第五節:僕は両手でコルネットを持ったまま、黙って頷いた

◇1907年 ルイジアナ州 ニューオーリンズ


 僕は結局、ダイナの葬式でコルネットを吹くことはなかった。人が死んでから墓穴に入れられるまでの時間というのは、僕やビルが考えていたよりずっと短く、本当にあっという間だった。練習をする以前にコルネットを手に入れることすら叶わなかった。

 それでも僕はコルネットを諦められずにいた。そこにはビルに誘われたことへの嬉しさがあり、同時に自分もビルの様になれるのかもしれないという期待感があった。

 僕はジョンソンさんに頼み込み、給料を前借することで金を工面した。僕が自立するまではダレンスバーグ家に住み込みで働くことになっていたので、先々の生活のことなんて微塵も考えなかった。


 コルネットを買いに行く日、ダレンスバーグさんの計らいで僕の午後の仕事は休みになった。僕は石炭を運ぶ仕事を終えると、真っ黒に汚れたシャツのまま、右手に12枚の1ドル紙幣を握り締めて、行ってきますとアニー夫人に声をかけて玄関扉を開けた。

 まだ太陽が高い位置にある。直上からの日差しが僕の肌を焼き、表皮がチリチリと熱を持った。そして汗っかきな僕は額に大粒の雫を作った。時折、僕は歩きながら12ドルが握られていない左手で汗が目に入らないように拭うのだった。

 店に向かう最中、僕は言い知れぬ緊張感と高揚感に包まれていた。こんな大金を手にして歩くことなんて今までなかったからだ。

 道行く誰もが悪人に見えた。いちゃもんを付けられて巻き上げられたら堪ったもんじゃない!僕は12ドルが握られた右手をズボンのポケットに隠した。ポケットの中でも12ドルは固く握られている。

 しばらく歩いたところで、キング・ボールデンの家の前を通った。僕は一瞬足を止め、耳を傾けたが、コルネットの音は聞こえてこなかった。再び歩き出したとき、ふと、コット先生との会話を思い出した。

「でも君はビルじゃない。」

 あの日先生が放った言葉は、僕を苦しめた。そんなことは自分が一番解っているのだ。そう思いながらも、心のどこかで、コルネットを手にした後の自分は、これまでとは全く別物になっているのだと信じている僕がいた。

 とても世話になった人だが、彼のことは好きになれなかった。だって彼は本当のことを言うんだ。

 時折覗かせるコット先生の影も、緊張によってすぐに掻き消された。まずは無事に辿り着かなければ、どうしようもないのだ。

 半刻程歩いて中古楽器屋に到着した時、ポケットの中では依然として12ドルが固く握られていた。



「お前さん、その金、まさか盗んできたんじゃないだろうな。」

 僕が店の扉を開け、ポケットからしわくちゃのドル札12枚を取り出した時、中古楽器屋のおじさんはそう言った。僕はその威圧的な雰囲気に思わず店を飛び出しそうになった。

 しかし、ぐっとらえた。僕にはやらなければならないことがある。僕はおじさんを見た。

 カウンターの向こうに座るおじさんは、おじさんと言える程には老けているものの、その身体は実に見事なものだった。逞しい腕、盛り上がった胸、そして鍛えられた太い首に短く刈り揃えられた頭が乗っている。その顔は仏頂面だった。

 僕は必死に弁明して、ようやく彼の理解を得ることができた。ダレンスバーグさんのもとで働いているのだと伝えると、小さいのにえらいじゃないかと褒めてくれた。初めの印象こそ強面だったが、話してみると実に気さくな人柄だった。

「それで、お前さんはその金で何を買いに来たんだ?」

「コルネットを買いにきました。」

 おじさんはニッと笑った。

「いいじゃないか。ジョー・オリバーは好きか?バディ・ボールデンはどうだ?」

「ジョー・オリバーは知らない。でも僕はキング・ボールデンの大ファンなんです!彼は僕を自由にしてくれる!」

「自由…。その通りさ。そうさ、自由なんだよ。音楽ってのは。お前さんは若いくせにいい感性を持ってるよ。きっと良いコルネット奏者になる。」

「僕はコルネット奏者になるんですか?」

「何言ってんだ。演奏家ってのはな、医者や法律家みたいに資格を取ってなるようなもんじゃないんだよ。楽器持って好きな音を奏でれば、誰だって演奏家なのさ。ただし自ら演奏家を名乗るには、世間様に自分の演奏を評価させるだけの自信と度胸が必要になってくる。それだけのことさ。」

