第六節:空っぽの闇の中に、彼の叫び声だけが響いていた

◇1907年 ルイジアナ州 ニューオーリンズ


 僕はダレンスバーグ家で働き始めた後も、キング・ボールデンの家の前へ足繫く通った。そこにはいつもビルやネルソンをはじめとした彼の音楽を愛する、僕らと同じくらいの少年やもっと幼い子供がいる。ある者はその小気味いいリズムに乗り、ある者は音に任せて踊る。またある者はメロディーに耳を傾けた。

 彼の音は、窓ガラスが割れてしまうのではないかと心配になるほど強烈な破裂音だった。その音には僕たち黒人の抑圧され続け、内臓に蓄積された感情を爆発させているような、そんな爽快感がある。ジャック・ジョンソンの破壊的なパンチが白人ボクサーを粉砕した時のような歓喜と興奮に僕たちは夢中になった。


 キング・ボールデンは夜のキングであったが、昼は理髪師を生業としていた。僕は何度か彼に髪を切ってもらったことがある。彼は決まってアルコール臭い身体を引きずりながら僕の髪を切った。一番初めは不安だったけど、そのうち慣れた。

 彼はいつも面白い話をしてくれた。面白い話の大半はストーリー・ヴィルについてだった。


「どんな店にも工夫ってのが必要なのさ。この街には真っ当な店なんて無い。安酒場ホンキー・トンクもバナナを売ってるフランクリンもみんな一緒だよ。みんな汚ねぇことして生きてんだな。俺は夜になると色んな店に行くんだ、順繰りにな。そこで色んな店の工夫を見てきた。売春窟って場所には色んな奴がくる。小遣い貯めて来たようなケチ臭い奴も、たんまり金を持ってくるいけ好かない奴も。それでも店を出るころにはみんな仲良く無一文なのさ。当然ケチんぼは通常コースでお帰り頂く。でも持ってるやつには特別コースってのが用意されてるんだ。例えば、オイスター・ダンサー。こいつは最高さ!店の小さいステージで裸の女が生牡蠣を身体に滑らせながら踊るんだ。こんな風にな。」


 バディ・ボールデンは背中を反らせてプルプルと踊った。その様子が面白くなってゲラゲラと声を出して笑った。彼は僕の顔に熱く蒸されたタオルを被せると話を続けた。


「笑い事じゃ無いぜ。最高にエロいんだ。俺は客じゃないから我慢したけどよ、もうパンパンだったぜ。それでな、そこで待ってるのがストーリー・ヴィルの女王、フレンチ・エンマの60秒プランだ。彼女の中で60秒間我慢できたら料金は2割引き。みんな自信満々でチャレンジするが、どいつもこいつも決まって彼女の中に入るとたちまち全部吸い出されちまうのさ。でもその日は一人だけ60秒耐えきった強者がいてな、大した男だと思って女王様に聞いたんだ、あいつは良かったか?って。そしたら、『全員のしちまったら客が来なくなるでしょう?勝たせてやった奴はみんなに自慢するからいい宣伝になるのよ。私の中でイかない男がいるわけないじゃない。』だってよ。しびれたね!たまんないね!」


 僕は熱いタオルの下でいやらしい気持ちになっていた。しかしそれを悟られるのは恥ずかしかったので、平気な顔をした。タオルで顔が隠れていても平気な顔をした。


「まあ、そこで俺は学んだわけだ。うちの店にも工夫が必要だって。」

 すると外から、ウィリーだ!いいやベロクだね!俺はフランクに入れる!と誰かの名前を叫ぶ声がした。それらの声が止むとバディ・ボールデンが遠のく足音が聞こえ、再び近づいてきた。

 瞬間、彼は僕の顔からバサッとタオルを取り去り、僕は鏡に映る僕の平気な顔と対面した。鏡に映る僕はにやけ面で鼻の下が伸びていた。全然平気じゃなかった。


 外からは落胆の声が聞こえ、バディ・ボールデンは声の主たちから金を徴収している。どうやら、通行人と客が誰かを当てる賭けをしていたようだった。正解者がいなかったら店の儲けになるということらしい。それが彼の店の工夫なのだ。



 夜のキングは誰よりも大きな音で港町の闇を切り裂き、暖かな明かりを灯す。ひとたびラグタイムを鳴らせば安酒場ホンキー・トンクはダンスホールに姿を変え、ブルースを奏でれば男と女は刹那の情愛の中に溶けていく。何もかも彼の思うがままだった。

 僕やビルはそんな彼の様子を覗き見るために、夜になるとアップタウンの家から抜け出しては生臭いストーリーヴィルへ遊びに行くようになった。もう家の前で練習を聞くだけでは物足りなくなっていたのだ。ストーリー・ヴィルの一角、ジェイムズ横丁にはバディ・ボールデンの話していたフレンチ・エンマのお店もあるらしいのだが、やはりのお店が立ち並んでおり、悲しいかな僕たちは未だ大人になれていない。

 しかしであっても、キング・ボールデンの演奏を聞くには往来を歩くだけで十分なのだ。大抵のバンドは店内での演奏前に店先で客寄せを任される。それに、店のステージで演奏する時でさえ、彼の音は往来まで完璧に響いていた。僕たちはときに踊り、ときに聞き入った。


 昼間の彼を知る者は口を揃えて「ステージに立ってる男が、あの酔っぱらいとは同じ人間だとは到底思えない。」と言うのだが、僕は昼の彼も夜の彼も音楽と共に幸せそうに生きている。と感じていた。それこそが彼が僕たちの、黒人たちの希望スターになり得た理由ではないのだろうか。自由に生きるとは彼のような生き方のことを指すのではないだろうか。彼の鮮烈なコルネットの音色を聞きながらそんなことを考えていた。


 ふと幼い頃、キング・ボールデンの音に導かれてここに来たことを思い出した。あの日の僕は音楽のことなんて少しも分からなかったけど、彼の音は閉じ籠っていた僕を外に連れ出してくれた。思えば僕はその時はじめて自由を知ったのだ。あれから悲しいこともあったけれど、彼の音楽が繋いでくれた縁でビルと出会い、それなりに裕福な暮らしをしている。

「いつかもっと上手になって、キング・ボールデンと一緒に演奏出来たらいいな。」

気づくと口からこぼれ出ていた。

 僕はビルに聞かれてしまっては笑われてしまうと思ったが、当のビルはキング・ボールデンが演奏する安酒場ホンキー・トンクの方を向いたまま「僕も一緒に演奏していいかな。」と言った。


 夜も深くなり、演奏を終えたキング・ボールデンのバンドが店から出てきた。僕とビルはいつもこのタイミングで彼に話しかけに行くのだった。そうすると彼は冗談を言ったり、演奏のコツを教えてくれたりした。

 しかしその日はなんだか話しかけられる様子ではなかった。彼は酒に酔っていた。昼間のような足取りで、フラフラと頭を振り子のように左右に振りながら往来を歩いて行ってしまった。

 バンドメンバーは酔っぱらいを支えようとしたが、彼はそれを虫でも払うように振り払う。しばらくそんな風に歩みを進め、やがて立ち止まった。ジェイムズ横丁の真ん中でたった一人立ち尽くし、彼は空を仰いでいた。その日の空には雲がかかり、星は見えなかった。


 そしてキング・バディ・ボールデンは発狂した。それはストーリー・ヴィルからキング・ボールデンのコルネットの音が失われた瞬間だった。


 空っぽの闇の中に、彼の叫び声だけが響いていた。

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