第24話 移りゆく

 目が覚めると、朝だった。


 丸一日眠っていたなど信じられない……というより驚きだったが、ものすごく重い思考とだるい体が確かにそれだけ眠っていたことを証明している。

 上体を起こして、しばらくの間なにをするでもなく呆然としていた。いきなりは起き上がれないと思ったのだ。ただ、起き上がれるだろうと思ってからもそうしていた。


 そんな俺を起き上がらせたのはノックの音だった。四回のノック、仕事の合図。

 扉を開けると赤い長髪と黒一色の服装の男、ソジャンが立っていた。

「顔色は良さそうだな」

 開口一番に言われる。本気か冗談かがわからない。自分では悪いつもりだが、よく寝たから案外いいのかもしれない。

「依頼が入っている。今回は——」

「ちょっと待ってくれ……待ってくれ」

 あたり前のように、あたり前に話を進めようとしたソジャンの話をギリギリで止めた。

「どうした?」と聞き返したソジャンの右目に動揺は見られない。まるで俺がなにを言うかわかっていて聞き返したようだった。推測でものは言わなかった、俺に言わせるために。これは推測だが。だとしても、この話を切り出すのは勇気がいる、喉が奥に奥に下がって声が出ないような感覚——でも出た。


「もう依頼は受けられない」


 妙に弱々しい声が出た気がしたけど、出たには出た。やはりソジャンの右目には動揺が見られない。本当に知っていたかのようだ。

「その言葉の意味を知っているか?」

 冷静な口調で問うてくる。様々な意味が頭に浮かんでくるが、そのどれもが正解であり不正解でもあるように思えて、言葉が出てこない。すると俺が答えるよりも先にソジャンが答えた、結果的に自問自答のようになった。


「私がハレルにもう二度と会わないということだ」


 淡々と言い切った。確かに、仕事以外でソジャンと会ったことは一度もない。別に止めてほしかったわけではない。しかしそこまで清々しく言い切られると自分は止めてほしかったのかもしれないと思えてきて、勢いでとんでもないことを言ってしまったのではという実感のようなものに襲われる。ただ、発言を取り消すことはない。意地というわけではなく、それが本心なのだ。

「ハレルはよく耐えていたほうだった。私からすればついにこの時が来たか、という思いだ。本当に、実によく耐えた。……これは私からのせんべつだ」

 ソジャンはしゃがみ込み長い髪が床につき広がる、俺の足元に一枚の金貨を置いた。すぐに立ち上がると、

「それではな。きっとまたどこかで会うときが来るだろう」

 と言い残し、振り返ることも立ち止まることもない、迷いのない軽やかだが重心がしっかりしている足取りで階段の下へと消えていった。


 見送ったあと、足元にある一枚の金貨を拾う。これを数多の硬貨の一枚として扱いことに抵抗がある。本来は使わなくては意味のないものだが、これは使わないからこそ意味がある。だけど、これは数多の硬貨の中に混ざり区別がつかなくなればただの一枚の金貨と化す。守るのは大変だ、そもそも生きていなければ守れない、しかしだからこそ——守ろうとするからこそ大切になる。


 朝食を買いに、『銀の丘』にやってきた。今日はいつもより早い時間にきてしまったために、店内は賑わっている。いつも座って食事をする席にも誰かが座っている。フィノは当然会計で忙しく、俺に話しかけてくることはない。

 パンを求める列に並んでしばらくして俺の番がやってきて、あらかじめ決めていた数種類のパンを頼む。テキパキと棚からパンを取り出していくフィノに、

「案内人をやめた」

 と端的に伝えると、一瞬彼女の動きが止まったが次には動き出して、作業を続けながら、

「どうして? 結局はこの間の件も丸く収まったんでしょ?」

 と聞き返してきた。

 俺の中では丸く収まっていなかったが、やはりそういうことになっているらしい。

「いい頃合かなと思ったんだ」

 短く返すと「銅貨五枚です」という声と同時にパンが入った袋を差し出されたので、お金を払った。次にも客が待っていたのでそそくさと店を出る。袋を差し出したときのフィノの表情はいまひとつ何を思っているのか読めなかったが、それでいい気がする。そんなに読めたら困る。


 住宅街の中では広い通り、そこにあるベンチに腰かけてパンを食べる。人々が動き出す時間帯ということもあって人通りはそれなりにある。そんな人の動きをぼやっと眺めながらパンを食べる。通りゆく人々は、『ちら』とこっちを見ることもあるが、すぐに見飽きるのか『ちら』で終わる。

 なにやら騒がしく駆けてきた子供が、なぜか俺の前で止まった。幼い男の子と女の子の二人。ニコニコと楽しそうで、照れてもいるように見える笑顔でこっちを見ている。「どうした?」と問いかけてもはしゃぐように笑うだけ。もしかして寝ぐせがヒドいのだろうか……それとも顔が汚れてる? そんなはずがないと思いつつも笑われると自信がなくなる。仕方ないので無視してパンを食べだすと、余計に笑われる。食べる気力がなくなりかける。

