第八節:ビルは目を閉じ、ようやく眠った

◇1911年 ルイジアナ州 ニューオーリンズ


 ダレンスバーグ家からダウンタウンのアパートへ居を移してからちょうど一年が経とうという頃、僕の生活はかつての手元不如意に戻っていた。ここに来た頃に着ていた上等な服はステージ衣装の黒いセットアップを除いて全て売ってしまったので、まだダイナが生きていた時、つまりダレンスバーグ家に引き取られる前によく着ていたような安物の生成りのコットンシャツを着るようになり、豪華な食事を食べる機会も減った。

 衣・住に関してはなんとも思わなかったが、食については物足りなさが付いて回った。たまにアニー夫人の作るガンボが食べたくなったが、その度に煙草を吸って気を紛らわせる。そうやって、しばらくの間麻痺していたを取り戻していったのだ。

 もし僕がまた一緒に暮らしたいと申し出れば、あの善良な一家はきっと嫌な顔一つせずに僕を受け入れてくれる。蔑みも憐憫も無く、善意という意識も無く、全てを受容してくれるに違いない。僕はそれを知っているからこそ、尚更帰るわけにはいかないのだ。


 先述の通り、夜の仕事だけでは些か心許なかったが、僕にはコルネットの練習をする時間が必要だった。金も豊かな生活も失ったが、幸いにして時間だけは十分にあったので、起きている時間の殆どをこのコルネットと共に過ごすようになっていた。

 その生活は僕に演奏家としての大きな自信を与えたが、同時に思うように評価されない歯痒さと常に向き合うことを強いられた。かつてコルネットを売ってくれた楽器屋のおじさんが言っていた演奏家というものに、僕は初めて成ったのかもしれない。


 音楽にのめり込んでいくうちに僕の神様はボールデンにすげ替わっていた。その神様は

とうの昔にイカれちまっていたのだが、何もしてくれない神様よりは幾分マシだ。

 教会と言うのは元来、生まれてから死ぬまでお世話になるものなのだが、僕の場合には少し事情が違っていた。ダレンスバーグ家を離れて一年、気付けばあれだけ熱心に通っていたフランクリン・アヴェニューのバプテスト教会からも足が遠のいていた。

 ダイナが逝ってから信仰が揺らぎ、疑心暗鬼になっていたことには違いないが、それ以上に教会で神父様や礼拝に来るコットさんと顔を会わせたくない気持ちがあった。何よりも、僕はコルネットに夢中だったのだ。


 こうして僕は唯一の血縁者であった優しい母ダイナ、小さい頃から僕を知るダウンタウンの人たち、僕を家族として迎え入れてくれたダレンスバーグ一家、教会というコミュニティなど、これまで僕の生活を構成してきたあらゆる要素とのつながりを奪われ、或いは放棄してしまった。


 教会でこんな話を聞いたことがある。

「人は雨ざらしで生を受けることはない。様々なつながりという柱に支えられた大きな屋根の下に産み落とされ、屋根の下で育っていく。共同体の力が恐ろしい外界から守ってくれるのだ。そして、やがては自身も誰かの屋根を支える支柱としての役割を担うことで、共同体は保持される。」

 一方で、今の僕はそうではない。僕を取り囲む柱はことごとく消え去り、屋根は音を立てて崩れてしまった。共同体の制約から逃げ続けてきた僕はその加護を殆ど失ったのだ。

 しかし、瓦礫の中で見上げた先にあったのは清々しいまでの青空だった。恐ろしい外界なんてものは何処にもない。彼らは一体何に怯えていたのだろうか。


 僕は思考を巡らす過程であることを思い出していた。それは幼い日の遠くから聞こえるコルネットの音。僕は今、あの音の中にいる。何もかもを忘れて駆けていったあの日の僕と同じ。僕はあの日から知っていた。これがだと。


 失われた屋根の代わりに現れた広大な青空を人々は自由と言うのかも知れない。だとしたら彼らは自由を恐れているのだろうか?黒人として支配と服従の苦い歴史を積み重ねてなお、自ら進んで自由から逃れようというのか?


