第30話

 夕食を終え、日が完全に落ちた頃――オーケンの家の一室では、ベッドでうつ伏せに寝るシオンの上に、エレオノーラが跨っていた。天井に吊るされた小さな電球と、獣の油から作られた蠟燭の小さな灯りを頼りに、エレオノーラは、シオンの背中に刻まれた“騎士の聖痕”を調べていた。

 数多の印章の研究結果をまとめた自身の魔導書を片手に、印章に沿ってシオンの背中を指でなぞる。すると、ところどころ、触れたところから微かに皮膚と筋肉が反応した。エレオノーラはそれを面白がって、少し意地悪く、あえてくすぐるようにした。


「ここ、弱点?」

「何の話だ?」

「ここをこうやってなぞると、ピクピクって動くから。なんか軽く鳥肌立ってるし」


 軽く笑うエレオノーラに対して、シオンは面白くなさそうに顔をベッドにうずめた。


「……少しくすぐったい」


 堪らず、エレオノーラはゲラゲラと声を上げる。


「黒騎士だなんだの言って、アンタも所詮はただのヒトだね」

「悪かったな」

「いやぁ、人間らしくて大変よろしゅう思いますがねぇ」


 若干、恥ずかしそうにするシオンを見て、エレオノーラはますます上機嫌になりながら彼の背中を指で露骨になぞっていく。

 そこでふと、シオンがベッドから少しだけ顔を上げた。


「人間らしい、か」

「うん?」


 珍しくシオンが自分への評価に反応したなと、エレオノーラは思った。この男とはまだ一週間ほどの付き合いしかない。だが、それでも彼が、人付き合いを好む方ではないことは、この短い期間で如実に見て取れた。

 だからこそ、その何気ない反応に少しだけ違和感を持った。


「珍しいね。アンタが自分の評価を気にするなんて」

「……昔、そう言われて嬉しかった覚えがある」

「ふーん。今は?」

「そうでもなかった」

「何それ」


 エレオノーラが顔を顰めながら嘆息する。私が言うと駄目なのか――そんなことを考えた。


「まあ、騎士って言ったって、人間であることには変わりないんだし。人間らしいって言われて喜ぶのも中々変わってるよね」

「こんな体になると、自分が本当に人間なのか、疑問を持つことが多々ある。超人的な能力を身に付けてしまったことを受け入れることができずに精神を病んでしまう騎士も少なくない」

「自業自得じゃん、そんなの。自分で騎士になること選んだんでしょ?」

「選ばざるをえない騎士も多かった。身寄りがなく、孤児としても生活ができない子供が、それこそ奴隷の掃き溜めのようにして扱われ、行き場を失って騎士団の門を叩く――そんな事例は数えきれないほどにあった」


 自分のことのように話すシオンを見て、エレオノーラの手が一瞬止まった。それはアンタのこと? ――と、訊こうとして、喉にその言葉を留めた。代わりに、何か魔術師らしいことを言って話を変えようと、瞬時に頭を切り替える。


「じゃあ、騎士団は人材には困っていなさそうだね。羨ましい限りだわ。教会魔術師は年々数を減らしていっているっていうのに。ま、そのおかげでアタシも大陸諸国では引く手あまたなんだけどさ」

「騎士団は慢性的に人材不足だ。騎士になれる子供はわずかだからな。百人に聖痕を刻んで、そのうち五人もなることができれば上出来だ」

「……騎士になれなかった子供はどうなるの?」

「どうなる、というより、どうにかなってしまって、騎士になれない。人間の子供だからといって、“騎士の聖痕”に必ず適合するわけじゃない。どうにかなったうちの半分が肉体の劣化、もう半分は厳しい訓練に耐えきれずに命を落とす」

「……聞くんじゃなかった。この話と今日の印章解析、もうオシマイ!」


 そう言って、エレオノーラはシオンの背中を、ペチン、と勢いよく叩いた。ベッドから立ち上がり、魔導書を閉じる。その後ろでは、シオンが黙々と服を着ていた。


「“騎士の聖痕”については何もわからなかったけど、“悪魔の烙印”については少しわかったことがあるよ。それだけでも今日の収穫としては充分かな」

「何がわかった?」

「“悪魔の烙印”の役割は大きく二つ。“騎士の聖痕”の仕組みを暗号化するのと、印章効果の抑制。多分、こうやって万が一、外に黒騎士が逃げ出した時に“騎士の聖痕”を解析されないようにするのと、これ以上騎士が強くならないようにするためじゃないかな」

「なるほど。納得した」


 そう端的に感想を述べたシオンはジャケットを羽織り、早々に部屋を後にしようとした。

 そこへ、エレオノーラがふと思い出したことがあり、声をかける。


「そういえばさ、アンタってなんでまた教皇に喧嘩売ったりしたの? 二年前に騎士団分裂戦争が勃発した時、大陸中大騒ぎだったよ。でも結局、戦犯の騎士の犯行動機は不明で、お茶の間は不完全燃焼だったけど」


