初めてのお仕事
月曜日は週の始まり。普段は憂鬱ばかりを覚えて、ボクらが地獄を生きているのかと勘違いしてしまうほど絶望的な倦怠感を抱いてならない悪魔の日。電車に揺られ会社や学校に通うとしている周りの人の顔には悲愴がありありと浮かんでいる。悲愴と言ってもベートーヴェンのように綺麗さを覚える悲愴でなく、ただただ俗世の疲労と汚ればかりを覚える悲愴である。
そんな暗い暗い電車の中。ドアとその横の手すりと座席の隙間にある妙に収まりのよく心地のいい場所。そこに挟まっていたボクの心は周囲の空気とは反対に輝いていた。もはやボクの胸には歓喜が満ちていたと言ってもいい。感情の波が激しくて時折不整脈が襲ってくるくらいには激情と言っても良いほどの歓喜を抱いていた。
しかしこの歓喜も周りの悲愴と同じく俗世の醜さをかき集めた汚ればかりを覚える歓喜である。なにせその根源にあるのがお金への人一倍にある執着であるのだから。
ピコがボクに言ってくれた「通学中でも変身してれば時給は出すわよ」との言葉。それがどうにもボクの心を浮つかせてしまう。具体的には電車の車輪が線路と線路の合間にあるほんのわずかな溝を通って鳴るガタゴトという音が、ボクにはチャリンチャリンと銭が財布に降って来る音に聞こえてならなかったのである。
だから今、ボクは頬が緩んでしまいそうで必死にそれを堪えている。けれどそれもガタゴトなる度に崩れそうになる。
「……あんた、ほんとに守銭奴よね。可愛い顔の癖に、引くくらいのレベルで」
それも高校の最寄り駅まで二駅くらいのところで耐えられなくなって、顔の緩みを隠すために身体を背ける。俯いてドア横の手すりに頭を押し付けスマホを開く。それでもニヘラと緩んでしまう口元を見たピコに忠告された。そしてドン引かれる。
いや、分かっている。ボクだってそんなことくらいわかっている。銭に目をくらんでろくでもないことをしてしまった人間というのは歴史上数多くいた。けど、けど緩んでしまうから仕方ないじゃない。
ふへへ、だっておかねがふってくるんだもの。
「――いっ、た」
しかしその瞬間、一段と大きい揺れがボクを襲い頭がほんのわずかに手すりから離れてしまう。それから幾ばくもなく労働意欲旺盛な慣性クンがボクの頭の位置を元に戻そうと勢いよく手すりに頭を押し付けた。
襲う衝撃、消える歓喜、地面に堕とされる浮ついた心。
「ほら見なさいよバカ。おとなしくしておきなさい」
お陰で頬の緩みも吹き飛んだ。
□
薄黒い汚れた校舎の壁。所々に見え隠れする白い部分のお陰で元は綺麗な白色であったのだろうことを微かにボクらに教えてくれる。昇降口の黒い床も元はもう少し綺麗な灰色であったのだろう。
校舎の中に入る。そうして見えてくるところどころがひび割れた廊下の壁、同じくひび割れ欠けた部分の目立つ色あせた床のタイル。
階段をのぼる。階段の踊り場に掛けられた謎の磔の絵をみて毎度のことながら首を傾げる。なんで朝っぱらからこんな残酷な絵なんかを見なきゃならんのか、と。どうやら過去の美術部の部員が描いたらしい絵。その禍々しさから目を逸らして二階に着く。
見えてきた教室、そしてボクの侵入を阻む金属製の扉に嫌気が差す。気持ちの悪い淡いミントグリーンに塗られているくせに、ところどころに赤錆が見える変なドア。その尋常でなく重いのを体重をかけてようやく開け切り教室に入る。そうしてまみえる我がクラス、二年三組教室である。
人のまだ少ないこの教室は、二階であるくせに立地が致命的なほどに悪い。だから日が全然入らずにそのうえ風通りもそこまで良くないから湿気が強く、雰囲気もそして光学的にも薄暗い場所である。それから落書き塗れに、彫刻刀で変な傷が刻み込まれまくっている教卓の横を通り過ぎ窓際のボクの席に荷物を置く。窓から見える景色は、もはや窓の存在意義を疑うほどにしみったれたものが広がっている。
言葉にせずとも気分の乗らないボロボロな公立高校。けれど言葉にしてみると不思議である、もっと気分が乗らない。もうそれは動く気力さえ失われるくらいに。
お金をもらえるとは言っても、これを目にしてみるとなかなか気分は萎える。ピコでさえ「……やっぱり犯罪をしてたのね」と茫然としてそんなことを言うくらい。たぶん文明をそれほど知らない妖精にさえ監獄と言われてしまっている程度なのだ。
「おはよー」
