第四節:シーツには微かにダイナの匂いが残っていた
◇1907年 ルイジアナ州 ニューオーリンズ
それからダレンスバーグ一家は僕の母ダイナの為に惜しまずお金を使ってくれた。薬のお金は勿論のこと、アニー夫人は仕事が終わった僕に自分とダイナの夕食を持たせて帰してくれた。
僕はダレンスバーグ一家の優しさに触れ、白人世界において黒人であることへのある種の卑屈さを少しずつ解消していった。そして当のダイナは僕が働いていることを知ると激昂したが、僕がダレンスバーグ家の計らいでビルと同じ家庭教師に教わることで教育を受け続けていることを説明すると溜飲が下がったようだった。
いつしか、夜になり仕事から戻った僕に私の話を聞くようにとベッドの近くまで呼ぶようになった。彼女はまずはじめに今日もいい子にしていたかい。と聞き、次に昔話をする。それは少女時代のダイナの話だったり、彼女の家族についての話だったりした。決して心温まるような話ばかりではなかったが、彼女はその中で確かに生きていた。
「私もね、あなたと同じで父親がいなかったのよ。でもあなたの父親と違って私たちを置いて逃げたわけじゃないの。ただあの人はやっちゃいけないことをやってしまった…。白人にリンチされている子供を助けたのよ。」
「でもきっとそれは、正しいことをした。」
僕は咄嗟にダイナの父親を庇ったが、ダイナはそれを激しく批判した。
「何が正しいもんですか!」
元気な頃であればそれから半刻はそれについての厳しい指導が入ったであろうが、病床に伏した彼女にはそんな体力は無かった。彼女は一言喝を入れると再び目を閉じて昔話を続けた。
「それからは散々だったわ。父は命からがらリンチから逃げ出したんだけど、その夜家に火炎瓶が投げ込まれたの。私を抱いた母は何とか逃げ延びたけれど、父はそれで焼け死んだわ。その一件のショックから母は精神を病んでキッチンドランカーに成り下がったそうよ。家に男を呼んでは体を売って、その金を酒に使うようになったわ。あの人は死ぬまで父を許さなかった。私はあの男に殺されたんだって叫び声が家の中にはいつも響いていたわ。当然、私はまともな教育を受けずに物心がついた頃から働きに出なければいけなかったという訳ね。働きに出たのは、もしかしたら家から出て行きたかったという気持ちもあるかもしれない。それでも学校、行ってみたかったわ。だからあなたにはきちんと学をつけて欲しいのよ。そうすればいつか自由を手に入れられるはずだわ。あなたの祖父母も、母親も最後まで手に入れられなかった自由を、いつか手にしてちょうだいね。」
そして最後にお祈りをしましょう。と言って眠るのだった。
◇
ダイナはその年のクリスマスを目前にして息を引き取った。いつも通り僕と共に眠り、目覚めることなく旅立った。きっと安らかに逝くことができただろう。その日、僕は少しだけ泣いたが、悲しみに暮れることはなかった。今日のお別れは予め決められたシナリオであるように思たし、泣いて縋ることのできるような誰かは、もはやどこにもいなかった。
何かしなければいけないことは分かったが、何をすればいいかはわからなかった。人が死んだ時にやるべき事なんて誰も教えてくれなかった。
悩んだ末、僕はひとまずコット先生のところに行くことにした。ダイナの体にシーツをかけてから家を後にした。
朝の6時、早朝に押しかけたにも関わらずコット先生はすぐに玄関から顔を覗かせた。彼は焦っていた。走れるかい?と僕に尋ねた。
僕は何も言わずに首を横に振った。急ぐ必要はない、全て終わってしまったのだ。
コット先生は目を伏せ僕を抱きしめた。ダイナよりもきつく、少し痛い抱擁だった。僕は彼の胸でまた少しだけ泣いた。
泣いた後は気持ちがすっと静まった。その後のコット先生の家からダイナが待つ我が家までの道すがら、僕たちは一言も喋らなかった。終始重苦しい空気が流れていたが、それは何かによって打破されるべきものではなかった。
