第五章 偽りの代償
第54話
リズトーンの駅から西へ歩き続けて早八時間――山脈地帯の終わりに近づくにつれ、獣道としか言えなかったような山道が、徐々に人の手が加えられたものへと変わっていった。斜面も緩やかになり、周囲は密集した山林と岩肌の殺伐とした景観から、日の傾き加減がわかるくらいには見通しの良い開けたものになっていた。
「あー、もう! 足が痛くてしょうがないんだけど!」
シオンとステラから一歩遅れて歩いていたエレオノーラが、突然声を上げた。
ステラもそれに同意して立ち止まり、振り返る。
「どうにかこの山脈地帯は超えられそうですけど、さすがに休みなしに歩き続けたのは疲れましたね……」
エレオノーラは、先頭を歩くシオンの背をちらりと見遣った。
「しょうがないよねー。どっかの誰かさんが、日が高くて晴れているうちにできる限り山を越えたい、とか言うんだもん」
厭味ったらしい言葉が投げかけられるが、シオンは立ち止まることなく歩みを進めていた。
「ていうかさ、もうすぐ日が暮れるじゃん? どうすんの? こんな山の中で野宿すんの?」
げんなりとした様子で、ステラががっくりと項垂れる。
「できればしたくないですけど、状況的にやむを得ずって感じなんですかね……」
「最悪……」
二人して溜め息を吐き、座るのにちょうどよさそうな大岩に腰を掛けた。そんな掛け合いにも気付いていないのか、シオンは一向に立ち止まる気配がない。
「ねえ、シオン。そろそろ今日の寝床考えないとまずいんじゃないの? ちょっとここらへんで一休みしない?」
その呼びかけにも一切応じなかった。
エレオノーラは若干不機嫌に顔を顰めながら、大きく息を吸い込む。
「ねえ、ったら! 聞こえてんでしょ! そろそろ日が暮れるし、むやみに歩くの止めた方がいいんじゃないの!?」
それでもシオンは歩くことを止めず、いよいよエレオノーラは頭に血を昇らせた。
「あいつ、機嫌でも悪いの?」
「さあ……」
隣で、ステラも怪訝そうに首を傾げた。
仕方ないと、エレオノーラが溜め息を吐いてシオンの方へ歩み寄る。そして、彼の肩に手をかけた。
「いい加減にしなさいっての。アタシら、アンタと違って無尽蔵な体力があるわけでもないんだから――」
言いかけて、突然、シオンが倒れた。
思いがけない出来事に、エレオノーラとステラが揃って驚きの声を上げる。
「ちょ、ど、どうしたの!?」
「シオンさん!?」
二人が駆け寄ると、シオンは虚ろな瞳で視線を返してきた。その顔は異様に赤く、べたついた汗に塗れている。呼吸も荒く、肩で息をしている状態だった。
シオンは、自分が倒れたことにも気付けなかったような反応で、ああ、と短く言って立ち上がろうとする。
「すまない……躓いた……」
「躓いたって――そんな倒れ方じゃなかったじゃん! しっかりしてよ!」
エレオノーラが急いで肩を貸し、ついでにシオンの額に手を当てた。そしてその熱さに、目を大きく見開く。
「何、この高熱!」
「し、シオンさん、ひとまず休みましょう!」
ステラがそう促したが、シオンは赤い双眸を震わせながら首を横に振った。
「そのうち治る……だから……」
言いながら、生気が抜けるように静かになった。突然の脱力に、彼を支えるエレオノーラが慌てて重心の位置を整える。
「って、言ってる傍から意識失うな!」
エレオノーラが呆れながら担ぎ直し、その傍らではおろおろとした様子で、ステラがシオンの顔を覗き込んでいた。
「シオンさん、どうしちゃったんでしょう? 風邪でしょうか?」
「こいつに限って、そんなことないでしょ。きっと、“天使化”の反動」
溜め息混じりにエレオノーラが言う。
「アタシたちに何も言ってないけど、結構な無理したんだと思うよ。魔術による身体能力の一時強化は、程度の差はあれ、かなりの負担を術者に強いるの。“天使化”も多分、その例外じゃない」
「負担っていうのは、具体的にどのような?」
「パッと思いつくのは、炎症反応かな。今のシオンも、多分体中が炎症起こしているせいで発熱しているんだと思う。そのうち治るって言っていたし、安静にさせていれば回復するとは思うんだけど――」
エレオノーラは周囲を見渡し、芳しくない表情になった。
「この山脈地帯に、ゆっくり休めるところがあるのかっていうね」
何度目かわからない溜め息を吐き、項垂れる。
そんな時、ふと、ステラが小さく声を上げた。彼女はとある上空を指差し、エレオノーラの肩を叩く。
「エレオノーラさん、あれ」
指し示した先には、一筋の煙が上がっていた。焦げ臭い感じもしないことから、山火事などではなさそうだ。
ということは――
「もしかして、人がいるんじゃないでしょうか?」
そう判断ができそうだった。
ステラの言葉に、エレオノーラも同意する。
「……人がいたところで、こんな辺鄙な場所にちゃんとした家屋があるとはあまり思えないけど。まあ、他にあてもないし、行くしかないか」
よいしょ、と一声上げて、エレオノーラはシオンを担ぎ直した。それからステラを見て、
「ステラ、悪いけど、アタシの荷物、代わりに運んでくれない?」
荷物運びを頼んだが、依頼先は不満そうに顔を顰めた。
「え、エレオノーラさんの荷物を私が運ぶんですか? あれ、とんでもなく重いじゃないですか。私の力じゃ到底……」
「四の五の言わずにやる。アンタとシオンじゃ身長差があり過ぎて、こいつを肩で担いで運ぶことなんてできないでしょ? だったらアンタが荷物運びになるしかないじゃない」
「はい、仰る通りで……」
しゅん、とステラはなって、しおらしくエレオノーラの荷物を持ち始めた。それから一歩足を踏み出すが、荷物の重さに堪らず、額に青筋を走らせてしまう。数日前に、アルクノイアで待ちぼうけを食らっていた時のことが思い出される。
「ふおおおぉぉぉ……!」
「ちょっと、変な掛け声出さないでよ。いくら何でも大袈裟すぎるでしょ」
「い、いや……やっぱり、エレオノーラさんの荷物、相当重いですって……! 普段からこんな重たいものを平気な顔して担いでいるエレオノーラさん、実は相当なマッチョなんじゃ……!」
「んなわけないでしょ! そこまで言うんだったら、アンタがシオンを担いで――」
エレオノーラはそう言いながらシオンの方へ顔を向けた。シオンは目を閉じ、小さな息切れを起こしながら意識を失っている状態だ。美貌ともいえるほどに整った端正な顔は、弱々しく儚げで、妙な色気を放っていた。少し体を寄せれば顔同士が接しそうなほどの至近距離でそれを見てしまい、エレオノーラは思わず顔を赤くしてすぐに視線を外す。
「エレオノーラさん? どうかしました?」
それを訝しげに見ていたステラが首を傾げ、エレオノーラはハッとして前に向き直った。
「な、なんでもない。それより、さっさと煙が上がっているところに行くよ」
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