第28話 囚われの心

「……あ、起こしちゃいましたか?」


 しばらく状況が理解できず呆然としてしまう。馴染みのない天井が視界に飛び込んできて、誰かが……そうだ、彼女が俺をのぞいている。

「急に眠りこけてしまったのでビックリしましたけど、すごく心地よさそうに寝てたので起こさないでおきました。横にするために動かしても全然起きる気配がなかったんですよ? 思わず……イタズラしちゃったかも」

 雰囲気からして、同じベッドに座ってずっと俺の寝姿を観察していたようだ。それだけじゃないだろう、もしかしたら俺に何かしていたかもしれない。頬が上気しているように見えるのは気のせいだろうか? 彼女が何もしないほうが不自然に思えるが、ただ酔いがまわっているだけかもしれない。

 それに、イタズラがどうとかはどうでもよかった。今はただアレが夢だったことに安堵していた。心底助かったという気分で、何になのかはわからないが感謝している。

「なにか夢は見ましたか?」

「まあ……ちょっとは」

 あまり詳細を語ろうとは思えない。というか、俺自身も詳細がわかっていない。夢の記憶を手繰ろうとすればするほど、現実の思考によって混沌とした夢の記憶が本来の形ではなく陳腐であっけない話になり果てる。

「へえ……。もしかして、その夢にわたしは出てたりしてましたか?」

「そうだな……それなりに、出てはいた」

 なんか言われそうだなと思ったが、誤魔化そうという気にはなれなかった。今はただ解放感がすごくて清々しさがあり、とても嘘はつけそうにない。

「もー、さっき会ったのばっかりなのにいきなりヒロインだったとか、どれだけわたしのこと想っちゃってるんですか? もう、もう!」

 俺の胸に両手を乗せて体をゆさゆさと揺らしてきてうるさいし、どう考えても彼女のほうが揺れていた。わざとらしすぎて逆に清々しい。

「どんな夢でした? ひょっとしたら我慢できなくてわたしにあんなことやあんなことやあんなことをしちゃったとか?」

 彼女はあやしく微笑む。

「『あんなこと』がどんなことかわからないが、俺はほとんど傍観者だった。……あまり気分のいい夢じゃなかったな」

 ただ不思議なもので、あの夢を見たことで妙に彼女に親近感を覚えるというか……警戒心のようなものが薄れた実感がある。それが良いのか悪いのか判然としないが、あれは夢なのだから今の親近感は妄想にすぎない。それでも、こうしたきっかけは馬鹿にできないかもしれない。


 そう、あれは夢だったはずだ。


「えー……ハレルさんを差し置いて一体わたしはなにしてたんですかー。阿呆ですね」

 なぜか俺の体を枕にしていっしょに寝転がろうとしてくるので、さすがに押し返した。

「なんでですか? さっきは黙って受け入れてくれたのに」

 寝ていたからに決まっているが、それは本人もわかっている、ちょっとした冗談だろう。

 またちょっかいを出される前に起き上がる。

「料金はいくらだ?」

「え……もう帰るんですか?」

 この店は出ていくだろうが、どこに帰るのかは自分でもわからない。

「十分楽しませてもらった。来てよかったよ」

 さわやかに言ってみた。

「代金は金貨百枚です」

 彼女は澄まして言った。

「寝てる間に色々してくれてたならその額も納得だ。……冗談だよな? 本当はいくらだ?」

 しっかり代金を払うと言っている客を帰そうとしないとは意味がわからない。ただ、事前に確認をしていなかったため冗談ではない可能性もあり、怖い。

「冗談じゃない——って言ったらどんな反応をするか気になりますけど、冗談です。代金は銀貨一枚です。うちはぼったくりじゃありませんよ?」

 ふふ、と笑って、本当の代金を明かした。なんというか、最後まで楽しませようとする人らしい。これで繁盛しないというから不思議だ。

「じゃあ銀貨二枚でいい。…………ん?」

 硬貨を入れているウエストバッグの中を探ったが、すっかり硬貨がなくなっていて、

「おかしいな……」

 と言ってみてもないものはない。

「もしかして、お金がないのにお酒を飲んだってことですか? それはいけません、こうなってしまったからには、なにで代金を支払ってもらいましょう——」

「なーんてな。銀貨二枚だ、ごちそうさま」

 テーブルの上に置いた。確かに、なぜかバッグから硬貨は消えていたが、それ以外にも硬貨はまだまだある。怖いぐらいに。

「ウソ……そんなはずは」

 彼女はどう考えてもおかしな反応を見せていた。だから追求してもいいのだがそれは関わるということで、それよりもこの店をもう後にしたかった。


 扉の取っ手を握ったところで彼女がなにか、ぼそりと呟いたが、なにを言ったのかは聞き取れなかった。おそらく俺に対して言ったわけではなく、ただ言っただけ。だから無視してこの部屋を出ていって問題ない。——本当にそうだろうか? 聞き返してほしかったから言葉を発したのではないか? もしそうなら、俺は彼女の最後の言葉を無視してここを去ることになる。それはなんというか……乱暴に思える。そんな乱暴をしなければならないほどの軋轢は二人の間には生まれていない……はず。


