第三節:プロパガンダも捨てたものではないのだよ
◇1919年 ニューヨーク州 マンハッタン
ジョン・アバフェルディはソファに背を預け、指を組みながら私を見据えている。
「それと、来年から君の店はどうするつもりなんだね。」
「例の禁酒法ですか。あれに従う店なんてあるんでしょうか。」
「確かに今のハーレムは無法地帯だが、今後も法の外側に位置付けられるとは思わないことだ。
「こんなくだらないことの何処にメンツがあるというんでしょうか。」
「あちらの世界の人間は私たちの様な一国民では見ることのできない大きな流れを俯瞰して、時にそれを制御しようと試みるものだ。法律、金の流れ、ムーブメント、そういうものを動かしている。全体の幸福の為に、どこを犠牲にするかといった議論が成される。そして今回動かされるのは酒だ。」
「こういう時だけ我々黒人もアメリカ人にならなければならないのですね。」
「ビル。君はこの手の話が好きだね。この問題について君がどう考えようが君の勝手だが、卑屈さは何も生まないことを覚えておきたまえ。」
「すみません。」
「謝罪を求めたのではない。君には別の方法があるのではないか。という話だよ。受動的ではあったが、君には人をまとめ上げ、巨大な敵に立ち向かった経験がある。違うかね?奇跡の少年、ビル・ダレンスバーグ。」
僕は唾を飲んだ。嫌な汗が流れる。なぜ知っている。彼には一言たりとも話した覚えはない。
「それくらい知っていて当然だ。私は君の雇い主なのだよ。知ったところで何をする訳ではないのだから、そんなことに怯える必要はない。」
彼の言葉を聞いてなお、警戒心が解かれることはなかった。僕は何を言うべきか考える間、無言で彼を見つめた。そして考えた挙句に口から出たのは愚にもつかない言い訳だった。
「僕は何もしていないんですよ。」
「これから何かすればいい。財を成し、力を付け、人をまとめ、君の望むアメリカになるように働きかければいい。プロパガンダも捨てたものではないのだよ。」
「僕はこの店の中の小さな自由さえあれば良いんです。この国が変わることなんて期待していませんよ。期待すると傷付くんです。」
「果たしてそれは君の本心かな…。まあいい、まずはその小さな自由を守るために、禁酒法下でどうするかという話だ。」
彼は葉巻を焙り、真っ白な煙を吐く。
「君にその気があれば、私はその方法を教えることができる。アウトローな方法だが、君には丁度いいのではないかね。」
彼の提示する仕事がグレーな内容であることは予想ができていた。何故なら彼は表と裏の顔を使い分け、灰色の世界で生きているからだ。彼が欲するのは、成功と地位に裏付けられた羨望の眼差しでも、恐怖と暴力による畏怖の念でもない。そういったステレオタイプの権力者ではないのだ。とは言え、その核心は巧妙に隠されているように見える。現時点で言えることは、ジョン・アバフェルディには何か明確な目標があり、それ以外のものは彼にとっては大した価値を持たないということだ。
ともあれ、彼の下で仕事をするということは、自らもその灰色の世界で生きるということに相違ないのだ。
「聞かせてもらえますか。」
「ここから先を聞くことで、君は私の提案を断ることはできなくなる。分かっているね。」
「それくらいは分かっていますよ。あなたは優しい人だが甘くはない。」
彼は少し笑った。
彼はその後、僕にもぐりの酒場として経営するように指示した。禁酒法下でバーの看板を出しておくわけにはいかないので、表向きは一階部分のアイスクリーム屋として店を改装し、合言葉を知る人だけが地下のバーで酒にありつけるように仕掛けをすることになった。
肝心な酒の仕入れ先は、アバフェルディさんの弟分が経営する会社らしいのだが、取引に必要なこと以外は聞かされなかった。彼の言葉を借りれば、
「君の仕事は荷物に同封された請求書通りに支払いをすることだけだ。」
ということらしい。仕事の性質上、リスクの回避は当然であろう。
彼は最後に、
「私はこの件でしばらくの間シカゴを拠点にする。君は精々君の小さな自由とやらを守ってくれたまえ、それが私の為にもなる。幸運を祈るよ。」
そう言って去っていった。
彼らはシカゴで密造酒を造るか、それらの密輸を担うか、若しくはその両方を行うつもりなのだろう。表と裏の世界から仕入れた情報をもとに時代の潮流を読み、システムの穴を突く。これまでは賭博や売春、これからは密造酒という大穴に彼らギャングのビジネスチャンスが潜んでいるのだ。
その穴から生じる新たな流れは、遅かれ早かれ小市民の生活と精神を塗り替えていく。人々の喉と心を潤してきた酒が失われた乾きの時代の到来と共に、僕はもぐりの酒場を経営することになった。
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