第29話 底なし欲

 案内されて、とある部屋の前にやってきた。係の者がいる部屋らしい。この部屋に近づいてきてから明らかにナヤーシャの声や表情は硬い。彼女は扉をノックしたあと中に「ナヤーシャです。開けていいでしょうか?」と声を掛ける。中から返事はなかったが、彼女は構わず開けた。


 扉を開けると、誰かがこっちを見ていた。部屋の中にいるのは一人。ナヤーシャの怯えようから厳つい男が待ち構えているのかと思っていたが、現れたのは女性だった。

 自分がどの座にいるかをまざまざと示すような豪奢な椅子に腰かけていて、エラそうに足を組んでいる。見た目は、三十代といったところか。

「きみが自ら来るなんて珍しいじゃない? どうしたの、トラブル?」

 扉からの直線上、部屋の奥にその椅子は置かれていて、入ってすぐに相対する形になる。椅子の前にはガラスのテーブルがあり、そこには酒瓶が三本とグラスが一つ。

「はい……。その、このお客様がわたしを買うことを希望していまして、それで……」

「へえー、きみが買われるなんて初めてじゃないか?」

「そ、そうでしたかね……?」

 ナヤーシャはチラリとこっちを視線で見た。どこか気まずそうだ。

「そうだよ、初めてだ。おめでとう、やっとこれでステップを踏めたな」

「ははは……ありがとうございます」

 乾いた、ひきつった笑い。本当にめでたいことなのかはわからないが、この女性が皮肉でいったようには感じなかった。自らの主導で買われたため、彼女への後ろめたさが勝ったのか……それとも俺への後ろめたさか。

「どうした? 嬉しそうじゃないな」

 そんなナヤーシャの態度に、女は違和感を覚えたようだ。やはり鈍くはないのかもしれない。ただ、彼女が緊張しすぎているというのもあるだろう。

「そんなことないです。初めてのことなので、緊張していて」


「初めてだと認識してなかったのに?」


「それはわかっていたんですけど……お客様の前で見栄を張る気持ちが働いてしまって」

 その『見栄』とはいまひとつ何のことを指して言っているかわからないが、考えられるのは買われた経験がないことが不名誉だという認識がここか、この一帯かの風潮なのかもしれないということ。ただ、よくわからない。

「そんなきみだからこそよかった、そうですよね?」

 ナヤーシャに向けられていた視線は、言葉の途中でこっちに向けられた。不意打ち的な質問でこっちの真意を覗き見ようとしている、警戒心が働く、しかし咄嗟に上手い返しは思い浮かばない。ここで雑な返しをすれば、俺の希望で彼女を買いたいと思っているとは思われない可能性がある。そうなれば彼女が立てた計画が崩れ、二人は血を流すことになる。

「あなたはどう思いますか、ナヤーシャのこと」

 質問に質問で返して時間稼ぎをする。

「いやいや、私はあなたに質問したんですよ、答えてください」

 安くは付き合ってくれない。とはいえ、これでも少しの間にはなった。

「彼女は愛嬌があるし、この通り——絶世の美女ですから、俺の中では買わない理由はなかったんですが……なにかおかしいですか?」

「そんなことはないですよ。疑っているわけではないです。ただ、彼女は大切な働き手なので、信用に値しない人物にはたとえ三日といっても任せることはできないので」

 薄く笑みを浮かべながら質問の理由を説明される。

「でも心配なかったみたいだ、あなたは信用できる。ナヤーシャのことをよろしくお願いします」

 信用を得るようなことを言った覚えはなかったが、女性はあっさりと買うことを許諾してきたので拍子抜けする。


 手で何かを示してくる。それが何を求めているのかはすぐにわかった。前へと進み、テーブルの上に金貨を一枚置いた。女性は「確かに。ありがとうございます」と言って手に取ったその金貨を少し眺めてから右手に握り込むと、こちらを見上げて囁きかけてくる。

「これから何度も何度も買ってくれれば、いずれ彼女はあなたの『もの』になりますよ、それを覚えていてください。……ただ、これまで彼女は人気がなかったですが、誰かの『もの』になるかもしれないと気づいた途端、ほかの男たちも黙ってはいないでしょう。男女問わず、人間とはそういうものです。どうか、気をつけて」

 焦燥感を煽り立てて金をつぎ込ませ、最後はダメ押しの搾取をして、ナヤーシャを俺に押しつけるという魂胆が透けて見える。隠そうとしていない。仮に俺がすでに彼女の虜になっていれば魂胆が空けて見えていたとしても有効な手ではある。その煽りはあながち嘘ではないのだろう、言葉に自信がこもっている。しかし、思惑は外れている。

「有益な情報をありがとう」と返して背中を向けた。ナヤーシャと共に部屋を出るとき、「どうか楽しんで」という声が扉を閉める直前に聞こえてきた。

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