「食べるか?」

 袋の中から取り出したパンを男の子に差し出すと、笑顔で受け取り二人は駆け出す。

「おい、ちょっと待、て……聞いてないか」

 女の子の分もあったのだが、受け取ってすぐに駆けていくとは考えが及んでいなかった。

 向こうをよく見ると、二人はパンを分け合いながら食べている。俺は食べかけのパンを食べ始める。しかし、二人はすぐに俺のもとに戻ってきた、きっと食べ足りなかったのだろう。結局あのパンは女の子の手に渡った。なぜか今度は俺の前で食べ始めたので、ベンチから立ち上がり歩き出した。少し歩いてから後ろを振り返ると、二人はベンチに座りながらパンを食べている。今度こそ俺は、歩きながら食べかけを食べ始めた。


 特に目的もなく娯楽街で時間を使っているうちに夜になり、足はおのずと『夜空の太陽』へと向かっていき、あたり前のように店に入っていった。

 夕食を食べつつ機をみて案内人をやめたことを伝えると、ロジカノやトハに驚かれた。ソジャンやフィノには驚かれなかったので驚かれたことに驚いた。

「ついにうちに入る決意を固めたってことか?」

 ロジカノの表情には期待も疑いもあるように感じる。半信半疑といったところか。答えは否定。首を横に振った。


「だと思ったよ。……それはいい、まさかおまえ、この街を出てくとか抜かさないよな?」


「明日か明後日かってわけじゃないが、それは考えてる」

 ロジカノは何か言おうとしたが、それよりも先に声を上げたのはテキュだった。

「ハレルこの街出てくの⁉ そんなのあんまりだよ……せっかくこの店を継ぐって決めたのに、あたしの計画が台無しじゃん!」

 街を出ていくと騒いでいたのに、いつの間にかこの店を継ぐに方向転換していたことに驚いたし呆気にとられたが、計画とやらはぜひとも聞きたくなかった。

「ハレル上手くやってたと思うよ、考え直したほうがいいって」

「ああ、今回ばかりはテキュの言う通りだ。ハレル……おまえはこの街でないと生きていけないだろ。それに、荒野で死にかけたのを忘れたのか?」

 二人はどちらかというと自分の心配をしているようだった。俺がいなくなると都合が悪いことがあると、ほとんど自分の事情でものを言っている。でも俺のことも心配してくれているのだと思う。そういう感じがこの二人らしいというか、なんか嬉しい。

「言っておくが、出るとまだ決まったわけじゃない。ただそういう考えが浮かんではいるってだけ。だから……明日には出るかもしれないし、気づいたら何年もこの街にいるかもしれない」

 情けないが、自分でも自分の気持ちの急転ぶりに翻弄されていて、ついていけていない。


「えっと……それってつまり出ていく気はなくて、みんなに心配してもらいたいだけってこと? ハレルって、今そんなに寂しいの?」


 テキュの素朴な疑問に痛いところを突かれた気がした。冷静になると確かに、話をチラつかせて人の気を引こうとしているように見える、自分からも。

 そんなテキュの疑問に答えたのは何故か俺ではなくロジカノだった。

「テキュ、それは違うぞ。オレはトウタリの組員としてこの街のいろんな人と関わってきた。だからわかるが……ハレルはこの街に住む人間か離れる人間かのきわどい重心をいったりきたりしてた、それがもう完全に傾いたってことだよ」

 ロジカノの珍しく真面目な声音での話にトハは頷いていたが、テキュはあまりピンときていないようで、俺もよくわからなかった。それはもしかしたらこの街に住む覚悟を持っている者にしか感じられない領域の話なのかもしれない。


「いずれわかるよ、ここに住んでればな」


 ロジカノはテキュに、そんな言葉を送った。

「ひとつ言っておくけど、こういうことを言ったからって、意地になってこの街を出ていく必要はないんだからね。……出るのを止める気はないけど、私はこの街に残ってくれれば嬉しいから。だから、意地にはならないで」

 トハの言葉に頷き「ありがとう」と返す。自分が選ぶ道を冷静に見極め、納得した上で進めと背中を押してもらった。

 周りの言葉に耳を傾けすぎれば選ぶ自由がなくなり、自分の言葉に責任を持ちすぎれば次に生まれる意思を抑え込むことになる。望みを確定的にする必要はない、刻一刻と揺れ動くのが人の心の弱さで強さ。


「……なあ、ハレル。握手してくれないか」

 ロジカノが右手を差し出してきた。どんな風の吹き回しか……わかるような気がするが、明確な理由などないのかもしれない。断る理由はなかった。

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