第五節:Tフォードみたいに

◇1919年 ニューヨーク州 マンハッタン


「やあ、ジェンナロ。この店はいつからこんな繁盛店になったんだい。」

「何言ってるんだ、ビル。失礼なやつだな。」

「君がジョークを言えと言ったんだ。」

彼は全く覚えていないようだった。

「しかし本当に繁盛してるんじゃないか?こっちでもよく君の店の話を聞くよ。」

「それは有り難いことだね。ハーレムはどうなんだ。」

 僕はそれに答えなかった。この国に住む誰もが感じるように、戦争が終わってからというもの、アメリカ全体がどんどん豊かになった。僕たちは昨日より豊かな今日を求めて、今日より豊かな明日を求めて日進月歩の成長を遂げている。あらゆる物が効率化され、アメリカという大きな滑車は回転するスピードを加速度的に上げている。

 ハーレムも決して例外ではない。僕たちのバンドだって忙しくなった。ラグハウス以外での演奏機会を得ることが増え、知名度も上がってきている。金回りも多少は良くなった。

 しかしそれらは僕の知らないところで勝手に始まり、勝手に進行しているように感じられた。渦中の人間であるはずの僕自身にはこれといった実感がなく、滑車の中から見える景色はそれほど変わったようには思えなかった。


 この店でもオリジナル・デキシーランド・ジャズ・バンドのレコードがかけられている。僕たちの音楽は彼らのものよりずっと良い。僕は席に着くとピザとコーヒーを注文してそんなことを考えた。今や彼らのレコードはアメリカ史上最高の売上枚数を誇っている。ジャズが天下を取ったのだ。だがそれはジャズを生んだ黒人の偉大さが世論に認められたからではない。白人の気晴らしに僕たち黒人の魂が消費されているだけじゃないのか。これでは農園の奴隷と何も違わない。売買されるのが労働力か文化かの違いだけで僕たち黒人が彼らの商品と見なされているという事実は依然として変わらないのだから。

「さあ、お待たせ」

ジェンナロが大皿を持って立っている。どうやら僕が卑屈な考えを巡らせている間にピザが焼けたらしい。唇の隙間から白い歯を覗かせて、小鼻が少し膨らんでいる。自信のある人間の顔つきだ。決してハンサムとは言い難いが、この屈託のない笑顔は相対する人間を安心させる。彼の容姿は客商売に向いている。

「なあジェンナロ、君はジャズを聴くのかい?」

「いいや、そういうのはさっぱり分からない。」

「今かけてる音楽がジャズっていうんだ。」

「君も意地悪だな。素人には細かい違いは分からないんだって。客寄せになるからかけてるんだよ。飲食店同業組合の友人がそう教えてくれた。」

「ジャズと分からずジャズを聞いているのか。」

「君だって少しはそういう買い物をするんじゃないのか?隣人がいいぜと言えば買うんだよ。その隣人もそのまた隣人から同じように言われて買うんだ。Tフォードみたいに。」

「Tフォードみたいに。」

「そうとも。」

彼の言い回しが鼻についた。

「僕たち黒人の大半は自動車なんて買えない。」

「よせよ、噛みつくな。論点がズレてるし俺はそういう話が嫌いなんだ。」

 少しの沈黙のあと、ジェンナロは仏頂面で仕事に戻り、僕は食べやすい温度になったピザを食べた。

 ジェンナロとのやり取りは僕にとって決して気分の良いものではなかったが考えさせられるところがあった。彼の言い分は、僕自身やハーレムで出会った多くの黒人演奏家たちが目指す成功の形が不完全であることを示唆しているように感じたからだ。ビジネスとしての成功を望むものの、一方では無為に消費されることを拒んでいる。僕はそれらの矛盾する二つのイズムを抱えているのだ。


「ところで君のボスは元気にしているかい?最近見かけなくなったけれど。」ジェンナロは話を変えた。僕より彼の方が幾分大人のようだ。

「ジョン・アバフェルディさんのこと言っているなら、彼は僕のボスなんかじゃない。」

「あの人も変わり者だって専ら噂されてるよ。君の前でこう言うのも何だけど、逃げ出した前の店主にしても、君にしても、黒人ばかりを可愛がってさ。同じイタリア系から見ても不自然なのさ、リベラルというよりは何か意図があって、わざとそうしている様にも見える。」

