第27話 赤い酒
「ほら、なんでもないでしょ? ふふ」
俺が入ったあと、あっさりと彼女も部屋に入ってきた。
彼女の言うように、確かになんでもない……見える限りでは。
部屋に入って左端にテーブルがあり、それを挟むようにベッドが二台、まるで椅子の代わりのように置いてある。右端には棚があり、酒瓶やグラス、食器などが並べてあって、一応酒場のようなものは置いてある。
「そこに座ってください」
扉(出口)側ではない壁に面しているベッドを手で示した。もう入ってしまったのだ、いちいち彼女の言葉から思惑を勘繰ることはやめにしたいのだが、やめられない。
「こっちのベッドじゃダメなのか?」
聞くと、棚に向かっていた彼女は振り返った。
「あー……ダメってことはないですけど、そっちはわたしの席って決まっていて……」
「そうか……ならいい」
彼女の言動から企みがないとわかったわけではない。どこまでも疑い続ける自分に嫌気がさしただけ。素直に(十分素直ではないが)指定されたベッドに座った。変に沈み込むこともなく、座り心地の悪くない反発力。
少しして、準備した物をトレイに乗せてきた彼女は自分の席——ベッドに腰かけた。
「わたし不器用で手際がわるいから、次々来るお客さんを相手にするのが無理で……だから一人ひとりを接客するようにしてるんです」
どこか照れくさそうに明かす。一見そんなふうには見えないが、当の本人が言っているのだ、そうなのだろう。
「それで儲けが出るのか?」
続けているからといって順調とも決めつけられない、無理をしてでも続けている可能性もある。ただ、不器用とは相手を油断させるには便利な言葉だ。
「えっと、それはなかなか……一対一と言っても、代わる代わるお客さんが来てくれるわけではないので。それに羽振りのいい、この娯楽街の常連さんは目が肥えていて、地味なところには来てくれませんから」
地味なところとは自分のことかこの空間か、それとも両方か。この娯楽街に慣れていない身からすると十分派手というか……異様だが、この娯楽街に慣れたと仮定すれば、もしかしたら地味に映るのかもしれない。
この話が真実なら、あそこまで必死に誘ってきたのもわかる。それに、俺がこの娯楽街に慣れていないと見抜いたのはさすがと言える。
「指摘すると、容姿とかこの部屋とかいうより、そういう話をされることが地味だ。もっと客を引き付けたい——楽しませたいなら、そんな現実的な話はしないほうがいい。大抵の客は、そんなしけた話を期待してここに来ないだろう」
あんな客引きをされた後ならなおさらだ。
そもそも、容姿とか部屋の雰囲気とかは十分な魅力がある、あくまで初めてきた客の感覚のため自信をもっては言えないが。
「あ……そう、ですよね。おかしいな、いつもはこんな話はしないんです……失敗ですね。ご忠告、ありがとうございます」
俺は本当に忠告を言ったのだろうか。忠告を言わされた、引き出されたような気がする、彼女の反省しつつもどこかおどけているような『しぐさ』を見ていると。もしそうなら、彼女は相当な好き者で曲者だろう。
「案内人をやめたって言ってましたけど、これからどうするんですか?」
語りかけながら、彼女は二つのグラスにお酒を注いでいく。
「こらからどうするか考えてたとこをおまえが邪魔してきた」
嫌味を込めて返すと、グラスを一杯、「どうぞ」と差し出してきた。
「それじゃあ……まだ決まってないんだ、ふぅーん……乾杯」
自分が邪魔したとは思っていないような反応。その流れでお互いのグラスを軽く当て、酒を飲み合う。
……正直、全然楽しくない。
「ちょっと待ってくださいね、いまリンゴをむくので」
右手にナイフ、左手にリンゴを持って器用に、流れるようにむいていく。紫の皮が下へさらに下へと垂れ下がっていき、黒い果肉が姿を現してくる。むき終わるとそれを五等分にして、皿の上に並べた。
「わたし、ナイフ捌きにはちょっとした自信があるんです。どうでしたか、わたしのナイフ捌きは?」
「自慢げに聞かれたあとに否定できると思うか?」
リンゴを一切れ手に取り、かじった。食べ慣れた、記憶と一致するおいしさが口の中に広がる。
「あなたなら、ハレルさんならできますよね?」
