第二節:調和を乱すセント・ニコラス・アヴェニュー
◇1919年 ニューヨーク州 マンハッタン
恐ろしい夢から目を覚ますとひどく汗をかいていた。大きめに編まれた白いフィッシャーマンニットの首元はぐっしょり濡れている。
ハーレムにたどり着いてから二年が経過した今も、時々こうやって事故の日の夢を見る。天国のビルは、あるいは僕自身は、炎の中で僕が犯した罪を過去にすることを決して許してくれない。
重たい頭を上げて辺りを見回すと、ピッツェリア・ロンバルディズの見慣れた店内だった。壁にはよくニスがかけられた濃い茶色の木板が貼られており、そこにはイタリア語表記のいくつかのポスターが簡素な額に入れられ飾られている。そして壁と同じ色合いの木で作られた丸テーブルと椅子が並び、テーブルには赤と白のギンガムチェックのランチオンマットが丁寧に引かれている。眠っている間に昼食時を過ぎてしまったのか座って食事をしている客は少ない。通りに面した壁は全面が開閉式のガラス戸となっており、それらはちょうど半分程開かれていた。そこからは強い日差しの中でイタリア人労働者や黒人労働者が忙しなく通り過ぎて行く様子が伺えた。
僕は両手の指を組み、手のひらが外側を向くように回転させると肩と首をボキボキと鳴らしながら伸びをした。そうすると肺が酸素を求めて大きく膨らんだ。同時に店内からトマトソースとチーズの焼ける匂い、そして新店らしい瑞々しい活気が鼻孔を通り抜けていった。そのまま厨房に目を向けると店主のジェンナロと目が合った。
「おはようビル、うちの椅子はいい寝心地だったかい。」
「すまない。」
「謝られてもな。ジョークの一つでも言ってみたらどうなんだ。こういう時は愉快で気の利いた一言を返してくれるものじゃないのかい。」
「ジョークを言う奴もいれば、そうでない奴もいるんだ。」
「それもそうだ。」
「でもジャズをやってる奴は総じて不器用なのさ。白人達が求める無知で愉快な黒人として普通に生きられなかった奴がジャズをやるんだ。」
ジェンナロはふーんと生返事をして作業に戻っていった。彼はイズムやイデオロギーに関する話を嫌う。
しかし、そんな彼も独特の価値観を持っていた。ジェンナロの店は白人街のリトルイタリーに位置するが、その地域では珍しく黒人にも門戸を開いていた。金を払えば白人だろうが黒人だろうがピザを提供した。噂を聞いた黒人が恐る恐る店を訪ねると「食ってきな。カネには色なんて付いていない。」と言って招き入れるのが常であった。彼はきっと緑色の肌を持つ人間が来店してもピザを提供するだろう。
僕は懐中時計を取り出して時間を確認すると午後3時に差し掛かろうというところだった。そろそろ夕方の仕込みをしなければいけない。今日はジョン・アバフェルディが店に顔を出す予定だった。それに、うちの店で提供するマッシュポテトはよく茹でよく混ぜることが大切なのだ。
飲みかけの冷めたコーヒーを呷ると席から立ち、美味かったよ。と一声かけてから店を後にした。リトルイタリーの雑踏の中、僕は酸化したコーヒーの味をかき消すように煙草に火をつけ、やがてアップタウン行きのバスの列に並んだ。長居してしまった礼としてチップには色をつけておいた。
◇
マンハッタン島の区画は北東から南西に引かれたアヴェニューと北西から南東に引かれたストリートによって四角く切り取られ丁寧に並べられている。アメリカ人はマンハッタンに街を作った時から規格化と量産が好きだったのだろう。ハーレムの一角シュガー・ヒルに南北に引かれたセント・ニコラス・アヴェニューだけがそれらの区画を三角形にしたり台形にしたりして台無しにしている。調和を乱すセント・ニコラス・アヴェニューこそ、僕のような流れ者が店を構えるにはもってこいの場所だった。
そこには古臭いレンガ作りビルディングがあって地下は薄暗い酒場になっている。名前はラグハウス。
