第三節:コット先生はヤブ医者で有名だった
◇1906年 ルイジアナ州 ニューオーリンズ
ダイナが自身の心の内で燃え続けていた想いを僕に伝えてから半年が過ぎた頃、彼女の帰りはますます遅くなっていた。僕は休んで欲しいと何度かお願いし、代わりに僕が働くと申し出たが案の定聞き入れてもらえなかった。
僕は学校での勉強を相当に頑張るようになっていたので、ダイナが願うような貧困のループから抜け出せるかも知れないという漠然とした期待があったが、それでもやはり気分は晴れず、彼女の体調が気がかりで仕方なかった。
教会のお祈りでは絶えずダイナが健康的な生活が送れるようにと願ったが、その願いが叶う日はついに来なかった。
ある朝、ダイナはベッドから起き上がって来なかった。様子を見にいくと酷い熱を出していたのだ。僕は急いで医者を呼んだ。
医者の診断は梅毒だった。ダイナは昼の仕事に加えて、夜にはストーリー・ヴィルの娼館で娼婦として働いていたのだ。
僕はそのことを知らされていなかったが、もはやショックなど受けなかった。むしろ僕は自分の母をいっそう誇りに思った。
コット先生は梅毒が治療に一刻を争う感染症であると僕と高熱にうなされるダイナ本人に説明したが、ダイナが働けなくなってしまった今薬を買う金などどこにもなかった。それどころか明日の飯代すら手元には無い。コット先生はそのことを承知の上で駆けつけてくれたのだろう。
僕はこんなことになるくらいならダイナの想いに反してでも働いて金を稼いでおくべきだったとひどく後悔した。
コット先生は申し訳なさそうな顔で僕のことを見ていた。何とかしてやりたいと思っているんだ…。と呟いて僕の頭を撫でた。
「君は僕に殴りかかっていいんだ。本来であれば、君はそうするべきなんだ。是が非でもダイナさんを救ってくれって、泣きながら無理を通そうとしていいんだ。」
「その行いはきっと神様が正しいとお考えにならない。僕は今正しい行いをしている。だからダイナのことも神様が救ってくださるはずなんです。」
「それが君の信仰かい。」
僕は何も答えなかった。俯きながら硬く拳を握って自分の中から何かが通り過ぎていくのを待った。
コット先生がジャケットの胸ポケットからハンカチを取り出して僕の涙を拭いてくれた。僕はそのとき初めて自分が泣いていることを認識した。
僕が涙を流し尽くすとコット先生は僕を家の外に連れ出した。そしてポケットに仕舞っていたくしゃくしゃの煙草を取り出して火をつけた。
「この街に僕以外の医者がいないのは、この街に住むほとんどの人間が医者にかかるだけの金を持っていないからなんだ。だからさっき君に話したような理由で僕は何度もボコボコにされている。」
「殴った人の気持ちは分かります。でもコットさんは何も悪くない。」
「ありがとう。君は強い男の子だ。でもね、それがこの街に僕のような医者が必要な理由なんだ。」
コット先生はもくもくと煙を吐きながら続けた。
「もちろん僕は命を救う為に医者をやっている。でもこの街で救える命はほんの少ししかない。そして身近な人が亡くなったとき、多くの人間は心を強く保つことができない。行き場のない強い感情が心の中を渦巻いて、それがじわじわと自分を傷つけたり、ある時に爆発して他人に向けられたりする。そのような状況になった時に、医者を呼ぶと言う適切な行動を取ったと自分を正当化できるように、それでも整理できなかった感情を罪に変えるのではなく、患者を救えなかった僕に向けてくれるように僕は存在しているんだ。」
僕はそれを黙って聞いていた。
「だから君も、もしもの時は僕を恨んでくれ。君の強さが歪まずに真っ直ぐに育って欲しいと僕は思っているよ。」
それは温かく優しい言葉に包まれていたが、実質的な敗北宣言だった。それから僕とコット先生は一言も発することなく彼の煙草が燃え尽きるのを待った。
◇
最後の灰が地面に落ちたその時、遠くからコルネットの音が聞こえた。そして一人の人物の顔が浮かんだ。胸の奥には嫌な感覚があった。僕には金持ちの友人がいる。
「コットさん、僕行かなくちゃならない場所があるんだ。」
そう言って僕は駆け出した。そしてビル・ダレンスバーグに会うために急いでキング・ボールデンの家に向かった。全速力で黒人街を駆け抜けて、上品な服を着た金持ちの坊ちゃんが視界に入るのを今か今かと待った。彼ならダイナを救ってくれるかも知れない。
黒人街の果てに辿り着いたとき、僕の眼球が目的の光景を捉えた。そこに映るビルは僕の予想通りにキング・ボールデンの家のまえで演奏に耳を傾けていた。
ビルは僕の顔を見るなり涼しげな表情を崩して慌てて駆け寄ってきた。
「一体どうしたっていうんだい!」
彼の目は尋常ならざるものを見る目だった。明らかに狼狽した様子で、早くこっちに隠れろ!と僕の腕を掴み細い路地裏まで引っ張っていった。路地裏は暗くひんやりとしていた。
「白人に追われたのか?」
彼の推察は的を外れていたが、この国の黒人としては正常だった。
僕はその問いに息を整えながら答えた。
「母が死にそうなんだ…。梅毒だと医者は言っていた。でも、薬が買えない…。僕に金を貸して欲しい。」
ビルは悔しそうに目を閉じ、その目と眉間を押さえるように左手を運んだ。
「頼む。」
ビルの表情や仕草から彼が困っていることは十分に伝わってきたが僕は彼に縋るしかなかった。