「…………」
言葉が出てこない。リンゴを食べているから、ではなく、一瞬目の前の彼女がずいぶんと付き合いのある人物に感じられたからだ。もちろんとんだ気のせい。たまにそういう、気分的な浮遊感を伴った不思議な感覚に襲われることは、まあ……あること。
「そうかもしれない。あと、ナイフ捌きには素直に感心した」と返すと彼女は、「ですよね。ふふ、ありがとうございます」と嬉しそうにしながらもどこか落ち着いた反応を見せた。
それからは、お互いの国での暮らしぶり、この街に来てからの苦労や驚いたことの話をしながらお酒を適度に飲みつつ、流れに任せるように時間が流れていく。会話をしていく中で次第に気づいていったが、彼女は人から話を引き出すのが上手く、思っていたより会話を楽しんでいる自分がいた。自分の話をしているときでもそれに熱中するわけではなく、長すぎず短すぎずといったところで相手への質問へ切り替える。それがわざとらしくなくて心地いい。
「……ん?」
「どうかしましたか?」
「あー、いや……ちょっと眩暈が」
口にして違和感があった。眩暈を覚えることなどこれまでほとんどなく、記憶に明確に残っているものがないほどだったからだった。
「もー、お酒の飲みすぎじゃないですか? 止めても止めても飲むから」
「いや、俺はそんな飲んだはずは——っぐ……⁉」
また眩暈に襲われる。これを眩暈と呼んでいいのかもわからない。多分ちがう。
彼女は身を乗り出してきて、俺の頬に右手をそっと添えた。少し冷たいような、やはり温かいような温度。
「大丈夫……落ち着いて、わたしの目を見て」
言われた通り、彼女の目を見る。よく見ると、瞳は深緑の色をしている。なぜかはわからないがその瞳に惹かれて、見続ける。すると、気分の悪さが引いていくのがわかった。
様子からそれを感じ取ったのか、彼女は微笑む。
「ほらね、よくなったで……え?」
突然、ノックもなしに、部屋の扉が乱暴に開かれた。誰かが、挨拶もなしに入ってくる。それは女性だった。彼女との間に問題を抱えている女性が乱入してきたのだと思ったが、それは見覚えのある女性だった。
「……フィノ」
「知ってる人ですか?」という彼女の言葉に答える余裕はない。心を占めるのは、パン屋の娘であるフィノがこんなところに現れるはずがない⁉という動揺。
理解が追いつかない状況だからか、妙に沈着した時間が流れたがそれもわずかで、それはフィノが何を言うかを待っている時間だった。
「ハレル、こんなところで何してるの……説明して」
それは俺を責める言葉のはずだが、なぜかフィノは彼女を見て、睨んで言った。
声音から怒りを……それから悲しみを感じる。違う、感じているのではなく、そんな心情なのではないかと勝手に思い込んでいる。
フィノに対して、彼女が反論をする……なぜか立ち上がって。
「ハレルさんはきっと、変なものを食べたことがあるんです。だから、あなたから離れてこっちに来たのは必然です。でも、わたしも不安です、彼をどこまで引きとめられるかが……ねっ!」
彼女はナイフを投擲した、できるかぎり短く無駄のない動作で。敵意を向けられているとわかっていても不意を突かれる速さ。なにより人を傷つけることに躊躇がない。
次の瞬間には刺さっていた、フィノの後ろにある棚に。ガラスが割れたような音がして、見るとナイフが棚に突き刺さっていたのだ。
その見事で恐ろしい彼女の腕前に驚いたが、その必殺の一撃をフィノが避けたことにはもっと驚いた。
回避する意思をもって動かなければあれは刺さっていたはず。つまりフィノにはあの攻撃が見えていて、さらに反応もした。ただ、その一部始終は見えていなかった。
フィノはもちろん驚いておらず、そうなると抗議をする気もないようで、落ち着いた面持ちで後ろの棚に向かっていく。この状況で相手に背中を向けるのはどうかしていたが、追撃を恐れていないことを示すように振り返らない。
棚に手を伸ばす。あのナイフを取る気だ!そう思ったが、違かった。ナイフが生み出したガラス片を握りしめる音が部屋のなかに響く。もっと細かくしたいのか、ただガラスを握っていたいだけなのか、ギリギリという音をしつこく響かせる。