僕はその店の前で足を止め、鞄から鍵を取り出すと錠を落として閉じられていたシャッターを開いた。そして静かに地下へと降りて行った。カウンターに鞄を置き照明の電源を入れると古びた電球が薄明かりを灯した。店の中は狭く所々汚れており、カウンターに6席とテーブル掛けに18席の合計24席の客席の奥にクインテットが漸く演奏できるほどの小さなステージがある。そこにはアップライトピアノとドラムセットが置かれており、それらは今日もよく手入れされている。
僕は蛇口をひねりチェイサー用のコップに水を注ぐとカウンター席に腰をおろしてそれを飲んだ。喉が潤っていくのを感じながらバンドメンバーの到着を待った。
程なくしてメンバーがやってくると、5人は適当な挨拶を交わしてステージに向かい、特に何をやろうと言うこともなくセッションが始まった。セッションは多くの場合には最初にドラムスが適当なリズムを刻み、そこへもう一つのリズムセクションとしてピアノが加わる。そして丁寧に形成されたリズムの土台にメロディーパートのコルネットやトロンボーンといったホーン隊が必要なブルースやジャズのフレーズを当てはめていくといった工程を辿る。
この日もシンコペーションのリズムから始まった。僕たちはこの工程の中から最適な調和が生まれるように何度か試行錯誤を続ける。そうしているうちに、その日どんな曲を演るかが決まってくるのだ。
曲さえ決まれば、アバフェルディさんを迎え入れる準備は殆ど終わったと言える。残る作業はマッシュポテトを作るくらいのものだ。
◇
僕がトミー・ロックウェルの紹介でジョン・アバフェルディの管轄の店で演奏する機会を得たのが2年前の1917年、ハーレムに居を構えてすぐのことだった。プロモーターを名乗ったトミー・ロックウェルからはどうにも嫌な匂いがした。飄々としていて胡散臭い、ニューオリンズのストーリー・ヴィルで嗅いだことのある、よろしくない稼業の匂い。
とは言え、折角のチャンスをみすみす逃すわけにはいかなかった。当時はニューヨークに来たばかりで、奇跡の少年としての貯金こそあれ、定職に就いてもいなかった。
それに居を構えたハーレムは住む人誰もが貧乏だった。1907年の恐慌で不動産バブルが弾け飛んだ後、白人のために建設が続いていたアップタウンの一角の高級住宅街はあっという間に廃墟が立ち並ぶようになった。賃貸物件の価格は暴落し、職を求めて移住してきた僕たち黒人が住み着いた。更に金のない奴は建設が途中で放り投げられた建てかけのビルディングを寝床にした。本当にどいつもこいつも金が無かった。
そんな彼らを見ていると、働きもせずにそれなりの生活水準を保っている自分は何か悪いことをしているような気がしたのだ。
そして、自分の力で金を稼ぐことで、いつかドア越しに追い返してしまった少年が再び僕に助けを求めてくれた時、何かを与えられる様な人間になれるのでは無いかという淡い期待があった。
不幸なことに悪い予想は的中した。トミー・ロックウェルに連れてこられたのはアドニス社交クラブという店だった。店内は荒れ放題でテーブルに足を載せた男たちがはだけた服を着る女の肩に手を回しながらドミノで賭けに興じている。皆白い肌を持っていた。
ロックウェルがウェイターに名前を伝えると僕たちは一番奥の席に通され、各々に一杯のコーヒーが出された。それを飲み終わるまでの間に賭けに負けた男の叫び声が三回聞こえた。目線を置く場所を探してみたが、それは自分のテーブルにしかなかった。仕方なくテーブルの木目を眺めて、ジョン・アバフェルディという男の到着を待った。たまに俯いたまま、その男は大丈夫なのか?とロックウェルに尋ねたが、彼はろくに考える素振りも見せず、あの男は信用できるの一点張りだった。やがて正面の扉からジョン・アバフェルディが姿を見せると店内は落ち着きを取り戻した。
ジョン・アバフェルディはアドニス社交クラブのボスでありギャングの幹部であった。7対3で綺麗に撫でつけられた赤茶色の髪に切揃えられた口髭、鼻は高く、垂れ気味の優しい目をしている。彼からは嫌味なインテリと違ったどこか牧歌的な雰囲気が感じられた。僕の知らない父性というものはこの様な雰囲気を指すものなのだろうか。
