第一章:ビル・ダレンスバーグの肖像

第一節:襤褸切れを着たジム・クロウ

◇1906年 ルイジアナ州 ニューオーリンズ


 僕の幼少期の記憶には常に空腹が付き纏っていた。空腹と共に目覚め、空腹と共に眠ることが僕の日課であり、それは神様から与えられた試練だと思っていた。そして試練を乗り越えた暁には特別に幸せな人生が用意されているのだと思っていた。潮風の入らない暖かい家に住み、堅いパンを齧る代わりに温かいガンボを食べる。暴力に怯えずとも街を歩くことができ、大人になってもボーイなんて蔑まれた呼び方をされない。そんな特別な幸せが用意されているのだと信じていた。

 僕の母のダイナは毎晩眠りにつく前に神様がいつか貧困や差別から私たちを救ってくださるのだと言っていた。だから僕はフランクリン・アヴェニューのバプテスト教会へ熱心に通いお祈りを捧げたのだった。


 教会ではお祈り以外の様々なことを教わった。街を歩くときには道の真ん中ではなく端を歩かなくてはいけないこと、警官に声をかけられた時は自分が無実でも大人しく従うこと、バスは後ろの席に座らなくてはならないこと。そして最後に、それらがどんなに理不尽な行いだとしても神様はきちんと見てくださっています。と締めくくられるのだった。

 神様お墨付きの自虐的処世術の他にも教えられたことがあった。それはこの町の歴史だ。

 ダイナはあまりそういった話をしなかったから、僕は聞いたことのない歴史の話を聞くのが好きだった。


 僕の住む町ニューオーリンズはミシシッピ川の河口に位置する港町で、1718年にフランス人によって造られた。彼らは新大陸アメリカに新たなオルレアンを築いたのだ。1763年になるとニューオーリンズを含むルイジアナ州はスペインの持ち物となり、1801年には再びフランスに返還され、最終的には1803年にアメリカに売り飛ばされた。僕はこの話を聞いたときに初めて町が売り物になるのだということを知った。

 そういう歴史的経緯や港町として性格からこの町にはフランス人やスペイン人、イタリア人、ドイツ人、そして各地から連れてこられた黒人がごちゃまぜになっており、当然文化や宗教も多様に存在していた。

 町を歩けば様々な教会が立ち並び、そこからは様々な言語の讃美歌が聞こえてくる。屋台の男はアリアを歌い、港や綿花畑ではワークソングやコールアンドレスポンスが響く。この町に住む人たちは各々の国からお土産を持ってやってきて、この小さな町にぎゅうぎゅうに押し込んだのだ。

 奴隷取引の中心地であったニューオーリンズには様々な地域から僕たち黒人が奴隷として運ばれてきた。僕たちの先祖は労働の時に歌われるワークソングや宗教的な意味を持つ黒人霊歌、そして一人の呼びかけに大勢が応えるコールアンドレスポンスと呼ばれる歌唱スタイルを携え、ニューオーリンズに新たな文化を根付かせたのだという。僕はこの事実に小さな誇りを持った。ただの誰かの持ち物ではなく町の一員になったような感じがしたからだ。

 しかし実際のところはその後も奴隷としての歴史が長く、多くの白人にとって僕たちは売買できる労働力や知性の劣った人種として見下されているということだった。

 1860年になると合衆国内では奴隷制が政治的争点の一つになり、当該議題において奴隷制の拡大反対を表明していた共和党に属するエイブラハム・リンカーンが同年の大統領選挙で当選したことをきっかけに、南部では黒人奴隷という私有財産を失うことを恐れてアメリカ合衆国を離脱、アメリカ連合国の旗を掲げた。この時ニューオーリンズを含むルイジアナ州も合衆国を離脱して南部の連合国に加盟したのだ。

 この戦いは結局北軍の合衆国が勝利を収めるのだが、僕たち黒人にとってみれば自軍の勝利より敵軍である北軍が勝利してくれて良かったと思う他ない。

 教会の大人たちが南北戦争という自国の出来事を客観的に語るのは、当時の黒人の立場が戦争の当事者ではなくあくまでも勝者への賞品だったからだろう。事実、南部の連合国が黒人奴隷の中から志願兵を募ったのはほぼ敗戦が確定してからのことだった。


 大人はいつもここで口を噤んだ。悲しそうな顔をして、その後に、しかし伝えなければいけないと決心したようにまっすぐに閉じた口を徐に開く。僕はそれが大嫌いだった。恐ろしいことが始まるのを予感させる重たい空気が僕を不安にさせた。そしてそのあとの話はもっと嫌いだった。歴史の話はここで終わればいいと思った。

