第九節:僕は目を閉じ、眠りについた

 僕が意識を取り戻した時、本当に自分の魂が元の世界と繋がれているのかどうか疑わざるを得なかった。辺りは炎と煙に覆われ、あらゆるものがあるべき場所を忘れて散乱していたからだ。いったい何が起こったというのだ。

 僕は仰向けの身体を起こして周囲を見渡した。分厚い煙のせいで視界は十分ではなかったが何が起こったかということを察するには十分な情報を得ることができた。

 列車の中はねじ曲がり、床面が壁になり割れた窓のついた壁面が僕の座る床になっている。窓から下を覗くと緑色のデラウェア川があった。そして車内には割れたガラスと砕けた木片、火と煙と血と動かなくなった人間があった。あたりには煙と肉の焼ける匂いが充満していた。

 僕の乗っていた列車は事故を起こしたのだ。そして僕は明日のニュースペーパーの一面に掲載されるであろう大事故の中、幸か不幸か生き残ってしまった。

 暫くしてから恐怖がやって来た。呼吸は荒くなり、身体が小刻みに震え始めた。恐怖はいつでも時間差でやってくる。現在を知覚し、未来を想像できた時にはじめて恐怖がやってくるのだ。

 これまでつらい生活に耐えてきたのに、結局神様は僕を救ってくださらなかった。或いは僕が教会に行くのをやめたからだろうか。僕はどうにも落ち着かなくなり、ニューオーリンズの街角のブルースを歌った。これはアメリカという国に於いて、僕たち黒人に出来る唯一の祈りと癒し、そして細やかな抵抗。僕たちは悲しみを歌うことで悲しみを乗り越えてきた。キング・ボールデンがそう言っていたと、昔ビルが教えてくれた。

 僕は僕のあらゆる感覚器官から飛び込んでくる様々な異常に対して思考することを止め、次のメロディーや次のフレーズを思い出そうと努めた。歌うことはイデオロギー的な価値だけでなく、実益を伴う合理的観点から見ても少なくとも混乱から解放する程度の価値を発揮した。


 兎も角、僕はその場に立ち上がることにした。立ち上がると目線は高くなり車内全体を見回すことができた。弾き飛ばされた椅子の陰に男が一人と女が一人倒れていた。男は白目を剥き口からたくさん血を吐いていた。内臓を傷つけたのだろう。女は椅子に頭を潰されていた。どちらも明らかにこと切れた後だった。頬に涙が伝ったが僕はブルースを歌うことを止めなかった。事故の衝撃で負ったであろう額の傷が痛んだ。

 僕はその二人をよく知っていた。彼らは僕に温かいガンボを食べさせてくれ、路頭に迷った僕の生活を支えてくれた。そして僕のことを家族だと言ってくれた。


 僕はビルを探すことにした。炎と煙を避けながら、窓の大穴から下に落ちないように慎重に車両全体を見て回った。そして彼を見つけた。

 彼は地面に伏して少しも動かない。気を失っているのか、既に死んでしまっているのかその判断をすぐに下すことはできなかった。

 そこには彼が生きていると信じたい自分がいた。僕は彼の中から生命の痕跡を引き出そうとした。その試みは、特に悪いことをしているという訳ではないはずなのにどこか僕を後ろめたい気持ちにさせた。

 もし死んでいたら?不確実な状況を確定させてしまうその行動をひどく恐れた。だから僕は息を止め静かにゆっくりと手を伸ばした。

 本当に恐る恐るビルの肩に触れた。初めの1、2回は指先でつつく程度に触り、それでも目を覚まさない様子だったので、この後はがっしりと肩を掴み揺らした。しかし彼は目を覚まさない。

 ビルを仰向けに返すと地面に伏していた顔は血に濡れていた。そして片目には飛び散ったガラスが突き刺さっていた。あまりの悍ましさに僕は恐ろしくなって声を上げて仰け反った。声はかすれて上手く出なかった。そのまま後ろに腰を落とし、両手を着いた。

 僕はしばらくの間、彼の姿を見ていた。しかし可哀想だという気持ちにはならなかった。恐らくそういう気持ちは事が終わった時に初めて感じるものなのだろう。僕はまだ渦中にいる。誰かを思いやるような精神的余剰はこれっぽちも残っていないのだ。