 シオンは、エレオノーラに目を合わせなかった。


「お前には関係ない話だ。下手に知れば、お前も騎士団に目を付けられるかもしれないぞ」

「“騎士の聖痕”を解析しようとしている時点で今さらって感じだけど、まあ、アンタなりの優しさってことで深入りしないでおく」


 これで会話が終わり――シオンが部屋から出ようと足を踏み出した時、


「じゃあさ、もしもの話、次こそ教皇の暗殺が成功したら、アンタはそのあとどうするつもりなの?」


 次に、エレオノーラは間髪入れずにそう訊いた。

 エレオノーラの質問を背に受けたシオンは足を止め、少しだけ顔を後ろに向けた。


「……ステラに訊けって言われたのか?」


 何でそこでステラが話に出てくる――エレオノーラは軽く顔を顰めた。


「何それ? ステラがどうのとか知らないし」

「あいつにも同じことを訊かれた」

「あっそ。お生憎様、姫様とはまったく関係ございません。アタシが個人的に気になっただけ」


 シオンは、少しだけ考えるような無言の間を置く。それから、徐に口を動かした。


「特に何も決めていない」

「死ぬ気でしょ? 教皇暗殺なんかしでかして、そのあとこの大陸に居場所なんてできるわけないもんね」


 エレオノーラの言葉に、シオンは何も反応を示さなかった。エレオノーラは肩を竦めながらさらに続ける。


「まあ、黒騎士になった時点で将来なんてあるわけないんだろうけど。そう考えたら、死ぬしかないか」

「……そうだな」


 そのシオンの声は、今までに聞いた中でも一番に弱々しかった。何気なく放った今の発言も軽くあしらわれるだけだろうと、エレオノーラは思っていた。それだけに、意外にも寂しそうな反応を見せたことに、エレオノーラは虚を突かれた。


「――ならさ、いっそこのままどっか逃げる?」


 それに何かしらの感情が付与される前に、エレオノーラは、ぼそりと言った。

 シオンが眉間を顰めながら振り返り、首を傾げる。


「何か考え事しながら話しているのか? 少し変だぞ」


 言われて、エレオノーラは意識を取り戻したようにハッとした。


「あ、いや、ホントね! ちょっとぼーっとしてた! ごめんごめん」


 エレオノーラは誤魔化すように頭の後ろを掻き、アハハ、と愛想笑いをした。

 それを見たシオンはまだどこか不審そう見ていたが、一度小さな息を吐いて、部屋の扉に手をかけた。


「疲れているなら早く寝ろよ。協力関係にいるうちは、頼りにしているんだからな」

「はいはい」


 そう言い残して、シオンは扉の向こうに消えた。

 静かに閉じられた扉を見て、エレオノーラは軽く目を伏せる。


「頼りにしてる、ね。素直に言われると、何だか調子狂うわぁ」


 しかし、その言葉に反して、内心そこまで気分は悪くなかった。むしろ、自分でも認識しきれない初めて感じた気持ちに、どこか高揚感に似た居心地の良さすら抱いている。

 何故か少しだけ速まった鼓動を落ち着かせるように、エレオノーラは大きく深呼吸をした。

 その後で、表情を少しだけ引き締める。


「……ちゃんと仕事しないといけないのに」


 そして、“自分の役割”を改めて再認識させるため、ひとり呟く。それからエレオノーラは、軽く両頬を手で叩いたあとで、勢いよく踵を返した。

 今日はもう遅いし、このまま寝てしまおう――部屋の扉が勢いよく開いたのは、そう思った時だった。入ってきたのはシオンだ。


「え、ちょ、な――」


 エレオノーラがそれに驚いているなか、シオンが部屋の明かりを消して彼女の口を塞ぐ。

 あまりにも突然の出来事に、エレオノーラはされるがまま壁際に追いやられた。心臓がバクバクと音を立て始めた矢先、シオンが彼女の耳元に顔を近づけてきた。

 これから何をされるのか、色んな感情が胸中を駆け巡り――


「ノラとカルヴァンが慌ただしく部屋を出ていった。カルヴァンが半ば無理やりにノラを連れ出したようにも見えたが――この部屋の窓から見える方に向かったみたいだ。少し覗かせてもらうぞ」


 シオンはそれだけ言い残して、さっさと部屋の窓の方へ行ってしまった。カーテンの布を開け、熱心な様子で、家から出ていった二人の動向を伺っている。

 暗闇の中でエレオノーラは、そんな彼の背中を白い目で見遣る。それまで昂っていた彼女の“何かしらの気持ち”が、急速に冷めていった――そんなことなどいざ知らず、シオンはいつもの調子で振り返る。


「カルヴァンは夕方に他のガリア兵の捕虜と接触したが、幾つか不審な点があった。その直後にこれだ。嫌な予感がする」

「さいですか」


 エレオノーラはえらく平坦な声で応じて鼻を鳴らした。

 それには構わず、シオンは一人忙しく、今度は部屋の外へ足を向ける。


「俺はこれから二人の後をつける。お前は念のため、いつでもここから出られる準備をしてくれ。ステラにも同じことを伝えるの、頼んだぞ」


 エレオノーラは渋い顔をしながら後頭部を掻き毟り、大きなため息を吐いた。


「はいはい。いつも通り、何か面倒なことになんのね。仰せのままに、黒騎士様」

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