ジョン・アバフェルディを壁側の奥の席に座らせて軽い挨拶を済ませたところで、突然彼はここで吹いてみろと言った。そこには先ほどまでの温和な雰囲気はなかった。あくまでも事務的に、そして無感情に告げた。彼は組織の父であり、冷酷なギャングなのだと改めて感じさせた。
両脇にじわりと汗が滲んだ。僕は戸惑いを勘付かれないように笑顔で任せてくれと返事をしたが、その顔は引きつっていただろう。それから鞄からコルネットを取り出し、中西部の黒人音楽、ラグタイムをやった。
コルネットの音がなると一瞬、店内は静まりかえった。ジョン・アバフェルディの顔つきはぴくりとも動かない。黙って、大きく頬が膨れ縮れた髪の間から流れる汗に濡れた僕の顔を見つめている。ムーディな音色を奏でたり、嘶くように鳴らしたりしたが、変わらず僕の顔を見つめるばかりだった。この時の僕にはこの男をどの様に満足させられるのか、全く理解できなかった。吹けども吹けどもコルネットの音は虚しく霧散し、かえって店内の静寂が際立っていくように感じた。彼の垂れ気味の優しい目は恐怖の対象に変わっていった。
そんな中で、遂に痺れを切らしたトミー・ロックウェルが僕の顔を見つめ入り口方向を指差した。
「客に吹くんだ。」
彼の目がそう言った。
慌てて振り返るとたくさんの灰色がかったブルーの目玉がこちらを見ていた。皆訝しげな顔をしている。ニューオリンズのストーリー・ヴィルとは違う、品定めをするような空気があった。
彼らは黒人音楽に初めて触れたのだろうか。彼らを踊らせるにはピアノやバンジョーといったリズムセクションが欲しいと思った。しかしこの場で演奏しているのは僕一人だけだった。だから代わりにスタッカートを意識してリズムを強調した。
すると次第にラグタイムが持つ独特のシンコペーションに合わせて男たちは女を踊らせはじめたのだ。そして女たちがあまりに気持ちよさそうに躍るものだから、仕舞いには男たちも踊りはじめた。それはさながらニューオリンズの娼館街、ストーリーヴィルの
店内の温度が上がり、自分の体温も上がっていくのがわかった。全身の毛穴が開き、蒸気機関のように熱を放出している。体内で熱せられ、高圧になった空気の塊が勢いよくコルネットに注ぎ込まれた。透明な煙はリードを介して巨大な波となり、素早く動く指先が様々な音色に変えていった。この大都会ニューヨークでも黒人音楽が通用するのだ。そこには確かにそういう実感があった。
一曲やり終えると、そこかしこから歓声と拍手が送られた。ジョン・アバフェルディは演奏中表情を崩さずにいたが、店内の様子をみてようやく笑みを浮かべた。
「そうだな、ピーターの店が良い。話をつけておこう。」
こうして僕は仕事を勝ち取った。
そして、二度目の好機はアバフェルディさんと出会った翌年に訪れた。1918年8月のある日、その日は夕方になっても蒸し暑かった。演奏のためにセント・ニコラス・アヴェニューにあるピーターの店に行くと、営業時間を二時間も過ぎているというのに錠がかかったままだった。仕事をすっぽかしたと思われたら堪ったものじゃないと思い、その場で待つことにした。
日差しがきつく、風もなかった。帽子の中は蒸し風呂状態だったので、たまに帽子を取って頭の熱を逃がし、大粒の汗が垂れる顔を扇いだ。しかし結局は苦行の甲斐もなくピーターが現れることは無かった。
後日、アバフェルディさんからピーターズハウスのオーナーが夜逃げしたのだという旨を伝えられ、それから一か月を待たずに消えたオーナーの代わりにこの店を任されることになったのだった。
ピーターが不在のピーターズハウスというのはなんだか収まりの悪い感じがしたので、ラグハウスへと名前を変えた。それがこの店のオーナーとしての最初の仕事だった。
幸いなことに自分の店になってからは毎日演奏することができた。ハーレムに住む黒人たちは故郷の音楽、ブルースやジャズをいつでも聞くことができるラグハウスを気に入り、店は少しずつ売り上げを伸ばして行った。
