第七節:僕の手元にはコルネットがあったからだ

◇1910年 ルイジアナ州 ニューオーリンズ


 14歳になった僕とビルは自然とストーリー・ヴィルで働き始めた。

 ニューヨークなど北部の都市を中心に甚大な被害をもたらした1907年恐慌の影響はニューオーリンズにも少なからず波及していたが、この街の人たちは実に逞しく、盛り場を仕切っているトム・アンダーソンの言葉を借りれば「街の男が全員、去勢歌手カストラートにでもならない限りは安泰さ。」といった具合だった。


 僕たちはトム・アンダーソンに掛け合うことで仕事を得たのだが、僕とビルは二人ともコルネット奏者であったために、別々のバンドに割り当てられることとなる。

 どちらもパッとしないバンドであるというのは演奏してみるとすぐに分かった。僕はバンドの中では一番若かったけれど誰よりも上手く吹いたし、ビルのバンドの演奏を聞きに行ってもやはり同じような状況だった。


 キング・ボールデンが去ったあの日から、ストーリー・ヴィルの夜には物足りなさが付き纏っていたことは言うまでもないが、それでもこの街には綺羅星のような素晴らしい演奏家が数多くいた。楽器屋のおじさんが言っていたコルネット奏者のキング・オリヴァー、同じくコルネット奏者のバンク・ジョンソン、ピアノ弾きのジェリー・ロール・モートン、ドラムスのヘンリー・ズィーノと挙げれば切りがない。

 年齢と経験から、そういった面々とは演る機会は中々得ることはできなかったが、間近で彼らの演奏を聞くことができたは大変名誉なことだと思う。


 給料はそんなに高くなかったけれど、総合的に僕はストーリー・ヴィルでの仕事に満足していた。バンドのメンバーは若いわりに吹ける僕を可愛がってくれたし、娼婦のお姉様方もダイナの息子だと知ってか知らずか優しくしてくれた。ただ、「こんなところで働いていちゃダメ。若いうちはこういう危ないところが好きなんだろうけど、飽きたらさっさと出て行きなさいな。長くやってると抜け出せなくなっちまうよ。」とお姉様方から口々に言われるのをのらりくらりとかわす必要があった。いつからか僕はその言い訳に「ここで鍛えて、将来は北部の都会に出るのさ。」という文句を使うようになっていた。

 すると決まって「ダレンスバーグのお坊ちゃんと一緒に行くのかい?」と返される。どうやらビルも同じ様に言っていたらしい。僕はこのやりとりをするとビルに同化してるようで少し嬉しくなった。


 それに面白い出来事もあった。4年前、キング・ボールデンの音に導かれた僕が初めてストーリー・ヴィルを訪れた時に声をかけてきた男に再会したのだ。

 その日はジェイムズ横丁の安酒場ホンキー・トンクでのステージを控え、ちょうど店先で客寄せをしていたときに突然声をかけられた。

「おいおい坊主、本当にココが好きなんだなあ。」

 一瞬、声では誰か分からなかったが、顔を見ると当時の苦い記憶が蘇った。またしても彼は酷く酒に酔っていた。あの時は客引きが彼を撃退してくれたが、奇しくも今は自分が客引きである。ステージでの演奏までの時間、僕は彼と少しだけ話をした。

「あんたがあの時僕をそそのかすから、大人になって期待してストーリー・ヴィルに来たのにばかりだった。それでもあの時はあんたが声をかけてくれたから、僕は勇気が出たんだ。」

