまうことに気が付いた。ガリア兵たちにやったように地面から無機質な蔦を出して拘束しようにも、あの大きさでは簡単に振りほどかれてしまうだろう。障害物を地面から突き出したとしても同様だ。


「わかってる! わかってるからもうちょっと蛇から距離取って! そんなに近いと魔術に巻き込んじゃう!」

「無茶言わないでください! 今も全力疾走です!」


 ステラの言葉を受けて、エレオノーラは苛立った声を上げた。

 そうこうしている間に、ヒュドラとステラたちの距離がどんどん縮まっていく。どうやらヒュドラは、完全にステラも獲物として認識してしまっているようだ。


 そして、最悪の事態が起きた。

 自称ステラが躓いて転び、その際に本物のステラも巻き込んだのである。

 土煙を上げながら激しく地面に転がる二人のステラ――そこへ、ヒュドラの大口が迫る。


「ぎゃあああああ!」「いやあああああ!」


 二人の口から悲鳴が迸り――突如として、ヒュドラの動きが止まった。

 見ると、その長大な巨体が、一瞬だけ激しく波打った。ヒュドラの九つの頭はいずれも苦悶に喘ぎ、のた打ち回るように振り回されている。その少し前には、何か大きな衝撃が地面を伝ってきたのだが――


「――あ!」


 そんな声を上げたステラの視線は、ヒュドラの背中に向けられている。すると、そこには、


「シ゛オ゛ン゛さ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ん゛!」


 意識を取り戻したシオンがいた。ヒュドラの背中に立つシオンの足は漆黒の鱗に深くめり込んでおり、どうやら先の衝撃は、彼が力任せに踏みつけた際に生じたもののようだ。


 間一髪のところでヒュドラの動きが止まったことと、シオンが目を覚ましたことに、エレオノーラがほっと胸を撫で下ろす。


「ようやく起きたか」


 その矢先、悶えるのを止めたヒュドラが、自身の背中にいるシオンに向かって、その長い首を伸ばしてきた。九つの大口が代わる代わるシオンを襲うが、彼はそれを軽業師の如く難なく躱し、あっという間にすり抜けてしまう。

 それからシオンは、驚くべき走力を見せつけ、二人のステラの傍らに立った。

 あまりにも人間離れした動きをするシオンに、周りの兵士たちが揃って目を丸くさせる。

 それを尻目に、


「何が起きているのかよくわからないが、とりあえずあの蛇から逃げればいいんだな?」


 シオンが端的にステラに訊いた。


「はい! 逃げてください! 超逃げてください! 離れたらエレオノーラさんが退治してくれます!」


 ステラの早口の回答を受け、シオンはステラと偽物の二人を両脇に抱えて一気にヒュドラから距離を取った。

 そして、


「エレオノーラ!」


 エレオノーラに呼びかける。

 待っていましたと言わんばかりに、彼女はすでにライフルの照準をヒュドラに定めていた。


「今まで寝ていた奴が偉そうに言うな!」


 そんな苛々を弾丸に込めて、引き金が絞られる。

 ライフルから放たれた大型の火球は、ヒュドラの首の枝分かれ部分に命中し、激しい爆発を起こした。ヒュドラは九つの首を漏れなく本体から吹き飛ばされ、焦げた肉片をあたりに散らばらせる。

 頭部と本体はそれから数秒地面でのた打ち回っていたが、間もなく静かになった。

 動きを完全に静止させたヒュドラを見て、シオンは二人のステラを降ろす。


「無事か?」


 シオンはそう言ったあと、小声で、もう一人は誰だか知らんが、と付け加えた。

 その傍らで、ステラはほっとした様子で小さく息を吐いた。


「はい、何とか。本当、シオンさんが運良く目を覚ましてくれてよかったです。一時はどうなることかと……」

「そうか、タイミングがよかったようで何よりだ。で、それはそれでよかったんだが――」


 シオンはそこで、偽物のステラに目を馳せた。


「誰だ、この人? というか、ここはどこだ?」


 訊かれて、ステラは顔を顰めながら頭の後ろを軽く掻く。


「まあ、ええと、何といいますか。色々と話したいことはあるんですが……」


 説明の仕方に悩むステラ――その一方で、偽物のステラはというと、ヒュドラを焼いた炎で照らされるシオンの美麗な容姿に見惚れているようで、うっとりとした表情のまま固まっていた。

 そこへ――


「ふんっ!」


 エレオノーラが、ライフルを振りましてシオンの顔面をストック部分で殴りつけた。


「――!? ――!?」


 シオンは、わけがわからないといった顔で、鼻先を手で押さえる。無言で理由を求める眼差しをエレオノーラに向けると、


「散々迷惑かけた仕返し、ジゴロくん」


 そう吐き捨ててきた。

 しかしそんな説明で納得できるはずもなく、シオンは釈然としない顔でエレオノーラをひたすら睨む。そんな二人を見て、ステラはやや顔を顰めながら小さく笑っていた。

 と、そんなやり取りをしている所に、ふらふらと頼りなく近づいてくる人影があった。

 それは誰かというと、


「す、すすす、ステラ様……!」


 まるで亡霊を見たかのように慄く、トーマス大臣だった。勿論、彼の見遣る先は、本物のステラである。

 トーマス大臣の言葉を聞いた兵士たちと偽物たちが、揃って目を丸くさせ、驚愕に声を上げた。


 そして、その当人であるステラは、諦めたような、観念したような、疲れたような、そんな溜め息をして、トーマス大臣を睨みつけた。


「どうも、お久しぶりです、トーマス大臣。これはいったい、どういうことなのか、説明してもらっていいですか?」


 表情こそ穏やかだったが、額には青筋を浮かべており、静かな声には確かな怒気が込められていた。

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