第26話 長い廊下

 店の中に入ると、何を言っているのかわからない、言葉になっていないような言葉が店内で飛び交っていた。男のものも女のものも、どちらもある。

 自分の中にある酒場のイメージは『夜空の太陽』で、そこは開けた、会話をしていない人たちとも会話をしているような空間だが、ここはまるで違う。徹底的に空間が区切られていて他人が入る余地をなくしている。

 だから、意味不明な言葉を話している者たちが何者なのかはわからない。その者たちは確かに黒い壁や黒い扉の向こうにいるのだろうが、その向こうには別世界が広がっているのかもしれないと思えてくる。廊下を移動していて声は聞こえても、一向に扉が開くことはなく誰ともすれ違わないのが一層その感じを強めてくる。


 店内に引き入れたからといって気を緩めるつもりはないのか、彼女は相変わらず気さくに話しかけてきていた。

 ナヤーシャと自己紹介した彼女は国の出身者(この街・メルブートの外から来た人)で、ここで働き始めて一年ほど経つと言った。俺も国の出身者だと言うとまるで生き別れした兄弟と再会したかのように喜んだ。別に国の出身者は珍しくない、だから嘘っぽさが前のめりだったが、そこまでいくと逆に感心した。

「さっきから聞こえてくるこの耳障りな声は何なんだ?」


「声……ですか?」


「とぼけるなら帰る」

 一体この廊下はどこまで続いているのか、延々と続いているのではとさえ思えて、歩けば歩くほど嫌な予感が育ってくる。正直入店したことを後悔している。

「ちょっと恥ずかしいんですけど……白状しますと、あの声は……あの声がなにかは、わたしにもよくわからなくて……わたしも怖いんです」

 ここで一年も働いていて、そんなはずはないだろうと思った。しかし、彼女の雰囲気は嘘を言っているようでもからかっているようでもない、真摯なもの。だからといって嘘ではないとは限らない。

「ひとつ言えるのは、気をつけたほうがいいってことです。まだまだ遠くにあると思っていた脅威が気づいたら目の前に——なんてことはこの街に限らずあることですよね?」

 今度は一転、どこか冗談っぽくおどけてみせる。

「やけにこの廊下長くないか?」

 外観からはこんな長い廊下は想像できなかった。まずいところに引き込まれていっているような嫌な感じがありながらだらだらと歩いてきてしまったが、とうとう深刻にまずいと、引き返せないところが近づいてきているのではと……もはや引き返せないところかもしれない。

「皆さんからよく、そうした質問をされます」

 よくある疑問だと彼女は言った。それはまるで『よくいる人』だと言われたようで、自分が特別な存在だとは思っていないがどこかでは特別だと思っている自尊心を、その言葉は妙に逆なでさせたが、そこに集中する余裕を与えず彼女は話を続ける。


「心配はないです。考えてもみてください……奥へ、さらに奥へ——奥深くへ……そこへ行ったほうが物事は楽しめるんです。その奥を知らない人たちを差し置いて、わたしたちはひっそり、こっそり楽しむんです。その感じは……すごく甘美ですよ」


 少し前を歩く彼女は、これまでの何かを思い出したように、またはこれからの何かを想像したかのように、うっとりした微笑を浮かべてこちらに話しかけていた。

 彼女はとにかく楽しみたいようだが、その言葉は俺の内ではどうも空虚に沈む。なにかを楽しんでいても一方では苦しんでいて、純粋に今を楽しんでいたのはいつだったかと探ると幼いときの、今となってはなにがそんなに楽しかったのかと思えるみんなとの戯れだった。あの頃は無邪気だったと思うのは美化が入っていて、その時はその時で悩みがあったのだろうが、やはり子供の頃は無邪気に楽しんでいた。

 お酒を飲んで、酔って、気持ち良くなり過去も未来も遠ざけて……楽しくなる。それはある意味では、あの頃の楽しさに似ている。ただ俺には、あの頃の楽しさを尊びつつも、それを求める欲はなかった。今には今の楽しさがあるし、あの頃は狭いところにいたからあの楽しさがあったと思い至る。

「着きました、この部屋です」

 彼女は突如ひとつの扉の前で立ち止まった。前触れなく着いため、随分長かったはずなのに案外あっけなく着いたという感想が一瞬自分の中に浮かんできて、もうこの空間に毒されてきていると感じた。毒されているとも思わなくなったらいよいよ危ないが、そのときは自分の危うさに気づけないだろう。


「さあ、どうぞ……遠慮なんていりません、入ってください」


 扉を引いて開けた彼女は、機嫌のよさそうな笑みを浮かべたまま獲得した客が入るのを待っている。その感じが、嫌な予感を増幅させる。

「先に入ってくれ、ここまでだって先を歩いてただろ?」

 その薄暗い部屋の中は、入口から見える限りでは特別怪しい雰囲気はない。やはり黒い床や壁なのは気になるが、それはここでは普通。誰かが待ち構えている気配もない。

 しかし、お酒を飲むところなのかと聞かれれば、よくわからない。ここから見える限りではただの一室に見える。

「なにを言っているんですか、あなたはお客様ですよ。わたしが先に入るなんてできません」

 別にそんなことはないはずだ。先に中に入って招き入れてもいいはず。それなのに、まるで当然のように言われると、その通りなのかもと思えてくる。きっとこの空間には彼女を支援する力——磁場が働いていて、それが彼女の言葉に強さを与えている。

「さあ、どうぞ……中に入って、ね?」


 俺の手を引き、優しくゆっくり、確実に誘導していく。


 抵抗してもいいはずなのに、なんなら暴力をもって抗ってもいいはずなのに、抵抗したいと思えば思うほど……意思に反して体は彼女に導かれていく。

「心配はないですよ……だって、楽しいことが待ってるんですから」

 あくまで優しく、手を放したあとは背中に手を当て軽く後押しする。彼女は俺に対して敵意などない、むしろ親身。だからなのか、その誘導に反抗する、ましてや暴力で抗うことなど到底できない。その選択があることを理解していても選べない。尋常じゃない睡魔に抵抗する決意をもっていても気づけば寝ているように……。


 部屋に足を、彼女より先に、踏み入れていた。

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