 

 敗戦後連合国は解体され南部諸州は再び合衆国の統治下におかれた。そして北部の軍事占領下で奴隷制度は撤廃され人種差別を禁止する法律が制定された。これを機にようやく黒人に投票権が与えられたのだった。

 しかし束の間の自由は簡単に取り上げられた。1877年に北部の共和党と南部の民主党の間で政治的な取引が成立し、黒人は再び差別の対象になった。またも黒人は売り物にされたのだ。

 この時定められた人種隔離を認める史上最低の法律は、白人が黒人に扮して無知で滑稽な歪んだ黒人像を演じるミンストレル・ショーのタイトルからジム・クロウ法と名付けられた。

 そして20世紀になった今でも襤褸切れを着たジム・クロウはいじめられている。


 そういう歴史を知ることで現在行われている不条理を容認できるかといえば、寸分の余地なく容認することはできない。怒りも憎しみも確かに内側に宿ったが、この膨大な歴史に立ち向かうという気持ちにはならなかった。闘うにはあまりにも積み上げてきた歴史が重すぎる。周りの大人たちは口を揃えてそう言った。

 しかし、それが彼らが彼ら自身を納得させるための体のいい言い訳だということは10歳の僕にも分かっていた。



 その日学校から帰った僕は母の帰りを待ちながらシーツに包り耳を澄ませていた。遠くからラッパの音が聞こえてくる。長く大きい音が僕を追い越してどこまでも遠くに伸びていく。

 いつからか、誰かが何処かで吹いているラッパの音を聞くことが僕の小さな楽しみになっていた。

 母のダイナはいつも夜遅くに帰った。その間はとても自由な時間であるものの、僕はいつもひどく退屈した。というのも、町に出ることを厳しく止められているからだ。理由は教会の大人たちがいつも口にしている。町には危険がいっぱいで、白人のご機嫌を損ねてはならない。

 だから僕はマルディグラさえ直接見たことがなかった。あのお祭り騒ぎの遠音に耳をそばだて、羨ましそうに窓の外を眺めるばかりだった。

 黒人街の外側へはダイナとしか訪れたことが無く、僕の世界は黒人街の内側だけだといっても過言ではなかった。


 しかし、そのラッパの音は閉じられた世界の外側からやってきた。


 喧噪の雑踏の間を抜けて、蔑みや偏見を越えて、富豪も貧乏人も、満腹も空腹も、白人も黒人も関係なくどこまでも平等に届けられた。それはまるで僕を外の世界へと誘う妖精だった。

「さあ出てこい。ここには本当の自由があるぞ。」

 妖精はいつもそうやって僕をそそのかすのだ。時に甘い声で囁き、時に激しい遠吠えのように駆り立てるのだ。

 僕はいよいよ内なる欲求に抗えなくなっていた。好奇心が僕の精神を支配して拮抗いていた罪悪感と背徳感を押しのけたのだ。僕はシーツを剥ぎ、穴の開いた木の扉を勢いよく開いた。


 走って黒人街を抜ける途中、僕の心臓はバクバクと大きな音を立てていた。血が巡り四肢の先まで熱くなった。僕の耳はどこかの家から響くヒステリーをかわし、同じくらいの歳なのに偉ぶっているチンピラ共の挑発を撥ね退けた。そして正確にラッパの音を捉えた。

 必死に音を追いかけていると気づけば荒くれ者が集うストーリーヴィルへと出ていた。

 僕は走る足を止め肩で息をした。辺りは少しずつ暗くなり始めており、娼館の客引きや仕事を終えた労働者の乾杯の音頭が聞こえ始めていた。そのいかがわしい雰囲気は僕を大いにたじろがせ、追いやってしまったはずの罪悪感と背徳感が再び顔を覗かせた。もう帰ろうかという考えが頭に浮かんだその時。

「おいおい坊主、女を知りに来たのか?」

僕は突然後ろから声をかけられてひどく驚いた。そして勢いよく振り返ると一人の酔っ払いがにやにやしながら僕のことを見下ろしていた。彼は白人だった。

 彼の言葉の意味を理解するのに数秒かかり、理解した時には顔がかんかんに火照っていた。

「いいや、違うんだ!神様に誓って違う!」

「恥ずかしがらなくていいんだぞ、坊主。男はみんなそうやって大人になるんだ。」

 酔っ払いは僕の肩を力強く叩き、そのまま肩に手を置いて歩き出した。そうして酔っ払いは自分の初体験について話し始めたのだ。俺もお前くらいの頃はな…といった具合だ。その事細かさと言ったら尋常ではなく、逢引きに誘うまでの鼻が曲がりそうになるくらいのくさい台詞から女性の陰部のしわの形状に至るまで語り尽くされた。この酔っぱらいはその経験を勲章か何かと勘違いしているらしく、終始鼻の穴を膨らませながら自信たっぷりに語るのだった。