「何言ってるか分からねえな。俺は珍しいガキを見つけてからかってただけだ。」

「僕は白人ってもっと怖いと思ってたんだ。」

「その認識でいた方がいい。下手に期待なんかするな。坊主のためだ。」

沈黙があった。僕も彼も話を変えたがっていた。

「僕はあの日、キング・ボールデンを聞きに行ったんだ。」

「あのイカれ野郎か。俺もあいつは好きだったよ。あれに憧れてコルネットやってんのか。」

「そうかもしれない、彼は僕の自由の象徴なんだ。」

「人は突然自由になるとイカれちまうんだよ。誰かの言いなりになってる方が幸せだって場合もある。現にあいつは狂っちまった。坊主はあれを知ってなお、あのイカれ野郎を追いかけたいのか?その自由とやらにならなきゃいけないのか?」


「初めから自由な人間に自由の価値が分かってたまるか!」

 僕は喉元まで上がってきたその言葉を静かに飲み込んだ。彼は僕を馬鹿にしている訳ではない。本気で心配しているのだ。


「今日はこの店で演るんだ。一杯飲んでいかないか?」

「いいや、この近くで待ち合わせをしてるんだ。またお邪魔させてもらうよ。」

「それじゃあ、また。」

 彼は立ち上がって、ジェイムズ横丁を歩いて行った。そして、その先にはとんでもない美女が彼を待ち、やがて彼の手を取り仲睦まじく去っていくのだった。

 僕は呆気に取られてしまった。あの日の虚勢は、そっくりそのまま事実だったのだ。まさか本当にあの酔っぱらいに美人な妻がいるとは夢にも思うまい。



 一方で、ダレンスバーグ家での生活は極めて個人的な苦悩と閉塞感に支配されていた。ビルとは相変わらずこれまでの友人関係が継続していたのだが、ジョンソンさんとアニー夫人は僕を家族として受け入れようと努力してくれた。その努力の跡を目の当たりにするたびに、僕は所詮他人なのだという孤独感と自分自身に対する哀れみが沸々と沸き上がるのであった。

 そして、二人の愛情を無条件で受け入れることのできるビルが無性に羨ましくなる。彼と同じ家で暮らし、同じ食事を食べ、同じ教育を受け、同じ楽器を吹いているのに、どうしてこんなにも違うのか。自分の卑屈さを呪った。


 そして僕は一つの決心をした。ダレンスバーグ家を出ることにしたのだ。もとより僕が自立するまでという約束だったので、今が良いタイミングでは無いのだろうか。いつか巣立つのであれば、それは誰かを恨んでしまう前であるべきだ。


 独り立ちを告げると、ジョンソンさんとアニー夫人は大いに寂しがったが、ビルはどうせまたストーリー・ヴィルで会うのだからと、さほど気にしてはいなかった。

 それから二週間程で準備を整えた。

 家を出る日、僕はダレンスバーグ家のみんなと抱き合い、深い感謝を伝えた。僕にとってはかけがえのないなのだ。これまでの恩を家族への無償の愛として受け取ってしまうのではなく、いつか何らかの形で恩返しをしたいと思った。



 ダレンスバーグ家を出た僕はダイナと過ごした家に帰ろうと思ったが、そこはすでに違う親子の家になっていた。僕たちと同じような貧しい家族だった。彼らは上等な服を着ている僕を見て警戒している。僕は露店で買ったリンゴを少年に手渡したが、彼はそれを受け取ると勢いよく部屋の奥に隠れてしまった。


 結局、ダウンタウンのアパートメントに居を構える事となった。手続きを済ませ、一人部屋で過ごしていると、先ほどの親子のことが無性に気になり始めた。

 彼らが僕との接触を拒んでいる事だけは確かだった。僕は最早スラムの一員ではなくなってしまったのだ。かといって今やダレンスバーグ家の家族でもない。僕は一体何者になってしまったというのだろうか。


 その日のうちに答えが出ることはなかったが、アパートメントで数か月の時を一人で暮らしていく中で自ずと答えが出た。僕は何者でもなくなったのだ。


 何者でもなくなったということは、これから何者にもなることができるということだ。僕は取り合えず良い演奏家になろうと思った。僕は何者でもなかったが、僕の手元にはコルネットがあったからだ。

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