第二節:僕の中のブルー

◇1906年 ルイジアナ州 ニューオーリンズ


 キング・ボールデンと出会った日、家に着いたのは夜の帳がすっかり下りてしまった後のことだった。僕が家の扉を開けるとダイナが勢いよく駆け寄ってきた。そして目にも留まらぬ速さで平手を一撃食らわせたのだった。それから小一時間続いた説教の間、ダイナは終始凄まじい剣幕で、おそらくはこれ以上叱られたことがないくらいに叱られた。

 しかし説教が終わると僕を抱きしめて、無事でよかった…と聞こえるか聞こえないかの微かな声を漏らしたのだった。首元に濡れた感触があった時、この人を悲しませるようなことはしてはいけないと心の深いところに刻まれた。


 一方で僕はキング・ボールデンと出会い音楽の齎す激しい高揚感と温かい陶酔感を知ってしまっていた。説教の過程で今日の出来事は洗いざらい話してしまっていた僕は最早逃げ隠れすることなく正直に思いを伝える他なかったので、また音楽を聞きに行きたいという旨を情感たっぷりに述べた。

 ダイナは少し困った顔をしたがやはりストーリー・ヴィルへの立ち入りは絶対禁止であると曲げなかった。

 そこで僕はキング・ボールデンの家の前で練習を聞いている子供達がいるという彼の話を思い出した。僕はダイナにそのことを話したが肝心の家の場所を忘れてしまっていた。

 すると意外なことにダイナはキング・ボールデンのことを知っていおり、家の場所まで把握していたのだ。

 僕はもっと明るい時間に出かけることと、演奏を聴くのはキング・ボールデンの家の前だけにするという約束をして何とか音楽との繋がりを保つことができた。



 僕は翌日の朝から早速キング・ボールデンの家に向かった。家を出た瞬間から胸が高鳴って仕方がなかった。

 ダイナの話によれば彼の家はフランス人やクレオールを中心とした中流階級の住むアップタウンと黒人街ダウンタウンとのちょうど境目に位置していて、いつも教会へ向かうのに使うフランクリン・アヴェニューよりずっと西に行って、街の中心部から真っ直ぐに北上したあたりにあるという。

 ダイナの説明の甲斐なく僕は道すがら迷子になってしまったが、程なくしてラッパの音が聞こえ始めたので、それを頼りに何とかキング・ボールデンの家に到着することが出来た。

 

 彼の家は特別大きくもなく、小さくもなく、ボロでもなければ立派でもない。何とも言えない普通の家だった。あるいはあれだけ素晴らしい音楽を奏でる演奏家はきっと大きくて立派な家に住んでいるに違いないという僕の中の期待がそう感じさせたのかもしれない。


 そして驚いたことに僕と同い年くらいの子供が10人前後柵に張り付いて聞き入ったり、家の前の道で踊っていたのだ。決してキング・ボールデンの言葉を疑っていた訳ではないが、この何の変哲も無い普通の家に人が、それも子供だけが群がっている光景は何とも不思議なものだった。

 

 始めは遠巻きに先客たちを見ながらキング・ボールデンの音楽を聴いているばかりだったが、いつの間にか声をかけられ、いつの間にかその輪に吸い込まれていった。彼らのうちの何人かは僕に踊りを教えてくれた。曲の中のここからここまでが一つのまとまりで、それが何度も繰り返されるんだ、だからそれに合わせてリズムを取るんだ。ほら、真似してみなよ。

 僕は楽しくなって必死に踊った。初日にしては良く上達しているとみんな褒めてくれた。しばらく踊って過ごしていると僕にダンスを教えてくれた少年のうちの一人が、俺はもっとたくさんのダンスを知ってるぜ。次も教えてやるからまたこいよ。そう言って先に帰っていった。

 僕らは彼を見送った。そして僕はダンスをやった仲間の一人に彼が途中で帰った理由を尋ねた。

「ネルソンの家は親父がいないから働かなきゃいけないんだよ。」

 彼は僕と同じ10歳だった。僕はそれを聞いてどきりとした、唐突に自分がいけないことをしているような感覚に陥ったのだ。

 それからは素直に音楽を楽しむことが出来なかった。ついさっきまで楽しさに溢れていたラッパの音色は、僕を責め立てているように酷く他人行儀で刺々しいものに感じられた。

 僕はこの場から離れようとした。ここに居ていいと自分を納得させるだけの言い訳を僕は用意できなかったのだ。

 踊り、はしゃぐ彼らを背に歩き出そうとした時、僕を引き止める声があった。

「キング・ボールデンの聴きどころはこれからだよ。」

 訛りのない上品な喋り方はその空間において明らかに異質な存在感を持っていた。

 僕はこの声が誰のものであるかはすぐに判った。一団の中で一際綺麗な服装をした少年がいた。彼は終始演奏に耳を傾けていた。眼を閉じ、演奏に合わせて呼吸のリズムを作っていた。その気品に満ちた風貌も相まって、近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。