 依然として白人社会は僕たち黒人を強く縛りつけていたが、僕はほんの一握りの些細な自由を手にしていたことに気付いた。それは僕の中で諦めかけていた自由への渇望を再び呼び起こすのであった。



 ある日、ストーリー・ヴィルでの演奏を終え安酒場ホンキー・トンクから出ると、ビルが待ち構えていた。

「君の音は外まで聞こえていたよ。相変わらず気持ちいい音を出すね。でも後半の出だしで走ってたな。」

「まったく嫌な客だよ。」

「でも始めた時よりずっと上手くなった。」

「それはビルも同じだ。」

「そうさ、だからそろそろ次のステージに移ろうじゃないか。」

「でかい仕事が取れたのか!?勿体付けずに教えろよ!」

ビルはわずかな沈黙の後に僕を見た。

「君は、この街を出る気は無いかい?…ええと、そうだな。うちの会社がニューヨークで旗揚げするんだ。1907年恐慌でハーレムという街の地価が暴落して、そこに大量の黒人が流れ込んでいる。でもそこは高級住宅街、黒人が使える店なんてないんだよ。つまり、大量の需要が埋もれている。ハーレムには僕たちが手軽に入れるような店が必要なんだ。君の予想とは少し違うけど、いい機会じゃないかい?」


 誰がそんなことを予想できただろうか。

「要するに、ビルの家族がニューヨークに移住するから一緒に来ないかってことかい?」

「そう、僕は君と一緒に行きたいと思っているし、父さんや母さんも同じさ。だって僕たちは家族じゃないか。」


 僕は混乱していた。思考の整理が付かず、何を優先して考えるべきかも分からなかった。しかし一つだけ僕の心の内からはっきりと感じ取れるものがあった。それは手の中にある小さな自由を失う恐怖だ。

「僕はビルみたいに向こうで上手くやれる自信が無いよ。そしたらまた厄介になってしまう。」

「それでもいいんだ。また一緒に暮らせばいいじゃないか!」

ビルは語気を強めて言った。

そして僕を捲し立てる。どうしてこんなにも真っ直ぐに善意を向けられるんだ。

「僕はニューヨークで君と一緒のステージに立ちたいんだ!僕は…きっとこの先、君にこんなわがままを言うことは無いはずだよ。」


 その通りだ。彼もジョンソンさんもアニー夫人も僕に与えることはあっても、何一つ求めることは無かった。そして彼らがニューヨークに行ってしまえば、その恩を返す機会は永遠に失われる。それは僕にとって、とても容認できることではなかった。

「わかった。僕も行こう。娼館のお姉様方にも北部の街に出ると吹聴してしまっていたしね。」

 僕が承諾すると彼は勢いよく僕に抱きついた。ありがとう!次は同じ楽団に入るんだ!とはしゃいでいた。ビルのそんな姿を見ていると、心の奥底から温かい気持ちになった。


 やはり彼はいつだって幸福の中心にいるのだ。



 僕とダレンスバーグ一家がこの街を出る日は雲一つない快晴だった。冬の訪れを感じさせない暖かな陽気の中、ニューオーリンズ駅の前には双方のバンドのメンバーや娼館のお姉様方、楽器屋の店主、コット先生、僕の前の使用人のペグさん、その他ダレンスバーグ家と関わりのある人々が、一堂に会した。


 僕とビルは見送りに来てくれた人たちに感謝を込めて、この街での最後の演奏をした。思えば僕とビルが二人で立つステージはこれが初めてだった。

 リズムセクションはなかったが、それでもエキサイティングな演奏になった。二本のコルネットが日を浴びて輝き、演奏を彩った。不思議なことに、僕がダレンスバーグ家を出てから練習を共にすることは無かったにも関わらず、僕とビルは阿吽の呼吸で音を組み立てていった。

 数曲やって最後の曲は、「home sweet home」。それは僕とビルが一番初めに覚えた曲だった。簡単な曲だけど、思い出がたくさん詰まった曲だ。


 僕は少しセンチメンタルな気持ちになったが、それぞれに別れの言葉を伝え、笑顔で彼らと別れることができた。

 唯一の心残りは、コット先生の「君の幸福を祈っているよ。」という言葉に、僕は何も返すことができずに電車に乗り込んでしまったことだ。



 僕たちは汽車が走り出して、ようやく一息着くことができた。落ち着いたところで、一行の中で、僕だけがみずぼらしい恰好であることに気づいた。いつもの生成りのコットンシャツに襤褸のスラックス、よれたサスペンダー。汽車に乗るのは初めてだったので、なんだか緊張していて余計に気になった。気になり始めるとどうにも治まらない。

 ジョンソンさんとアニー夫人は何度か訪れていたらしく、新居の話などをしていたが上の空だった。


 その後、緊張が和らいできてからはしばらく車窓から外の景色を眺めて暇をつぶした。正直に言えば、見たことのない景色を見るのは、時間を忘れる程に楽しかった。そして昼に差し掛かるとアニー夫人お手製のバケットサンドを食べ、腹を満たした。


 ビルは汽車に乗り込んでからずっとわくわくしていた。声のトーンはいつもより高く、目は輝いていた。

 その調子は夜になっても変わらず、結局は寝る直前まで高揚していた。

「キング・ボールデンと演奏する夢は叶えられなかったけど、新しい夢は絶対に叶えよう。僕と君でニューヨークのステージに立つんだ。」

 ビルは僕の耳元でそう囁くと、ようやく目を閉じた。

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