「今なにか言ったか?」


 とはいえ、聞き返すのには抵抗があった。だって、この店を後にしたい。それなのに聞き返してしまったのは己の甘さか、未熟さか……。でも、もしそれが未熟さだというのなら、成熟するのには抵抗がある。

「……いえ、なにも」

 絶対に聞こえるように言っていたはずなのに、なぜか否定する。しかも出会ってから一番そっけないし、背中を向けている。すごい面倒くさく思えて、こうなったらこのまま立ち去ってやろうと思ったが……まだできない。

「そんな態度をしてるから、常連ができないんじゃないか」

「的確な指摘をありがとうございます」

 ……ダメだこれは。もういよいよ出ていきたい。だけど、まだ足りない。

「だからおまえは儲けが出ないんだ」

「ほんとうにその通り——」

「違う。よくテーブルを見ろ。代金を払ってない客を背中で見送ってどうする……というか見送るな」

 彼女はテーブルに視線を向けた。

「……え、あれ? なんで……おかしい」

 彼女はしばらくの間、硬貨の置かれていないテーブルを見つめていたが、二度三度と深く呼吸をしてからこっちに振り返って、目の前に歩いてきた。

「困ります、ハレルさん。ちゃんと代金を支払ってもらわないと。こっちは商売ですので」

 目を強く見てきて、代金を求める。

「それはわかってるんだが……困ったことに払える金がない。それ以外で払える方法があるならぜひ教えてほしい」

 多少の虚しさを感じつつも、妙な話を言い切った。救いは、その話を彼女が素直に受け入れてくれたこと。

「それは難しい相談ですけど……あなたと飲むお酒はおいしかったですから、特別に考えますね。……そうですねえ」

 彼女はわざとらしく唇に人差し指をポンポンとあてながら、目線は上に向けて思案顔。まるで子供がいたずらを考えているようで、楽しそう。そしてなにかを閃いたようで、こっちに視線を戻し、怪しく笑んでから口を開いた。


「わたしをこの檻から連れ出してください」


「この檻……」

 それはどこを指しているのか曖昧。この部屋なのかこの店か、それとも北地帯? もしかしたらこの街? 下手をしたら推測が及ばない範囲。推測は難しいが問題ない、聞けばいいのだから。

「どこに行けば檻から出られたと思う?」

「それは、わたしが出たと思ったときに出たことになります」

 聞いてもかなり難しいようだった。間違えれば、一生こき使われることになりかねない。想像してみる、彼女にこき使われる一生を。すぐにある言葉が浮かんだ……『重い』。

 その想像に引っ張られて代金を出そうか悩む。しかし、彼女の目を見ているとそれはしてはならないことだとわかる。


「この街に来れば変われる、きっといいことがあるって勝手な期待をしてて、でもすぐに甘い妄想は壊れて。でももう少し! あと少し!って頑張ってみても変わらなくて、気づけば前よりも囚われてる。助けを求めても誰も応えてくれない、見てくれない。だから助けなんて求めてなさそうな人を装う。偽物になる。ちょっと楽になった気がしても、それは気のせいで、自分も自分を見なくなってるだけ……」


「それは誰の話だ?」

「わたしの話です」

 迷いも淀みもなくハッキリ答えた。そんな彼女に名前を尋ねる。

「……忘れたんですか? どうりで名前を呼んでもらえないわけですね。わたしの名前はナヤーシャです、もう一度言います、ナヤーシャです。次も聞かれたら、ちょっと傷ついちゃうかもしれませんからね?」

 とか脅してくる割にはどこか嬉しそうだった。次があればそれはそれでいいと思っているのか、ほかの理由か。なんにせよ、一時だとしても不安や心細さが薄らいだような表情に見える。

 しかし、対照的に俺の気は重い。きっとナヤーシャは俺を頼りにしているのだろうが、自分はわかっている、それほど頼りにならない男だと。なにせ、自分の命を守るのでも必死でやっとなのだ。そのうえで彼女の命も守るとなれば、あまりいい予感はしない。

「とりあえず、この建物から出よう」

 ナヤーシャが何に怯え囚われているのかはわからないが、まずはここを去るのが先決だ。彼女が悪いわけではない、この建物の居心地が悪い、この建物の内部にいることが苦しい。

「無断で出ればすぐに追手を向けられて、きっと逃げ切れないと思います。相手は鋭いし、しつこいので……」

 無駄に気分の悪そうなやつらが背後にいるらしい。

「だから、わたしを買ってもうらしかないです。その……わたしを三日間、好きなようにする権利です。それでもすぐに気づかれるとは思うんですけど、無断で出ていくより時間は稼げます」

 おかしい。俺はお金がないはずなのにその権利を買うのか……。いや、この際そんな細かいところはどうでもいい。問題は、それでもすぐに気づかれる——ということ。どうかしているやつがこの街には多すぎる。

「それで、いくら払う必要があるんだ?」

「金貨一枚を係の者に渡してもらいます」

「金貨一枚って……高すぎる。……いやいや違う、こんな絶世の美女を金貨一枚で独り占めできるなんて安すぎだろ! 最高!」

「もー、褒めすぎですって!」


 ナヤーシャの眼力で言わされただけなんだが……これが自画自賛か。

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