「ご忠告痛み入るよ。」

「それで、何か聞いていないのか?」

「それなら、アバフェルディさんは今シカゴにいるみたいだよ。なんでも向こうで掛かりきりの仕事があるとか。」

僕は密造酒について言及することは避けた。

「シカゴね。となるとマンハッタンのイタリア系を仕切るのは、か。厄介だな。」

ってのは?」

「ポール・バルメナックさ。ジョン・アバフェルディの右腕にして元始末屋。彼はナッツでも食べるみたいに簡単に、なんてことない顔をして人を殺す。いつだって賢いボスには狂人のような暴力馬鹿がセットなのさ。逆も然りだ。」

「同じイタリア系とはいえ、他のギャングのことまで。やけに詳しいじゃないか。」

「マフィア映画で見たのさ。」

やれやれ。と心の中で呟いた。決して口には出していない。先ほど彼は大人の対応をしてくれたから、今度は僕が大人になった。

「ともあれ、もしアバフェルディが不在になっているなら、君の店も彼が管理するのだろうな。気を付けることだね。」

「まったく、気を付けることばかりだ。」

「この業界では、そういう奴の方が長生きできる。これはマフィア映画の台詞だ。」

「やれやれ。」

僕はそう呟くと、会計を済ませて自分の店に向かった。その日、僕にはやることがあった。



 14時、僕は開店前の自分の店に到着した。上着を脱いで荷物と共にカウンターに置いた後、プロモーターのトミー・ロックウェルに電話をかけた。やることというのは、このいけ好かない男の事務所に電話をかけることだ。

 演奏家とは違う角度でこの業界を見た時に、僕自身がやるべきことのヒントを得られるのではないかという期待があったからだ。同じ黒人であり音楽芸術に精通し、かつ演奏家とは異なる立場で業界を見ている。そんな人物を僕は彼以外に知らなかった。

 彼とはジョン・アバフェルディへの紹介の後にも交流があり、何度か白人のパーティや大きなダンスクラブでの演奏の機会をもらっていた。

「残念ながら今紹介できる仕事は無いぞ。」彼は開口一番にそう言った。

「そうじゃないんだ。」

「じゃあなんだ。」

「なんというか、悩んでいるんだ。」

「悩むだけの脳があって良かったじゃないか。そいつがあれば天下泰平、問題は9割解決したようなもんさ。さあ、俺は仕事に戻るぞ。」

僕は彼が受話器を置こうとするのを察して慌てて引き留めた。ケチでせっかちで面倒事を嫌い、強いものには諂い弱いものには大きな顔をする。トミー・ロックウェルという人間は極めて人間的だがその生き方は人間として美しいとは言えない。

「素直に頼ってるんだよ。少しくらい時間をくれたっていいじゃないか。」

「素直だろうが天邪鬼だろうがこっちには関係ないんだよ。」

「まあ、取り敢えず聞いてくれ。分からなかったらそれでいい。話すぞ。今のジャズ音楽業界についてだ。この業界、僕たち黒人のジャズが白人に搾取されている構図に見えないか?」

「そんなもんはいつだって変わらないだろう。綿花畑で扱き使われ始めたころから何も変わっちゃいないのさ。それが嫌なら顔を白く塗ったらどうだ?実際にそうやって生きている奴だっているだろう。ハーレムには。」

 黒人の中でも肌の色には個人差がある。中にはスペインから来た人間と大差ないような奴だっている。彼らはスペイン人だと言って生きることで、就職だって上手くいくし、同じ仕事をしていても給料は黒人の倍はもらえた。そういった事実を踏まえればトミーの言い分は間違っていないし、実際に白粉を塗ってステージに立つミュージシャンも少なくない。しかしそれでは問題の根本的な解決にはならないのだ。

「ジョークだ。気を悪くしたならすまなかったよ。」

「いいや、気にしなくていい。何か違う方法はないのか?これは僕にとってとても大切な問題なんだ。僕たちが白人たちと対等なアメリカ国民であり、文化的教養を備えた知的な存在であることを示さなきゃいけない。そうでなきゃ、そのうちジャズは白人の音楽だなんて言い出す輩が出てくることになる。」