「君の家も君が働かなくちゃいけないくらいに大変なのかい。」

「あんた以外はみんなそうだよ。」

 僕はこの少年に対して無性に腹が立った。裕福で苦労を知らなそうなこの坊ちゃんをやっかんだのかも知れないし、純粋に態度が気に入らなかったのかも知れない。

 だから言い返してやった時に彼が申し訳なさそうな顔をするところを見逃しまいと振り返った。しかし彼は臆面なく話を続けた。その表情には清々しさすらあった。

「僕はビル・ダレンスバーグ。これからはあんたではなくビルと呼んで欲しい。僕の家族はクレオールで父は石炭の会社をやってる。だから君より裕福な家庭で育っているかも知れない。君は僕が金を持っていそうだから嫌ってるのかい?」

「別に嫌ってなんかいないさ。」

 それならよかった。と言って彼は僕に笑いかけた。

 僕は自分を恥じた。彼に諭されながらも、未だ彼に対する嫌悪感が心の中に残っている自分が嫌だった。

 僕が沈黙を貫く間、重たく嘆きに似た曲が演奏されていた。僕はだんだん居心地が悪くなってきた。

 再び口を開いたのはビルの方だった。

「これは14小節の繰り返しで構成されているブルース。キング・ボールデンが得意にしているジャンルなんだ。君は彼のブルースを聴いてどんな風に感じた?」

 彼は僕の中にある感情に気付きながらも正しく自分を律しているように見えた。それは僕を余計に惨めにさせた。

「僕は泣いてるみたいに聞こえた。嘆いて、救いを求めてる。」

 ビルはキング・ボールデンが演奏する家の方に顔を向けていた。

「僕は昔キング・ボールデンに訊いたことがあるんだ。どうしてあなたの曲はいつも僕に寄り添ってくれるんだろうかって。そしたら彼は言ったんだ。”僕たち黒人は悲しみを歌うことで悲しみを乗り越えてきた。そしてブルースには歴史の中で様々な悲しみや哀しみ、あるいは愛しみを詰め込まれてきた。だからブルースが君に寄り添っているんじゃない、君自身がブルースの中から自分の感情を引き出しているんだ。”って。」

 聞こえてくるブルースからはまだ愛情を感じ取れずにいた。僕は僕の中のブルーを何一つ乗り越えられていない。それでも僕はその悲哀に満ちた音色に耳を傾けた。もし彼の言う通りなら、ブルーの奥底で何かが見つかるかもしれないと思った。


「さっきはキング・ボールデンの言葉を借りたけど、僕は本当のブルースを知らないのかもしれない。ブルースは貧乏や空腹みたいなつらい思いの中で育った音楽なんだ。だから、きっと君の方が僕よりずっとブルースと仲良くなれるはずだよ。」

 ビルはこの時初めて悲しそうな顔を見せた。僕は彼の目を見ないようにして、ふーんと言って鼻をこすった。彼になんて言えばいいのか分からなかったのだ。内心では、すこしだけ嬉しい気持ちになったことも相まって、結局そのあとはろくな会話をしなかった。

 その時感じた安っぽい優越感はビル・ダレンスバーグという一人の人間を受け入れてみようという心の余裕を生み出す一助となり、僕はその日、自分への嫌悪感と彼への嫌悪感をふんわりと抱いたままビル・ダレンスバーグと友達になった。



 それからビルは僕にキング・ボールデンの話や、ブルースの話、ジャズの話、ラグタイムの話、そしてキング・ボールデンの吹くラッパはコルネットという楽器であることを教えてくれた。それらの話題は僕の好奇心を十分に刺激し、彼に対して心を開いていくにあたっては十二分の材料となった。

 ビルと顔を合わせる度に距離は縮まり、次第に僕は彼のことを金持ちの坊ちゃんとして扱うことはなくなった。その過程で自分とビルの双方に向けていた嫌悪感の針はゆっくりと溶けて消えていった。

 僕は家に帰るとビルから聞いた話を誇らしげにダイナに話すのだった。ダイナはそれを楽しそうに聞いた。


 ある日、僕は友人を知っていく中で生まれたもう一つのブルーを遂にダイナに打ち明けた。それは僕もダンス好きのネルソンのように働くべきなのだろうかというものだった。

 僕はこれを神様にも誇れるような褒められるべき勇気ある決断だと考えていたが、ダイナは頑なにこれを拒んだ。

「学のない子供を雇うような働き口は大した稼ぎにはならない。そして学を捨ててそういうところで働き出すようなやつは一生単純労働以上の仕事はできない。大人になって子供を作っても家が貧乏だから子供も学を捨てて働き始めなきゃいけない。世の中にはそういう貧困のループから抜け出せない人で溢れている。私もそう。」

 ダイナの目には並々ならぬ怒りがみなぎっていた。

「だからあなたはそのループから抜け出さなくてはならないの。自由にならなくてはいけないの。」

 彼女が話を終えると先ほどまでの燃えるような怒りは静かな決意に変わっていた。

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