ハーレム・ルネサンス

西谷 田螺

序章

ハーレムはスラム街だった

 僕が初めてハーレムという地に辿り着いた時、そこにはまだ迸る活気はなかった。そこには詩もなく、また音楽もなかった。極めて現実的な顔つきの人々が道を行き交い、現実から目を背けたものは饐えた臭いを放ちながら道の隅に寝ていた。

 1917年、ニューヨーク州マンハッタンのハーレムはスラム街だった。午後4時のオレンジ色の光に照らされた装飾過多な石造りのマンション街に薄汚い浮浪者が住み着いている光景は、そこに初めて訪れた人間にとって大変に奇妙なものであり、僕は始めの半刻ほど、この街を興味深く観察したが、やがて目を伏せて歩く様になった。

 このちぐはぐなスラム街において、大きなポーターバッグを持ち上等な服を着て歩く僕もまた、彼らにとっては奇妙な存在であったに違いない。人々は僕を見た。僕には先を急ぐ理由はなく、向かうべき場所すらなかったが、早足で歩き、懐中時計を見て、忙しいふりをした。そうすることで僕に向けられる関心や疑心、好奇心をかわした。

 125丁目のメインストリートを歩き切った頃に、ようやく僕は宿を決めなければならないと思い立った。この街で暮らしていくのであれば、いずれはアパートメントを借りなければならないが、当面は宿暮らしをすることになる。

 顔を上げ瀟洒な建造物とそこから突き出る数々の看板を順番に眺めた。

 すると唐突に僕の前に一人の少年が現れ、行手を塞いでいた。彼は僕の腰くらいの身長しかなく、彼が進路を妨害していることに気付くまでに時間を要した。僕と少年の距離は、一般的に人と対峙する時に取られる距離よりもずっと近かったので、彼はほぼ垂直に僕を見上げ、僕はほぼ垂直に彼を見下ろした。

「盗人野郎め!何かここに置いていけ!」

 眼下の少年は僕を睨み、吠えた。僕は少年を蹴り飛ばして、倒れた少年の脇を足早に通り抜けていった。


 僕はメインストリートから外れたところに宿を見つけた。宿屋の袖看板の真下には、宿主らしい爺さんが煙草を吹かしている。メインストリートとは打って変わって、裏通りにはゆっくりとした時間が流れている。

 メインストリートの人たちとは異なり、爺さんは好奇の目で僕を見る事はなかったので、僕は少し安心した。空き部屋があるかどうか尋ねると、女はつけるか?と聞かれたので、いらないと答えた。彼はやはり宿主だった。左手で蓄えた顎鬚をなでながら、右手でポケットから鍵を取り出して僕に渡すと再び煙草を吹かすのだった。

 メインストリートにあった建物には劣るものの、宿の内装は立派だ。少なくともニューオーリンズの黒人街ではお目にかかれない。しかし部屋は狭く、埃っぽい匂いがした。一つの部屋にベッド、流し台、テーブル、椅子など、生活に必要な機能が全て詰め込まれている。合理的で無駄がない。装飾的なのに味気ない部屋だと思った。

 僕は重たいポーターバッグを下ろし、窓をあけ、ジャケットを脱いだ。コートハンガーが無かったので、ジャケットはベッドに放り投げた。椅子に腰掛け煙草を吸おうとしたが、肝心の煙草はジャケットのポケットにあることを思い出し、腰を上げる。脱ぎ散らかされたジャケットから煙草とマッチを取り出し、再び椅子に腰かけた。

 僕は靴底でマッチを擦り、煙草に火をつけた。ようやく一息つくことができた。予定よりもずっと長い旅路になってしまった。


 この旅路はどこから始まっていたのだろうか。キング・ボールデンがイカれちまったあの日だろうか。初めてコルネットを手にした日だろうか。いいや、それでは完全ではない。この長い旅はいつも空腹だった幸福な日々から始まっていたのだ。

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