 気付けば肉の焼ける異臭にも慣れてしまっていた。額の傷から出た血で顔は汚れ、ベタつき、鉄の匂いがした。不意に割れた窓ガラスに目を移すとそこに映った僕の顔はビル・ダレンスバーグの血まみれの顔にそっくりだった。そしてこの凄惨な光景に驚くほどなじんでいた。生命の気配を欠いた静かな空間ではむしろここまで何とか生きてしまった自分の存在の方が異質だった。

 いずれは目の前にいるビル同様に僕もここで死を迎える。これは僅かな差でしかないのだと理解した。動かないビルも、もうすぐ死ぬ僕も、今や違いなどない。ようやく彼と同じになる。金持ちも貧乏人も等しく死ぬのだ。

 僕はその光景が焼かれていくのをじっと待っていた。木製の椅子が薪の様に燃え、真っ赤な炎のカーテンを作っている。煙の帳が僕を包んでその内側の世界と外側の世界を切り離していくように感じた。大好きだったバディ・ボールデンも、ストーリー・ヴィルの気のいい娼婦達も僕の世界から遠ざかっていく。

 最後まで惨めだった人生にお別れを告げようとした時、目の前の死体の胸が膨らんだ。ビルは息を吹き返したのだ。


 瞬間、どろっとした塊が腹の底から迫り上がって来るのを感じた。僕は何度もそれを吐き出そうとしたが喉の奥につかえて上手く吐き出すことが出来なかった。口から喉の奥に向けて指を突っ込んでも透明な胃液しか出てこなかった。そうこうしているうちに塊は溶けて身体の隅々まで浸透していった。それは暖かく、僕の体温よりわずかに高温だった。身体が熱くなり呼吸が荒くなった時、僕の身体は自分が何をするべきであるかを理解し、やらなくてはならないことのために動いていた。そこに罪悪感は存在しなかった。


 僕はビル・ダレンスバーグとして死にたい。


 僕はビルの洋服をゆっくりと脱がした。始めはジャケットとスラックスのボタンを外し、裾を引っ張り、最後には力任せに見ぐるみを剥いだ。シャツも僕の生成りの襤褸ぼろと彼の綺麗な白を取り替えた。

 動かない体に洋服を着せる行為は想像以上の重労働だった。僕は彼に洋服を着せ終わると今度は裸になった自分の体にさっきよりも上等な服を着せてやった。

 僕はこの時になってようやく他人の死について想うことができた。これから死ぬ彼のために祈りを捧げた。

 僕には時間がなかったから祈りは簡潔で形式的なものだったが、心は穏やかで、彼の魂がが天国で両親と共に祝福されることを心の底から願うことができた。彼が向かう先は暖かい場所で、差別も暴力もない安らぎの中にあるに違いない。少なくともこの地獄絵図よりはずっといいはずだ。

 炎は一層大きくなり、煙はあたりに充満していた。もう車内を見渡すことは出来ない。祈りの後は彼に想いを馳せることはなく、機械的に彼の身体を引きずった。華奢な彼の身体は見た目よりずっと重かった。やがて橋の下に広がる汚れた緑色のデラウェア川へと投げ込んだ。

 僕は彼が落ちていく光景をじっと見つめていた。彼の両脇から手を離した瞬間からトポンと小さな音を最後にかつてビル・ダレンスバーグであったものが見えなくなるまでの時間は僅かなものだったが、その流れは何者かによって引き延ばされ僕の前をゆっくりと通り過ぎていった。引き延ばされた時間の中ではついさっきまで自分が身に付けていた生成りのコットンシャツがバサバサと音を立てていた。

 僕は暫くの間、川面を眺めていた。川の流れはすぐに波紋を消した。そこには何も残っておらず、そこにはただのデラウェア川があった。ただ川底からバサバサという音が聞こえるのが耳障りだったので再びブルースの鼻歌を歌った。どこまで歌ったのかを覚えていなかったので、またはじめから歌った。

 しかしそれも最後まで歌われることはなかった。火の手も煙もあまりにも大きくなり過ぎていたし、僕は些か疲れていた。僕は目を閉じ、眠りについた。

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