第23話 崩れゆく
屋敷の外に出ると、もう朝だった。
男は俺が素直に後にすると思っているのか、後にしなかったとしても問題がないのか、それを確認しようとはせずに扉を閉めた。どっちにしろ、素直にここを去る。
少し玄関と向き合う。ここで、この豪邸の中でどれほどの人が殺されてきたのかと思うと、真っ白の玄関扉が異様に不穏に見える。でも、その中で日常を、生活を送っている人もいると思うと、なんかその不穏さがよくわからなくなる、遠くなる。だがそれは確かにある。
庭の方に、出口へと向きを変え、歩き出す。
木々が計算されたように植えられている広い庭は、開放感と落ち着きがある。長く暗闇にいたからか、それとも今の気分か、葉の緑がやけに鮮やかに映る。硬い石畳の感触を足の裏に感じながら歩き、門の前に着く。警備の人間がその門を開いてくれた。門の周囲にいる数人の警備の人はこっちをジッと見ているが、話しかけてくることはない。会釈をして門を通過しようとすると、すんなりと通してくれた。後ろで門を閉める音がした。振り返ることなく歩き続ける。
街から仮面人が消えた。さらに来ないと言っていた朝もやってきた。もしかしたら消えたとかやってきたというより、俺が戻ってきただけなのか、それとも戻されたのか。一体どの瞬間に? わからないし、きっと理解できない。それに、あの不思議な出来事の印象が日の光を浴びだしてからどんどん薄くなってきている。薄いというよりか、遠のいてくる。それはどんな出来事にも言えることかもしれないが、それらとは何か違う。忘れても記憶に残っているというか、ありそう。どんな遠くに行っても、夜空で光る星のようにあり続けて、ふとした瞬間に思い出して見つめる。
なぜか無性に宿に行きたい。リーガが泊っていた宿。なぜかニアーナが戻ってきていそうに思えてならない。戻ってきていなければやっぱりと思い、戻ってきていればやっぱりと思うだろう。
まだ人通りがほとんどない住宅街を駆け出した。
「またあんたか……。こんな朝早くにどうした? まだ何か不満でも?」
宿に入ると愛想のない受付の男に面倒そうに応対されるが、気にならない。いや、気にはなるがそれは今は後回し、後回ししているうちに忘れる。
「ニアーナが戻ってきてないか? いるだろ!」
男はあきれたようにため息をついた。そのため息の意味はわからなかったが、それは無理のないことで、俺が何か異常にズレているだけなのだろうという考えに不意に至った。
「彼女なら国に帰っただろ。まあ、無事に辿りつけるかはわからんが……。あんたも喜んで、しかと見送って満足してただろ?」
「嘘だろ……そんなの」
「嘘じゃない。寝不足じゃないか? きっと疲れてるんだよ、あれだけ尽力したんだ……ぐっすり寝たほうがいい」
それはとんでもなく突飛な話だったが、妙に納得のいく話でもあった。この男がわざわざ嘘を言う必要がない。
これはきっと何かのツケを払ったんだ。だからニアーナを見送ることができなかった。それにこれでは本当に彼女が帰ったのかわからない——一生。話ではそうなっていても、俺が信じられなければ、彼女を見送った記憶がなければ、俺の中では彼女が帰ったことにはならない。
「さあ、帰った帰った。おやすみ」
受付に宿の外に押し出される。抵抗する気にはなれなかったし、ここに用がない。男はおそらく誠実に答えてくれた。大人しく去る。
異常から本来の場所に戻ってきたはずなのに、息苦しい。嘘の世界を真実の世界だと思っている。それとも、真実の世界を嘘の世界だと思っているのか。だとしたら俺はとんでもない偽物ということになる。でも自分にとって自分は本物だ。そこに揺るぎはない……はず。
なにを疑っているのか。この街に何年もいて、何年も暮らしてきた、そのはずだ。自信を持って歩けばいいはずなのに以前のように軽やかに歩けない。
この街にはあまり不幸な人がいない。不幸な人と幸福な人の対比があまり見られない、不幸な人はすぐに消えてしまうから。それを見るときはきっと自分がそうなるとき。恐怖に怯えながらもどこか冷静な部分で『ああ、こういうことか』と理解する。そうなったときには手遅れ、その前に……その前にこの街を出ていなければ。それなのに不思議で、なかなかこの街からは抜け出せない。俺もその一人。心の底から見つけたいと思っているわけではないのに——『力』を見つけるまでといういつまでも達成できないだろう目標——それらしい都合のいい言い訳で自分を誤魔化し続けている。
気付くと、自分の部屋の前に立っていた。ほかのどこへも行く気がしなくて、ここに来るしかなかった。記憶が起き上がってくる。どこへ行く気もしないは嘘で、ここに来たかったんだ、扉の前に誰かが待ってくれているという淡い期待に揺さぶられていた。もちろんそれは裏切られる。いや、期待するのが間違っている。もはやあの恐ろしい気配が現れることすら望んでいる気さえするが、扉が揺れ出すことはない。
扉を開け、中に入る。ここにはとんでもない怪物が住んでいるはずだったのに、もうそれを感じることはできない。『いる』のはわかっていても感じない、それは平和だ。味気なくもある、知ってしまってからでは。
こういう時ベッドに横になれば惰眠を貪ることになる予感はあったが、そういう、後から失敗したと思うだろう予感に身も心も任せたい気分だった。
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