第二章:ラプソディ・イン・ハーレム
第一節:女は付けなくていいと言ったのに
◇1917年 ニューヨーク州 マンハッタン
僕はトレントンの病院で目を覚ました時、二度絶望した。まず自分が生きていることに絶望し、次に自分の犯した罪に絶望した。僕の願いは、憧れ続けたビル・ダレンスバーグとして死にたい。ただそれだけだった。それは僕の悲願であり、死が間際に迫った状況に残された細やかな贅沢だった。どうせ全員死ぬんだから、何者として死ぬかなんて些細な問題じゃないか、そう思った。だから僕は躊躇わなかった。
でも現実はそうじゃなかった。僕は生き残った。それも、僕が殺したビル・ダレンスバーグとして生き残ってしまったのだ。
目を覚まして半日経つ頃には、既に死のうという考えが浮かんでいた。しかし世間はそれを許さなかった。あのケイトとかいう女の新聞記者が突然やってきて、事故の悲惨さと残された身の上の不幸を騒ぎ立てた。そして仕舞いには奇跡の少年ときた。世間は僕に、正しくは不幸な身の上の話題性のある少年に注目し、僕は易々と死なせてはくれない存在となってしまった。
しかし決定的に僕を自死から遠ざけたのは、やはり消防団員の男が持ってきた煤まみれのコルネットだった。男の手から僕の手にコルネットが渡された時、楽器屋のおじさんの言葉を思い出した。
「なるべく長い間そいつと一緒に居てやってくれ。」
そうか、僕が死んでしまったらこいつと一緒にいることはできないのだな。そう思うことで僕は死に囚われなくなった。
生きると決めた以上、金が必要となるが、その点において心配する必要はなかった。あの女の計らいで、当面の間はイースト・コースト・タイムズ社から治療と生活に必要なだけの経済的支援を受けることができた。
しかしそれもタダという訳にはいかない。彼女はサザン鉄道をやり玉に上げる記事を書く度に、マスコットキャラクターの様に僕を登場させ、世論の同情を惹いた。遂にはサザン鉄道を相手取った裁判に向けた被害者組織を結成する根回しを行い、遺族をまとめる旗振り役に僕を任命したのだった。
裁判自体は世論の後押しもあり、多額の賠償金を勝ち取る結果に終わったが、最も得をしたのは、事故の速報から、英雄の誕生、そして巨大企業へのリベンジの一部始終を独占的に報じ、民衆からの信頼を確固たるものにしたイースト・コースト・タイムズ社であることに違いない。
民衆は僕を称えたが、その役目は僕で無くとも良かったのだ。その証拠に、裁判が終わると誰もが事故のことを忘れ、次のスキャンダルに飛びついて行った。当然僕の顔など覚えている人間はいなくなったのだ。
僕はこの段になってようやく行動の自由を得ることができた。そして当初の旅の目的であったニューヨーク州のマンハッタン、このハーレムへと発つ決意をしたのだ。
最後に残ったのは、支援金と賠償金を合わせた3万ドル。ニューオーリンズにいた頃は、金さえあれば幸せに暮らせるのだと考えていたが、いざ手にすると幸福とはほど遠いものだった。それは消費という麻薬に誘う媒介でしかない。なお且つ、消費活動から得られる快楽は一過性のものであり、極めて淡泊で無機質な性格を帯びている。
かつて貧乏ながらも感じることのできた、有機的に育まれる温かな思いやりが無性に恋しくなった。
◇
思い出に中てられてセンチメンタルになっている間に、煙草はとっくに灰になっていた。床に落ちた灰を蹴散らしていると、ドアをノックする音が聞こえた。
「女は付けなくていいと言ったのに、あの宿主の爺さんのやつ。」
独り言を呟きながらドアを開けると、そこに立っていたのはメインストリートで噛みついてきた少年だった。
「おいガキ、何しに来た。」
「さっきは悪かったよ。もうせびったりしない。ただあんたと話がしたいんだ。あんた、金持ってんだろ?どうやって稼いだか教えてくれないか?1セントだっていらない。コツを教えてほしいだけなんだ。どうしても金持ちになって幸せになりたいんだよ。」
少年は泣き出しそうな顔をしていた。そんな顔をするな、蹴り飛ばせないじゃないか。かつて少年の様に自分の力ではどうしようもなくなって、誰かに縋ることしかできなかった人間を知っている。あの日のビルは僕を救ってくれたが、ビルの名を語るだけの僕には少年を救ってやることはできない。なぜなら僕には人から恵んでもらった金しかない。それに、その金をほんの少し手放すことさえも惜しいと思ってしまうからだ。
「悪いが、これは僕の稼いだ金じゃない。それに金を持っていても幸せになんか成れない。」
僕はドアを閉めた。しばらくドアの前から僕に縋る力無い声が聞こえたが、目を瞑って無言を貫くしかなかった。そして、その声が途絶え、重たい足を引きずる様な、諦めを感じさせる静かな足音が遠ざかって行くのを黙って聞いているしかなかった。
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