第25話 誘惑

 朝、扉を開け、部屋を出て扉を閉める。なんとなく繰り返してきたここでのこの動作も、今日で、今で最後。もうこの部屋に戻ってくることはないだろうがもしかしたらはある、でも戻ってこないだろう……きっと。


 階段を下りてから少し歩いて、馴染んだ集合住宅を出る。『銀の丘』は今日も混んでいるようで客の賑わいがある。それを今日は外から見ただけで寄らない。朝食は昨日買ったパンを食べた。やけにパサパサしていたが味はよかった。

 ちょっと北地帯に行こうと考えていた。『ちょっと』と言っても本当に『ちょっと』なのかはわからない。

 北地帯は四つある地帯の中で一番馴染みの薄い地帯だった。案内人をやっていたが、案内人は基本的に住んでいる地帯の案内をするため、他地帯に詳しいわけではない。ただ、多少は詳しい。


 歩いて歩いて住宅街を抜け、娯楽街を抜け、境界道に出て北地帯に入っていく。北地帯に入ってから思った、俺は果たしてこの北地帯にきたことがあったのかと。記憶を探るが、ぼんやりした輪郭は浮かんでくるが明確なものはない。

 もちろん人から聞いた噂は知っている、北地帯を支配する組織・ボクダリのボスは女で、女が四大組織のボスの座についたのは初だと言われていて、俺がこの街にきた頃はその座について三年ほど経っていたはずだがまだ珍しさがあったのか、嘘にしか思えない噂も次々と飛び交っていた印象が強い。むろん、嘘ばかりではなかったのだろうが、そのときは全部嘘にしか聞こえなかった。なんせこの街に来たばかりだった。

 今では湧き出る噂は落ち着いたが、その女、『ティアーノ』は不老の魔女だという噂が現在では定着している。実際、当時から見た目が驚くほど変わっていなくて、ずっと二十代後半といった見た目のままらしい。実際と言ったが、自分の目で見たことはない。

 ティアーノは変革に積極的で、ボスの座についてから北地帯の姿を徐々に、しかし大胆に変えてきたと言われている。そういう意味では、北地帯はこの街で現在もっとも活発な地帯と言える。


「そこの裕福そうなお兄さん、ちょっとうちで遊んでいきません?」

 娯楽街に入って早々、客引きをする女性の姿がよく目に入り、まるで誘惑するような(しているのだと思う)声が飛び交っている。

 これがこの街の一つの、そして大きな特長らしく、女性を積極的に雇って男性客を呼び寄せるという特色を出している。これはティアーノが進めてきた変革の一番わかりやすいもので、この街の経営面の支柱は女性が担っていると言われている。


 突然腕を掴まれた。


「あなたのことですよ、裕福なお兄さん? ぜひ、遊んでいってください」

「俺が裕福に見えた? あんた目がおかしいか、それでなければ頭がおかしい。医者にみてもらったほうがいい」

 的確な助言を送ったが若い女性は素直に医者にみてもらう気はないようで、なぜか俺の腕にその手を絡めてきて密着してくる。女性らしさを見せつける服装のため、もうそれを見せつけているとしか思えない。まるでそんな俺の感想を視線から把握しているかのように、女性は口角を薄く上げながらいたずらっぽく囁いてくる。


「わたし、そういう人が雰囲気でわかるんです。うちで遊んでいってください……あなたの手で、わたしがお医者さんにみてもらう必要があるかしっかり確かめて……。いいですよね、お兄さん?」


 相当自分に自信をもっているのか、全く引く気配がない。過剰に映らない笑みをけっして絶やさず、言葉遣いは親しげを装いつつもどこか丁寧、人の心を緩める術をわかっているかのよう。それにしては急接近をしてきて不用意に思えるが、非日常感があるこの娯楽街では有効なのかもしれない。それに周りの視線もちらほら集まってくる、慣れてない人なら居心地の悪さが背中を押して店に吸い込まれていくこともあるだろう。

 店の看板を見ると、どうやら酒場のようだ。本当に酒場かは入ってみないとわからない。一般的に建物は赤土の煉瓦を使っているため当然のように薄い赤色だが、この娯楽街の建物はどういうわけか揃って黒く、誰の趣味なのかはわからないが(想像はつく)センスがよくない。ただ、この娯楽街独特の雰囲気を生み出しているのは否定できない。

「昼間から酒場で飲む趣味はないんだ、悪いな」

 断って歩き出そうとしたが、腕に力をこめられて阻止される。この女、細腕の割に意外と力強い。……フィノほどはないと思うが。

「そう言わずに、悪いと思うなら寄っていってくださいよ。その……ふたりでイイコト、しましょう?」

 上目遣いで、ここぞとばかりにさらに体を密着させて食い下がってくる。服越しにやわらかい感触に襲われて、情けないがちょっと怯んだ。この女、なかなか根性がある(褒めてない)。

「イイコトってのは、酒をこぼす代わりに血をこぼすゲームのことか?」

「は、はあ……?」

 さすがに意味がわからなかったのか、女が首を傾げた。言った本人も何のことかわからないので、解説はできない。

「じゃあな」

 もう構わず手を振りほどいて歩き出したが、何故か女はついてくる……いや、食らいつてくる。常連どころか一度も金を落としたことのない客にここまでしつこいのは異様だ。

「待ってください! うちに寄っていかないと人生損しますよ!」

 なぜここまで固執するのかわからないが、とにかくうるさい。どこまで追ってくるのだろうか。北地帯内ならどこまでも? 北地帯内でも行きたくないところはあるだろう。しかしそれは俺にはわからない。ひょっとしたらほかの地帯に行っても追ってくる可能性がある。なら、いっそのことサクリに会いにいってやろうか。それはさすがにツラいだろう。だけど俺もツラい。

「あれ……」

 気付くと、女の姿が消えていた。周囲を見回すが、まるで幻を相手にしていたのかと思うほどに彼女の気配……のようなものがない。突然誰かにさらわれた——とかではなく、あきらめたのだろう。

 少し意外だった、もう少し執拗に追いかけてきそうに思えていた。こうもあっさり諦められると拍子抜けで、進むことができずに立ち止まって、あたりをキョロキョロと探してしまう。悔しいが、どことなく寂しさを覚えている。


「だれを探してるんですか?」


 目の前に、あの女が立っていた。

「いや、誰も探してない」

 不意打ちで姿を現したために動揺して、あからさまな言葉しか出てこない。

「ふふ、そうですか」

 女は妙に嬉しそうに笑顔を浮かべていて、ひどく気圧される。

「それで、考えなおしてくれました?」

 たぶん、こいつはどこまでもついて——違う、どこでも現れる。それに、挑むような気持ちが沸々と湧き上がってきた。


「気持ち程度、酒を飲ませてもらうことにした」

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