「なるほど。」

電話越しに長い沈黙が続いた。煙草の匂いがする薄暗い店内には時計の秒針の進む几帳面な音だけが響いていた。

「近いうちにあんたの店に行くよ。その時に話そう。こういうのは直接話した方が良い。」

僕は彼の中に何か思い当たるものがあったのだろうかと考えた。トミー・ロックウェルは約束の日時も告げずに電話を切った。


◇1919年 ニューヨーク州 マンハッタン


 トミー・ロックウェルの言う近いうちというのは丁度一か月後のことだった。開店前のラグハウスに「今日ビルはいるか。」といった旨の電話があり、従業員のバーテンダーが対応してくれた。僕はその日もステージに立つ予定だったので、演奏が終わり一息入れたところでトミー・ロックウェルとの何度目かの再会を果たすこととなった。

 初めて出会った時から彼の身体的特徴にほとんど変化が無いという点は会う度に驚かされる。丸い顔に丸い目、丁寧に整えられた口ひげがニヤリと笑う度に口角と共に持ちあがる。そして”よろしくない稼業”の匂いもその他の身体的特徴と同様に彼の顔つきや挙動に沁みついていた。

 その風体はアドニス社交クラブの一件から3年が経つがやはり大きな変化がない。彼の中で決められた流儀のようなものがあるのだろうか。しかし、その身を包むジャケットや革靴は会う度に上等な物へと新調されている。彼のビジネスが好調であることが伺えた。

 彼は挨拶を終え再び元のテーブルへ戻り、金のライターで煙草に火を付けた。僕は向かいの席に座り彼が話し始めるのを待った。

「ビル、あんたは問題を大きく考えすぎている。俺たちの人種は差別や歴史を絡めて途端に話を大きくする。あんたがどこかしらで感じた個人的な怒りや憎しみと俺たちの文化が侵されるんじゃないかって危機感を一緒くたに考えちゃいけない。俺たちが本当に考えなきゃいけないのは危機感の方だ。つまり白人にこの仕事を取られないようにすることだ。怒りや憎しみの方は女でも抱いて忘れるんだな。1セントの得にも成りはしない。」

彼は片手で煙草を吸い、もう片手もみあげをいじりながら話を続けた。

「本題に戻るぞ、”デキシー”がヒットしてからジャズがビッグビジネスになることに気付き始めたやつが大勢いるのさ。当然その中には白人もいる。仮にだ。仮に黒人のジャズプレイヤーと同レベルの白人演奏家が出てきたら、第一級のステージは全部そいつらに取られちまう。興行主はなるべく黒人を自分の大事なステージの上に上げたくないのさ。まあ俺の知る限り白人のジャズマンは半端者ばっかりだ。律儀に楽譜を読んでジャズ風の演奏をやってるに過ぎない。」

「でもいずれは僕たちと技量を競うようになるかもしれない。」

「そうだ。来るべきその日に仕事を取られない様にしないといけない。」

「どうすればいいんだ。」

「下請けから元請けになればいい。」

「どういうことだ。」

「誰かに紹介されて出向くだけが商売じゃないってことさ。わかるか?つまり俺無しで仕事ができるようにならなきゃいけない。」

「じゃあ、アンタはこれから何をするんだ。」

「誰だってこの町に来たばかりの頃はそう上手くいかない。だから俺が育てる。優秀なスターの種を花開かせる。そうすれば黒人が自分の名前で仕事を取れる。」

「アンタも難儀な生き方をしているな。」

「そりゃどうも。兎に角だ、文化の搾取みたいな抽象的な話はその先にある。手前の問題をクリアしないことには到底立ち向かえない。そして立ち向かうかどうかは、その時あんた自身が判断すればいい。」


 僕はその晩、ようやく地に足のついた現実的な考えに落ち着くことが出来たような気がした。思い返せば、僕は途方もない壮大な地図を眺めるばかりだった。幸福、自由、そんな抽象的なものばかりを夢見て、いつか自分の手のうちに収まることを望んでいた。しかし実際に歩き始めてみれば、見えるのはせいぜい数歩先なのだ。

 まずは自分の名前で仕事が取れるようにする。話はそれからだ。


 その後、僕はトミー・ロックウェルに酒を奢り、夜遅くに別れた。ケチでせっかちで面倒事を嫌い、強いものには諂い弱いものには大きな顔をする。そんな男がわざわざ駆けつけてくれた事実を僕は大切にしなければならない。彼はいけ好かないが、憎めない男なのだ。

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