第31話 浮かぶ影と決意

 ナヤーシャおすすめの宿に泊まることになった。そこは明らかにそういう男女を狙った宿で泊る気にはなれなかったが、彼女の『今のわたしたちはこの宿に泊まらないほうが不自然で、泊ったほうが自然です』との意見に押し切られた。


 一方は足取り軽く、一方は乗らない気分を抱えながら、二人して部屋に入る。

「わあ、素敵な部屋ですね! とくにベッドが一つしかないのが素敵です!」

 せめて別々の部屋に泊まりたいと言ったが、『それはもっと不自然です』とのことだった。

「ハレルさん、このベッドふかふかです! ふかふかがふかふかでふかふかです!」

「まるで初めてきたような反応だな」

「噂に聞いていただけですから、もちろん初めてですよ。一人で宿に泊まろうとは思えませんから。それにもし泊まろうと思っても、わたしは貧乏な女ですから、そんな余裕はありません」

 なぜか楽しそうというか、はしゃぐようにそんな話をする。

 彼女は素敵な部屋と表現したが、俺にはその素敵さがわからない。ベッドが一台しかないことを限定で指した『素敵』なのかもしれないが、どっちにしてもわからない。ロウソクの火でぼんやりと照らされている室内は綺麗なのか薄汚れているのかが判然としない。やっぱり壁も床も黒くて、落ち着くこともできない。


「どうしたんですかハレルさん? 早く一緒にベッドで寝ましょう?」


 部屋に入って早々、大きめのベッドに横になったナヤーシャは、手招きしてくる。掛け布をかぶっていて、首から上しかその姿を覗かせていない。どこかぽつんと横になっている印象が強く、ベッドを持て余しているように見える。

「俺は床で寝る。どうもベッドの上だと寝れないタチなんだ」

 もちろん嘘だが、今日会ったばかりの彼女ではそれが嘘かどうかなんて見破れない。嘘だと思っても、そこまで。疑惑で一旦は終わる。

「店のベッドでぐっすり眠りこけたのに?」

 ……それをすっかり忘れていた。それが思い出されると同時に、寝ている間にナヤーシャに何をされていたのか——という疑問が浮かんでくる。あのときは夢から解放された安心感ともう彼女と関わることはないだろう見通しがあったから気にならなかった。しかし今では開放感は薄れ見通しも変わっている。

「わかりましたよね? 観念して一緒に寝ましょう、ね?」

 ナヤーシャは誘い込もうとするように掛け布を少し下げた。するとさきほど買った地味な服がはだけていて、胸元があらわになっている。別にそのくらい、派手な衣装のときに目にしていたが、薄暗いこの部屋で見るその白い肌はあのときとは意味が違うと直感がきて、いやに視覚に焼き付いてくる。

「ふふ、ハレルさん……好きですね。……わたし、人気がなくて貧乏で、どうしてなんだろうと思ってましたけど、今にしてみればよかったって心から思います」

 そこで彼女はもう一度笑った。


「あなたに取っておけましたから」


 さっきまで平然と隣を歩いていたのが幻だったと思うほど、彼女の存在が遠く、そして強く感じる。あまりに近寄りがたい。

 彼女にそこまで言わせるようなことが俺との間に、このたった一日であっただろうか。あったのかもしれないし、なかったのかもしれない。ないとしたらただの演技だが、あったとしたらこれはもう——。

 だとすれば、説得をするのも変だ。もはや俺自身がどう思っているかの問題。

「いまは有事に備えるべきでそんなことをする余裕は——」

「もうあの人たちにわたしとハレルさんの関係を見せつけるべきです」

 見せつける趣味はない!

「ハレルさん……早く、きてください」

 ナヤーシャはさらに掛け布を下げようとする気配をみせる。

「ちょっと待て!」

「遠慮しないでください、見てほしいんです」


「そうじゃない、様子が変なんだ!」


 階下がやけに騒がしい。絶対に何か非常事態が起きている。それとも、起きていてほしいと思っているだけか。そんなわけはない、騒がしい。部屋の外に出ると、男や女の怒号や悲鳴が聞こえてくる。雰囲気からして、何の目的かは知らないが集団がこの宿に侵入してきて片っ端から部屋を調べているようだ。

 このままここでじっとしていればいいのだろうか? 俺たちは別に組織に追われるようなことをしていないから大丈夫——なわけがない! ナヤーシャは知らないが、俺は追われていてもおかしくない。サクリの顔が、あのときの言葉が浮かんでくる——『お前はオレが殺す』という、そこまで本気で受け取っていなかった言葉。