僕は再びダイナの死体と向き合い、コット先生の宣言によって正式にダイナの死が確定した。また、これによって僕は正式な孤児となった。
それから色々な人が家に訪れては去っていった。大抵のことはコット先生が応対して、たまに僕と話をする人がいた。その中には教会の神父様もいた。僕は彼の気の毒そうな顔を見ていると不思議と腹が立った。僕より悲しそうな顔をするな。そう思った。
「ダイナは熱心な信者でした。それでも娼婦をしていたから救われなかったのですか?」
そう問うた僕に神父様は、今は彼女のために祈りましょう。と返した。
最後に訪ねてきたのはビルとアニー夫人だった。ビルはひどく落ち込んでいた。アニー夫人はダイナに祈りを捧げてから僕の正面で身を屈めた。
「自分を責めてはダメよ。あなたは真面目な子だから。」
彼女は僕の頭を撫でながらそう言った。そして彼女の後ろからお祈りを終えたビルが顔を覗かせ、外で話そうと言って僕の腕を引いた。家の外に出るともうすっかり昼になっていた。
「葬式のパレードって聞いたことあるかい?」
「あるよ。」
「僕も、その列に加わろうと思うんだ。えっと、実はコルネットをやってるんだ。キングの真似ばっかりだけど。僕も君のお母さんを送りたい。」
「ありがとう。」
「それで、君も一緒にどうかなと思って。」
「僕は楽器なんて吹けない。」
「僕と一緒にやらないかい?それで上手くなって、二人でパレードに出るんだ。初めの演奏はお母さんに捧げようよ。下手でもいいさ。楽器もきっと父さんが用意してくれる。」
「いいのかい?」
「もちろん。」
「ありがとう。」
僕はビルを抱きしめ、ビルは僕を抱きしめた。
家の中に戻ると、アニー夫人とコット先生、神父様が話をしていた。よくわからない大人の話だった。僕が近づいていくと神父様が話し合いで決まったことを教えてくれた。ダレンスバーグ家が葬儀の資金を肩代わりしてくれることが決まったらしい。そして身寄りのない僕はダレンスバーグ家で住み込みで働くこととなった。
「契約上は使用人だけど、私たちのことは本当の家族だと思って接してくださいね。私たちも君を家族として迎え入れるわ。」
アニー夫人の口調は優しかった。しかしこの上品で丁寧な女性を母親と思うことはできなかった。だって母さんは、ダイナはそこにいるじゃないか。
それでも僕は、ありがとうございます。と返した。
ダイナと僕のことが、僕たちの知らないところで決まっていくのが気持ち悪くて仕方がなかった。それでも、抗うだけの力を僕が持っていないことは残念ながら理解していたのだ。
◇
ビルやアニー夫人、神父様達が帰っていったが、コット先生は一人家の外で煙草を吸っていた。大きなドクターバッグはまだ家の中に置いてある。僕は重たいドクターバッグを両手で抱えて彼のもとに持っていった。
「今日はその、ありがとうございました。」
彼は無言でバッグを受け取った。顔はこちらに向けず、白い煙を吐きながら遠くを見つめていた。
「君がこれからどのように生きるのだろうかと考えていたんだ。」
「そうですか。僕はどのように生きるんですか?」
「それがね、考えてもさっぱり分からなかったんだ。君はどう生きたいんだい?」
「僕は、ビルみたいに生きたい。豊かで、恵まれて、悲しいことのない人生を送りたい。」
「でも君はビルじゃない。」
長い沈黙があった。
コット先生は僕を見下ろして、
「何か相談したいことがあったらいつでもうちを訪ねてくれ、相談相手くらいにはなってやれる。」
と付け加えて帰っていった。僕はそれからコット先生と会うことはなかった。
僕は部屋に戻るとダイナの死体が運び出された後のベッドに横になった。悲しみに暮れるまもなく色々なことが決まって、色々なことを言われた。頭は混乱していたし、体もひどく疲れていた。シーツには微かにダイナの匂いが残っていた。僕はまた少しだけ泣いて、泣き終えるとそのまま眠った。
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