「わかった。上手くいくかは分からないけど、やるだけのことはやってみよう。」
そう言って、ビルは再び僕の手を引きフランス人やクレオールが多く暮らす中流階級の
ニューオーリンズという街を造ったフランス人たちと当時奴隷として連れてこられた黒人との間に生まれた血筋はクレオールと呼ばれていた。
彼らは一般的な黒人よりも肌が白く、南北戦争以前までは白人と黒人の中間に位置する地位を保持していた為に黒人を一段下に見る者や黒人を奴隷として保有する者もいた。ビルにそんな様子はなかったが、1900年代になった今でもそういった社会の空気は何となく残っている気がする。
中流階級の住宅街は綺麗に整備されていた。一軒一軒の家が大きく、庭があり、塀で覆われていた。当然のことながら物乞いも道で寝る人間もいなかった。ビルはその中でも一際大きな一軒家の前で足を止めた。僕はそのクリーム色の邸宅を見上げた。そしてゴクリと唾を飲んだ。これだけの金持ちのならきっとダイナを救える。
「門の中に入って、そこで待ってて欲しい。」
ビルが指差したのは表の道から目線の届かない塀のそばだった。
「少し話して、すぐに戻ってくるから。」
そう言って、彼は玄関の方に駆けていった。
僕はビルを待つ間、気が気ではなかった。一度与えられてしまった希望を再び諦めることになったら、僕はどのように受け入れるのだろうか。きっと受け入れることはできないだろう。僕は帰り道に盗みをやって金を作るかもしれない。幸いこの一帯は金を持っていそうな家が多い。
最後に必要なのは正しく生きることを諦める勇気だけだった。一度捨ててしまえばたくさんのものが手に入るという実感が今となっては単なる期待以上のものとして手の内に存在している。熱くどろっとした触感が皮膚を通じて伝わり、花の蜜のような甘美な香りが鼻腔を
ビルが家の中に姿を消して15分が経った頃、彼は再び姿を現した。その表情は明るかった。
「父さんが、君と直接話したいと言ってるんだ。悪い状況ではないと思うから、あまり怖がらずに落ち着いて。」
僕は大きく息を吸った。手のひらにあった感触は失くなっていたが、代わりに僕の両手は細かく震えていた。
「なあビル、君のお父さんも君と同じクレオールなんだろ。やっぱり黒人を嫌っているか?」
「そんなことはないよ。大丈夫。今や黒人もクレオールも一緒さ。みんなまとめて
「分かった、行こう。」
ダレンスバーグ家の玄関扉は目の前に立ってみると見上げるほど大きかった。ビルが扉を開け中に入り、僕もそれに続いた。
玄関を左に折れるとリビングになってた。そこには上等なジャケットとスラックス、そしてシワの無い白いシャツを身に纏った痩せた男がいた。木製の椅子に深々と腰掛け、僕を待っていた。
「こ、こんにちは。ダレンスバーグさん。」
「こんにちは。ジョンソンでいいよ。話はビルから聞いたよ、今はとても辛いだろう。」
それはとても優しい声だった。低く、包み込むような声だった。これが父親というものの声なのだろうかと考えた。その安心は僕の中から正直な気持ちを引き出した。
「辛いです。何とかしたいと思っています。」
「それで、ビルを頼ってうちに来たのかね。」
「そうです。…でもあの、みんな辛い思いはすると思うんです。暴力も貧困も黒人の世界には溢れていいますから。」
「今の君はお利口さんになる必要はないんだ。教会の真似事なんてしなくていい。それでも、不平等だとしても無理を通して、君のお母さんを助けたい。違うかね?」
「そうです。」
その声は気付かぬうちに震えていた。頬の筋肉がひくひくと動き、その上を涙が這った。
「子供はそれでいい。理屈を捏ねて道理にはめるのは大人の仕事だ。」
ジョンソンさんはアニー!来てくれー!と大声でアニーさんを呼んだ。程なくして、アニーさん、もといアニー夫人が部屋にやってきた。彼女の肌は白人に比べたらいくらか黒かったが僕やダイナよりずっと白かった。そして彼女もまた上品な洋服を身に付けていた。首の途中まであるインナーの上にはゆったりとしたシルエットの深いグリーンのブラウスワンピースを纏っていた。
ジョンソンさんは夫人の到着を確認すると話を再開した。
「君、うちで働く気はないかね。石炭を売る仕事と使用人としての仕事だ。そうすれば僕らの家族が君のお母さんの為にお金を出す正当な理由になる。安く買い叩こうっていうんじゃない。正当な報酬をきちんと払うことを約束する。いいよね、アニー。」
アニーは僕の方を見て答えた。
「ええ、構いませんよ。ビルが大きくなって手がかからなくなったけれど、やっぱりペグが使用人をやめてから、少し家事が大変なの。」
今までに経験したことのない温かい空間が僕を包んでいた。彼らから向けられた優しさは僕をたじろがせ、安堵は僕の全身の筋肉を弛緩させた。肩がすとんと落ち、再び涙がこぼれた。
ダレンスバーグ一家が僕の返事を待っているのだと気づいた時、僕は再度体に力を込めて、唾を飲み込んで、ジョンソンさんの目を見据えて言った。その目は優しかった。
「ありがとう!ありがとうございます!やらせてください!」
その瞬間にビルは僕に抱きつき、僕はビルを強く抱き返した。
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