 サクリといえど東地帯にはそう簡単に手が出せない。だから俺が東地帯から出た情報を掴んで動き出したのかもしれない。それともナヤーシャが恐れている連中か。それもあり得る。なぜこのタイミングなのかは謎だが、その集団の性格など全くといっていいほど知らない。どっちにしてもここで待っていていいはずがない。

 部屋に戻って乱暴に扉を閉めた。

「今すぐここを出よう! 何かが来てる」

 さすがに察しはついているのだろう、異論はないようで衣服も整っており準備はできているようだったが、その表情は焦燥感に満ちていて珍しく強めに声を発する。

「どこから出るんですか⁉ 相手が階下から来ているのだから逃げようがないです!」

 ついにこの階にも騒ぎが移ってきたようだ。乱暴に扉を開ける音、困惑の声、有無を言わせぬ鋭い声、そして悲鳴。考えている暇はない。

「その窓から出るしかない」

「絶対に怪我をして逃げれなくなります!」

 もういちいち答える余裕はない。奴らが近づいてきている。

 窓を開いて下を見ると、幸運にも奴らの仲間が待ち構えている様子はない。窓はそこまで大きくないが、人が通るには十分。窓の縁に腰かけナヤーシャを呼び寄せる。

「ちょっと、これ……すごく怖いです——力が、抜けそう……」

「絶対に抜くな、落ちるぞ!」

 ナヤーシャは背後から抱き着く形で掴まり、怯えている。両腕と両足が俺の体にしっかり回されているが、あまり力強い感じはせずちょっとの振動でほどけてしまいそうで怖い。しかし両手にナイフを持っているため支えることはできない。

「きゃあ……っ⁉」

 すぐ後ろから小さな悲鳴が上がった。俺が窓の縁を蹴って跳躍したからだ。目指すは下ではなく上、屋上。一番上の階にある部屋にいたためそっちのほうが現実的だと判断したが、けっこう滅茶苦茶ではある。

 ナイフを壁に右手で刺して左手で刺してと繰り返して腕力だけを頼りに、なるべくナヤーシャに衝撃がいかないよう、かつなるべく早く屋上に到達するよう登っていく。

 そして、なんとか屋上に右手を掛けることができた。思ったより早く辿り着いた。


「ハレルさん……その、わたし……力が入らなくて、落ちそう」


 恐怖ではなく、肉体的疲労で力が入らなくなってきているのが、締めつけ具合からわかる。

「もうちょっと頑張れ」

 足で探ると、ナイフで作った二か所ある足場に両足が着いた。

「ひゃあ……っ⁉ どうしてお尻を触るんですか⁉」

 もちろん彼女を支えるためだが、説明する時間が惜しいので答えずに跳躍した。屋上に降り立つとすぐに彼女を下ろして俺は屋上から飛び降りると、足場に使ったナイフを掴んで、それを使ってまた登っていき屋上に到達する。ナイフは月の光を反射して目立つ痕跡となるため回収したかった。


 屋上に戻ったのと入れ替わるように声がしてきて、それは「この部屋の客は窓から逃走したようです!」「そいつを私は探しているんだ、絶対に逃がすな、追うぞ!」というようなものに聞こえた。その声はどちらも女性のもので、おそらくサクリの手先ではなく、この北地帯の人物だろう。

「わたしたち、助かったんですか……?」

 ナヤーシャはぐったりと屋上に座り込んでいる。しばらくの休憩は必要そうだ。けっして助かったわけではなく気を緩めることはできないが、この平らな屋上には出入口がないようなので容易には来られないし、どうやら追手は俺たちが地上に逃げたと思い込んでいるようでだいぶ下から騒ぎ声がするので少しは休んでもよさそうだった。


 この街特有の、ゴンガレ山から吹き降ろされる強風が吹き荒れる。その風にさらわれて屋上から投げ出されることはさすがにないが、何かがふらふらと舞うように飛んできた。それは一枚の紙で、俺と彼女の間に落ちた。

 ぐったりしていたはずなのにナヤーシャは惹きつけられるようにそれを手にとり、月明りを頼りにそこに連なる文字を読んでいるようだ。しかし簡単なことしか書いていなかったのかすぐに読み終わり彼女はこっちを見て言った。