 おじさんの言葉は、僕には分かったような分からないような感じがした。

「じゃあ僕は演奏家ですね。」

「それは、お前さんが何人のジョージ・ワシントンを握りしめてるかによるな。」

 僕はくしゃくしゃのドル札を平らに伸ばしながら、ジョージ・ワシントンの人数を数えた。

「12人です。」

「上出来だ。」

 おじさんはそう言って、奥の棚のガラス戸を開けて、コルネットを取り出した。それは確かに使い込まれた形跡があったが、丁寧に磨かれ銀色に光り輝いていた。その美しさは僕を大いに高揚させた。

 僕はふと我に返り、思い出したかのように小さな手でおじさんにドル札を渡した。おじさんは大きな手で僕にコルネットを渡した。


 僕はしばらくの間、様々な角度からコルネットを眺めた。ピストンの動きを確かめ、ベルから中を覗いてみたりした。これがキング・ボールデンのあの音を出すのだ。

 おじさんはしばらくの間、何も言わずに僕を見ていた。その表情には温もりがあった。そして優しい声で僕に尋ねた。

「気に入ったか。」

「もちろんです!」

「そいつは良かった。」

 僕は両手でコルネットを持ったまま答えた。おじさんの大きな手が僕の頭を撫でた。

「お前さんが手にしてるコルネットは元々白人が使ってたんだ。」

 おじさんはついさっきまでの優しい口調のままそう言った。

 僕は驚いた。そしてきっと嫌な顔をしていたのだろう。おじさんは僕の顔を見るとゆっくりと尋ねた。

「こいつが嫌いになったか?」

 僕は途端に分からなくなってしまった。おじさんはその表情に温もりを宿しながら、僕の答えを待っていた。

「わかりません。」

僕は苦し紛れに答えた。

「お前さんはこの問いから逃げちゃいけない。考えることから逃げるな。俺たちはこの感情と向き合いながら生きていかなきゃならない。」

 おじさんの声は決して厳しいものでは無く、優しく諭すようだった。そして続けた。

「これから先、そのコルネットが憎らしくなったり、捨ててしまいたくなる時がくるかもしれない。それでもなるべく長い間そいつと一緒に居てやってくれ。」

 僕は両手でコルネットを持ったまま、黙って頷いた。


「お前さん、学校で南北戦争は習ったか?」

「習いました。教会でも歴史の話をよくします。」

「そうかそうか。俺はあの話大嫌いなんだ。酷いと思わないか?」

「僕だって嫌いです。」

「そうだよな。でもな、あの何の意味もなかった南北戦争がこの街に唯一もたらしたのが、西洋の楽器。お前さんが大事そうに持ってるそいつだよ。南部を攻めつくした北軍の楽器隊の連中が小遣い欲しさに必要のなくなった楽器を南部の街で売って帰ったのさ。大量にな。たくさん余ってるものには値段が安く付くんだ。だから俺やお前さんみたいな黒人でも買えるような値段になった。つまりだ。俺たちの大嫌いな歴史を辿らなきゃ、お前さんはコルネットを手にしていなかったってことだな。」

おじさんは分かり易い言葉で説明してくれたが、なんだか釈然としなかった。

「なんだかこじつけのような気がします。」

「物事には色んな見方があるって話さ。」


 僕のこれまでの人生にも別の見方ができるのだろうか。そう思ったが、僕の人生の出来事のほとんどは上手く切り離して考えられるほど遠い昔のものではなかった。まだ自分の中で動き、形を変え続けている。



 僕はおじさんにたくさんお礼を言って店を出た。この美しく輝く白人の置き土産とどう向き合っていくのだろうか。すこし不安だった。それでもおじさんの言う通りに、できる限りは一緒に居よう。

 僕は僕が手にしているコルネットの値札に14ドル80セントと書かれていたことを知っていた。このコルネットの中には、色々な立場から見た歴史や様々な境遇から生まれた思想が入り交じっているけれど、少なくともその中には、おじさんの優しさと思いやりがある。それは僕がコルネットを持ち続けるのに十分な理由になった。

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