やめろ、とか何をやってるんだ、とか言うべきなのだろうか? でも言葉は出てこない。一秒また一秒と過ぎれば過ぎるほど、見た目はフィノでもフィノに見えてこなくなる。どんな言葉を掛ければいいかどんどんわからなくなっていく。早く言葉を掛けないと取り返しのつかない事態になりそうな恐怖が腹の中に重く座っているが、もう取り返しのつかないところにきていた。
「きゃあああっ!」
悲鳴は彼女から。見ると、彼女の顔の何か所もから血が出ていた。いや、顔だけじゃない、首や露出した肩や腕、胸元からも血が出ている。出血の量から薄い切れ口だと思われるが、その箇所が多いだけにやけに痛々しい。
フィノが放ったガラス片で切れたのだと、理解が追いつく。手で砕き作った無数のガラス片によって切られたのだ。
彼女は痛そうではなかった。しかし、ひどく動揺しているようだった。無数の傷を負ったということは、攻撃が全く見えなったということで、動揺するのも無理がない。もしそれが命を奪いに来る一撃だったら死んでいたかもしれないのだ。
「この程度ではわたしの美しさは削れないから!」
彼女は強気に、張り合うように、声を上げた。これまでの相手の機嫌や心情を探るような、そして惑わすような声音ではない、逃げ道を残さない絶対的な意思表明。
生きるか死ぬかという状況でなぜか美の話をしたので、俺は動揺せざるを得なかった。
ただ、彼女が……血だらけ傷だらけの彼女が無性に美しく見える。
もし本当に美を削るためにあのガラス片が放たれたのだとしたら、フィノは劣勢に立たされたということだろう。
「すぐにあなたの化けの皮をはがしてあげる。今のはちょっとした挨拶だから」
口の端を釣り上げて——なんてこともなくフィノは真顔で彼女の宣言に応えた。
それを受けて彼女は瞬間的にテーブルの上にあったグラスを手に取り、フィノに向けて力任せに投げつけた。
フィノは避けようとしなかったが、それは当たらなかった。二人の中間で、グラスが粉々に砕け散ったから。それは壁に当たって砕けるようではなく、中から力が加わって砕けたように映った。あたりにキラキラと光を反射する透明の破片が散らばる。
「あなたの武器は初めから限られてる。対して私にはまだこんなにも武器が残ってる。……どう? 自分の勝ち目は見えてる?」
それはさながら勝利宣言だった。フィノの背後にある棚には食器や酒瓶、ナイフが無数にある、もはや棚ではなく武器庫。対して彼女が使える武器は限られていて、貴重な武器だったグラスの一つは無残に砕け散った。
「さいわいグラスはもう一つありますから、こうやってお酒を飲むことができますよ。……はあ……果実の香りが豊潤でとてもおいしい。さすがわたしが仕入れたお酒です」
彼女がおいしいと言って飲んでいる赤いお酒はきっと自分の血だ。
「そんなにおいしいなら、もっともっと飲んでいればいいわ!」
フィノは皿を何枚も彼女に向けて投げた。綺麗な回転がかかっているそれは彼女に当たる直前に天へと軌道を変える。だが天には行けずに天井に直撃して粉々に砕けていく。その降り注ぐガラス片はさらに彼女の肌を傷つけていくにも関わらず、彼女はもう悲鳴を上げることなく優雅にすらみえる動作でフィノの勧めのままにお酒を飲み続けている。
飛んできたナイフが突き刺さった、彼女のグラスに。それでも彼女はお酒を飲み続ける。右の肩に刺さった、次は左の肩、それでも彼女は飲み続ける。
どうして回避をしようともせずナイフを受け続けるのか、ましてやなぜ酒を飲み続ける必要があるのか。とにかくこのままでは無数のナイフをその体に受けて死ぬだろう。だから俺は飛んでくるナイフに対処しようとしたが手応えがない。しかしナイフは彼女に到達しなくなった。
いつの間にかフィノの姿が消えていて、ナイフが勝手に飛んでくる。棚が投げているのか、ナイフが自ら飛んできているのかわからないのが厄介。
彼女はお酒に酔っている、もう俺がどうにかするしかない。しかし棚に近寄れない。近寄ろうとしてもナイフの突進を阻止しているうちに気づけば元の位置に戻っている。
これはもう、どうにもならない。
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