「ハレルさん、賞金を懸けられてますよ」


 一時は通りすぎたと思った嫌な考えが、いきなり姿を現した。それも想像以上に嫌な形となって。驚くよりも諦めが先にきて、それに対抗するためには先延ばしにしていた決断をついにする必要がでてきた、そう潔く認めることができた。

 ただ、その前に驚いたことがあった。

「ナヤーシャ、おまえ文字を読めるのか?」

 賞金の話が嘘であってほしいが、彼女は文字をしっかり読んでいるようにしか見えなかったからそうではないだろう。だから読めるのだろうが、彼女の雰囲気からしてそんな素養があるのは意外で、嘘……冗談だと信じたくて聞いてしまった。

「えっとー……そうですね、読めるのかもしれないです……」

 どうも居心地が悪そうに答えた。読めるのか読めないのか、どっちとも受けとれる。

「ちょっとその紙を見せてくれ」と言って手を差し出すと、彼女は「嫌です」と答えて紙を持つ手を後ろに回したため、力ずくでそれを奪い取る。

「もー、乱暴ですよ」と彼女は抗議してきたが、なにがなんでも隠すという意思はなかったのか意外と簡単に手放し、紙は多少シワがついたぐらいで済んだ。

 紙面に目を落として読んでいくと、確かに賞金を懸けられていた。俺はこの街に来てから文字読みを学んだが、多少しか読めない。だからわからないところもあるが、この紙をバラまいたのはサクリがボスを務める組織・ザイキリであることは理解できた。

「相当な額を賭けられてます。どんなことをしたのかはわからないですけど……これではここでは生きていけないですよ。ザイキリってタチが悪いって噂を聞きますし、きっとさっきの集団は、この件で資金を調達してボクダリからこの北地帯の主権を奪おうと考えた潜伏組織だと思います。そういう輩に常に狙われることになる……どうするんですか?」

 問いかける声音には真摯な響きがあった。大きな決断を迫られている。別にナヤーシャにというわけではない、サクリにでもない、自分自身に。

 生きるために俺ができる選択は二つだけ。東地帯に戻りトウタリに属するか、この街・メルブートをいよいよ去るか。組織に入りたいと言えばロジカノは快く取り合ってくれ、俺は組織に入り、身の安全を得ることができるだろう。いまこの状況でこの街を出れば、ろくに準備をできないため無事にどこかの国にたどり着ける保証はなく険しい、下手をしなくても死ぬ可能性が高いことはわかりきっている。


「この街から出る」


 それでもこっちを選ぶ。本当はしたかったはずなのに、偶然恵まれた心地いい環境から離れることを惜しいと感じて先延ばしにし続けてきた決断を、いよいよするときが来た。ろくに準備をできないのは先延ばしにしてきたツケが回ってきたと思って受け止めればいい。

「そこまで読めるなら書けるよな? トウタリに仲のいい男がいる、ロジカノってやつだ。そいつに手紙を書こう、俺とロジカノしか知らない話を書けば、信じてもらえるはずだ。きっと縛られないで暮らすための面倒をみてもらえる。ナヤーシャはその手紙をもって東地帯に——」


「自分のことで手一杯になったら、わたしのことは捨てるんですね」


「いや、そういうわけでは……」

 『ない』とは言い切れなかった。冷えた視線を受けた途端、彼女のためであると思い込んでスラスラと口から出てきていた言葉がどれだけ場違いな言葉だったかを突きつけられたから。

 約束をしたはずだ。もしあれが約束ではなかったとしても、もはや約束で俺はそれを守るために動いていたはずなのに——彼女の言う通り——ナヤーシャを庇いながら動くのは無理があると感じて、彼女の求めていない目先の解決(正しくは解決ですらないが)を提示した。このことはもう取り消せない。だからといって、ここで「じゃあ、どうしたいんだ?」との問いを向けるのは、彼女の俺に対する軽蔑の、もっと簡単に言えばガッカリした眼差しを見れば違うとわかるというか……教えられる。


 最後のチャンスをもらっていた、彼女との約束を守る。

 それを守りたいと思っていないなら、そのチャンスにしがみつく必要はない。でも、彼女の目を見つめれば見つめるほどに守りたい思いが自分の中にあることに気づいていく。そのことにギリギリのところで気づけた。

 虚勢も虚飾もない、正直な言葉を送りたい。

 俺がナヤーシャに連れ出されているように、俺がナヤーシャを連れ出す言葉。


「……その、いっしょにこの街を出よう」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る