 僕は恥ずかしくて堪らなかった。俯きながら口をへの字にして、両手の拳をぎゅっと強く握りながら聞く拷問に耐えた。

 ようやく話が終わり、耳の先まで真っ赤になった顔をあげると、そこは一軒の娼館の前だった。今度は客引きの厳つい男が僕を見下ろしている。

「何しにきやがった。」

客引きが喧嘩腰で言い放ち、酔っ払いは臆せず言い返した。

「ここの坊主がお宅の女で天国に行きたいんだとよ。きっと黒人街から走ってきたのさ、俺が見かけたときにははあはあ言ってたぜ。こういう若い奴の一生懸命なところに免じて通してやんなよ。…それとこれはお願いなんだけど、ついでに俺も通してくれないかな。」

「金はあるんだろうな。」

「そいつが無いからこうしてあんたに頼んでるのさ。な、坊主。」

 当然の報いではあるが酔っ払いは客引きに蹴り飛ばされ、金くらい持ってきやがれと正当な野次を飛ばされていた。

「家に帰ればお宅のよりずっといい女がいるぞ!てめえの店なんか二度と来るもんか!」

 というのがその日酔っ払いから聞いた最後の言葉だった。

 元々よれよれだったジャケットをさらに汚し、這いつくばりながら愚にもつかない虚勢を張る男を尻目にかけ、僕は急いでその場を離れた。あの客引きにはいつかお礼をしなければいけない。


 僕はその頃になるとストーリーヴィルの持つ独特の匂いや空気に順応してきていた。そして当初の目的を思い出し、再びラッパの音の源流を探した。

 正確に伝えるとするならば探したとは言えない。その音は探すまでもなく一軒の酒場から堂々と響いていたのだ。


 扉の前に立ったときに感じた迫力は僕を一歩後ろに退けさせた。壁一枚向こう側から聞こえる音は遠くから聞いていた伸びやかな音とはまるで別物に感じられた。そしてビリビリと僕の鼓膜を激しく震わせ閃光のように全身を貫いていった。その体験は僕の中に恐怖と感動が入り混じった奇妙な感情を生み出した。

 僕は扉の前で立ち尽くし、演奏が終わるまで身動きを取ることが出来なかった。その間、自分の体はいっぱいに張った船の帆のように全身で迸るパワーを受け止めていた。そして演奏が終わってからも、しばらくの間は放心状態だった。


 突然扉が開けられ、僕ははっと我に返った。そこには一人の男が立っており、拍手に送られ振り返って手を振っていた。その後、彼はこちらを向くとしゃがんで僕と目を合わせてこういった。

「ガキンチョがこんなとこで何やってんだ。ママに叱られちまうぞ。」

 この時、不思議なことに僕は目の前にいる男こそラッパの音の主だと直感した。

「あんたのラッパの音を辿ってここまで来たんだ。」

 僕は正直に言った。言い訳を考えることすら忘れていた。

 その言葉を聞くなり男は破顔し、歯をむき出しにしてニカーっと笑った。そして立ち上がり店の中に向けて声を放り込んだ。

「おーい!みんな聞いてくれ!ここにいるガキンチョが俺のコルネットの音を辿って来たんだとよ!」

 店内からは再び拍手が湧きあがった。ヤー!ブラボー!と彼を称える声が店内から響いている。

「ここに来れば、またあんたの演奏が聞けるのか?」

 僕は称賛と拍手を遮って彼に尋ねた。

「ここはガキンチョにはまだ早いな。どうしても聞きたきゃ家まで来て練習でも聞いていきなよ。他のガキどもはいつもうちの柵に張り付いてるぜ。」

 男はそう言って足で地面に簡易的な地図を書いてくれたが、いまいちピンと来なかった。しかしできる限り覚えようと努めた。

 程なくして男が立ち去る様相を見せたので僕は慌てて引き留めた。

「なあ、あんた何て名前なんだ。」

「俺の名前はチャールズ・バディ・ボールデン、この街の奴らは俺のことをキング・ボールデンと呼ぶのさ。」

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