そして日替わりで呼んでいたジャズプレイヤーは次第に見知った顔ぶれになった。誰も彼も黒い肌を持つ南部や中西部からの移民だった。僕は再び、自分の自由が保証されるほんの小さな空間を獲得したのだ。
◇
前のオーナーだったピーターの作るマッシュポテトは人気があって、それを目当てに来る客が少なからずいたそうだ。彼が月の裏まで逃げ出した後、店の棚からレシピノートを見つけたので、そのノートを見つけた日の翌日からビルはラグハウスのメニューにマッシュポテトを付け加えた。
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用意するもの
・じゃがいも
・砂糖
・卵 片方はマヨネーズにして、残りは茹でろ。
・酢
・油
・よく挽いたマスタード
・パプリカパウダー
・レリッシュ
手順
・じゃがいもを茹でる。よく茹でる。茹でたら冷ましておけ。
・卵も茹でる。これもよく茹でて冷ましておけ。
・生卵の黄色いところと酢と油をよく混ぜてマヨネーズを作る。扉と換気口は開けておけ。
・ボウルでじゃがいもをよく潰す。それに茹で卵をよく潰してよく混ぜる。
・レリッシュとマヨネーズを入れてよく混ぜる。
・砂糖とマスタードをいれる。
・パプリカパウダーを加えてよく混ぜる。
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走り書きのレシピノートを読みながら手順通り作った。よくと書かれているところは律儀に従った。ピーターは余程用心深い人間だったに違いない。
彼とは仕事をする上でやり取りをしたが、実のところその性格や趣向など、彼自身に関わることはほとんど知らなかった。ギャラは悪くなかったし仕事は定期的に貰えていたから、僕自身もそれ以上のことに興味が湧かなかったのだろう。
むしろ居なくなった今の方が、かえって彼についての興味は大きくなった。アバフェルディさんによれば、ショバ代も正常に払われており、売上も良いとはいかないまでも決して夜逃げするほど悪くは無かったとのことだった。
用心深く堅実な性格が垣間見えるピーターは、なぜ夜逃げなどという大胆な行動に出たのだろうか。そんなことは知る由もなかった。
ちょうどパプリカパウダーを混ぜながら考えていたところで、キィと重たい扉の開く音がした。顔を覗かせたのはジョン・アバフェルディだった。
彼が現れると場の空気が少し緊張する。バンドメンバーたちもお喋りをやめ、当たり障りのない挨拶をすると、すぐに店の外に出て行った。
「こんばんは、お待ちしておりました。すぐに手を洗いますから、掛けてお待ちいただけますか。」
「やあ、ビル。そんなに急がんでもいい。それより調子はどうだね。」
「上々ですよ。ハーレムの人たちは地元の音楽を求めているようです。中西部のラグタイムのようにジャズという音楽が彼らの中で流行りはじめているように思います。」
僕は手を洗いながら答えた。すると彼は自信たっぷりに語る。
「君たちにとっては聞き古された故郷の音楽かもしれんが、ここニューヨークの中ではジャズという音楽は新鮮なものだ。頭の固い連中は未だにワルツで踊っているが、いずれみんなジャズで踊るようになる。」
正直、僕はアバフェルディさんのその考えには懐疑的だった。アドニス社交クラブでの一件は、ジャズで食っていけるかもしれないと思わせたが、ニューヨークでジャズがメインストリームになる実感はこれっぽちもなかった。
しかし、同時に彼がそう言うのだからそうなのだろうとも思った。彼の言葉には、この言葉こそが紛れもない真実なのだと思わせる理知的な響きがあるのだ。
「ともあれ、本題だ。」
彼は少しの間、僕の準備が終わるのを待っていてくれた。僕は手を拭き、帳簿を持って彼の正面に座る。そして、僕は帳簿を開きアバフェルディさんに見せながら今月の利益を算出し、そのうち3割を彼に支払うのだ。これは僕が獲得した小さな自由を守る為の代償である。
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