金曜日の朝、白毛玉ことピコのお陰で驚かせてしまった後ろの女子に声を掛ける。
凄まじい勢いでペンを動かし、鼻息を荒くさせ何かに集中しているその女子に向かって挨拶をした。仲がいいこともあるけど、だってほら、不審者には挨拶が効くって言うし。けれど返事はなくてボクの声は虚空を泳ぐ。集中しているから仕方がない。
激しい差別主義者であるピコが「呪いでもしようとしてるの、あの子」と少し恐ろしそうに言う。メガネ女子だからって逃げ腰になりながらそんなことを言う。
メガネだからってそんなことを言うなんて、ほんとにひどいヤツ。
やることもなく、気力もなく仕方がなしに本を開く。十二月の防ぎきれていない窓際の寒さと騒がしいペンの音があるボクの席で本を読み始める。ピコもそんなボクを見て、くるくる自由に教室の中を飛びまわり始める。珍しく妖精っぽい行動、薄汚れた教室に飛び散る綺麗な鱗粉が酷く似合わず目についた。
そうこうしているうちに暑苦しいヤツがやってくる。この暑苦しさは筋骨隆々で浅黒い肌の目障りさからくる精神的なものと、ヒーローとしての理外な力からくる物理的な暑さのハーモニー。絶望的な二重苦である。
あだ名はガチムチヒーロー、ホッカイロマン。それが赤井勇一クンというヤツ。
「やっほー」
ヤツのでかい身体なんて見たくない。月曜の朝っぱらから濃い顔も身体も見たくなくて、小説から目を逸らすことだけは絶対にしない。最近は赤井クンが視界の二割を占有するくらいで鬱陶しさを覚えるくらいだ。だからもう筋トレは止めてほしい。
キモいから。そんなことを思いながら目を合わせずに声を掛ける。
「……」
「……どしたの」
しかし返事もなければ赤井クンはボクの机の近くから退くことがない。赤井クンの席は隣なのだからさっさとそこに座ればいいものを、何故か突っ立っていて視界の端に浅黒いのがずっと残る。冬場だからあったかくていいんだけれど、別に赤井クンが席に座っていても大して変わらないし目障りだから早く座って欲しい。
「……いや、なんでも」
「寝ぼけてる?」
なんだかはっきりしない口調に覇気のない声。いつもは声までむさ苦しく勢いのある声なのに今日は珍しいことがあったと思わず顔を上げる。そして赤井クンの顔を見ると、彼はボクを凝視していてこっちがびっくり身体を揺らす。
目が合って数秒、少しのタイムラグがあってようやく席に荷物を置いた。
「今日もしかしてロボットを遠隔操作してる?」
「そんなわけは、ないだろ」
どっしり席に座った赤井クンの反応は、やはりどこか遅れている。しかもいつもは人が話している時にスマホなんて弄らないのに、ぽちぽちぽちぽち何かをしている。どうにもおかしい。
けれどそのあたりでけたたましいチャイムが鳴ってしまう。
入ってきた疲労しきった顔の担任。あまりに不審な赤井クンへの問いかけはその担任の哀愁漂うしわがれた「HRするから座れ」という声に遮られてしまう。仕方なく視線を赤井クンから憐れを具現化したような先生に移す。すると代わりに、赤井クンがチラチラこっちを見始めた。
コイツ、バレてないと思ってるのか。
けれどHRが終わるとすぐさま赤井クンは席を立ちどこかへといなくなってしまった。結局問い詰めることもできぬまま。赤井クンの不審な動きに飛び回っていたピコを眺めてみたが、どうにも変な顔をして「アンタ嫌われたんじゃないの?」とか言っている。怪しさはすごくあるけどたぶん違うだろう。ピコは意図的にやるときは、悪辣に嗤うヤツである。
一体なにがあったのか。鉄粉でも不足していたのだろうか、カイロマンだし。
赤井クンはどうにも不審な動きばかりをする。授業を受けることであったり、あるいはボクでない人と語らう時はなんのラグもなく、いつも通りの態度を見せていた。しかしボクがそこに入り込むと、明らかに赤井クンはまごつく。どもってなにか脳裏で答えを巡らせてから遅れて返答をしてくる。
けれどそれ以外はいつもと変わらない気怠い月曜日。だからこそ、ボクは重要なことを忘れていたのだ。
ボクはすでにヴィランの契約を済ませ、魔法少女に変身している状態であるということを。そしてヴィランは、赤井クンたちヒーローの倒すべき宿敵であることを。
それに気付いたのは、今日のお昼休みだった。
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