第20話 曖昧な屋敷

「……少し、だいぶ寝心地が悪かった」

 ここはひんやりしていて床も硬い。深く眠れたようには思えなかったが、寝てはいたはずだ。傷も治っている。

「あなた、尋常ではないわね。あんなことで傷が塞がるなんて……でも、よかったわ」

 上体を起こすと、黒猫が膝の上に乗ってくる。

「もう朝か……」

 なんとなく黒猫の背中をなでた。毛並みがよくて、手触りがいい。

「ここに朝なんてないわ。ずっとずっと夜よ」

 常軌を逸している話だが、不思議と信じられる。ここに朝が来るなら本当に逃げ場、帰る場所がないと思えるから、信じたいのかもしれない。

 もとよりこの地下では朝か夜かもわかりようがない。黒猫を肩に乗せてから立ち上がる。

「ここは一本道なの。真っすぐ進んでいけば屋敷への入口に着くわ。でも信じすぎないで、私はここに来たことが一度もないの」

 どうであれ、とにかく進むしかない。あの雑木林には戻りたくない。というか、ここからどうやって雑木林に戻るのかわからない。たぶん戻れない。

 歩き出すと、足音が空間でやけに響く。壁は石材で出来ているようでザラザラしている。何故か歩き出したらお互いに無言になって黙々と進んでいく。

 別に無言なのは構わない。今は目的の場所へ向かうのが先決と考えている。ただ、この無言の時間はいつまで続くのか。豪邸の裏手にある雑木林からこの隠し通路に入って(というか落ちた)、もうどのくらい歩いているのか。だいぶ長い。しかし一向に終わりが見えない。さすがに口を開いた。


「この通路は本当にあの家に通じてるんだよな?」


 もはや、別のどこかに通じているとしか思えないが、そうなると『あの家』とはどの家を指しているのかも曖昧だが、まだ可能性を信じたかった。

「それは私も疑問に感じてきていたところ。何かがおかしい……でも考えてもみて、暇に継ぐ暇な時間はすごく長いものじゃない? だからよ、きっと。黙っていてはいけなかったの。もっと楽しい話をしましょう? そうすればきっとすぐに着くわ」

 それは難しい問題だ。楽しい話とは予期せず生まれるもので、楽しく話そうとして生まれるものではない。確かなのは、なにか話さないと生まれないということ。

「おまえの初恋っていつだ?」

「…………」

 黒猫は黙り込んだ。だがそれは拒否ではなく黙考の間だったようだ。

「いま初恋してるって言ったら、あなたどうする……?」

 やけに真剣な声で黒猫は聞いてきた。

「もうこれって十分楽しい話になってるよな」

 思わず口角が上がり、結局笑いをこらえることはできなかった。

「……あなたサイテーね。さっき心配して損した」

 頬をひっかかれる。その手を軽く握って落ち着かせる。

「ちょっと待って……やっと突き当りに着いたわ」

 そこには梯子がある。木でできた梯子で、握って力を入れると少しミシという音がした。この時点では、折れそうな感触はない。

「やったわね。やっと屋敷に潜入できるわ」

 黒猫はどこかそわそわするように声を弾ませている。俺はこの先に待っているものを考えて怖さを抱きながらも、黒猫の熱に巻き込まれるように期待みたいなものも感じていた。


 登りはじめると、梯子はすぐに終わりがやってくる。頭上に壁の感触。

「そこを押し上げるの、きっと開くわ。心の扉を開けさせるよりだいぶ簡単よ」

 本当に簡単に開いた。ギリッ、という木の軋む音ともに開いていく。こもった匂いが漏れてくる、あまりいい気持ちはしない。

 誰かいるかもしれないと警戒するが、耳を澄ましても何者かの気配は感じられない。それでも警戒して、中に上がり込んだ。

 どこかはわからない、さっきの屋敷なのか、別のところか……静かな一室。明かりは窓から入ってくる月の薄い光のみ。潜入に使った床扉を閉じる。すると、急に嫌な感じ——背筋が冷える感じに襲われた。

「おい、床の扉……開かないぞ」

 確かにさっきまであったはずの機能が、閉めた途端に消えた。

「あの地下通路からじゃないと開けられないのかも……それか使い切り、とか……」

 こういうのは普通、非常時に家主が逃げるためにあると思うのだが……そんな普通などここにはないのか、単純ではない開き方があるのか。

「……覚悟を決めるためには、ちょうどいいのかもしれないわね」

 だいぶ肝が据わっていると思ったが、黒猫の言う通りだとも思った。こんなところに来た時点で、逃げ場を期待するのはお門違いだろう。


 ただ思う、俺は一体ここに何をしに来たのだろう、と。


 扉を開け、廊下らしきところに出た。相変わらず暗い。

「……いっぱい扉があるわね。調べがいがありそう……楽しみ」

 まったく楽しみではなさそうに言う。肝が据わっているように見えても、ずっとその状態ではいられないか、とくにこの暗闇の中では。

「ちょっと……あの扉から明かりが漏れてるわ!」

 すごく小声になって教えてくれる。確かに、明かりが漏れている部屋がある。さっきは気づかなかったが、おそらく気づけなかっただけだ。

「人がいるのか……?」

 ゆっくりと部屋に近づいていく。

「きっとそうよ、仮面が明かりを使ってるとこなんて見たことがないし、だったら人に決まっているわ。家に棲む怪物のわけがない」

 黒猫の言うことを信じるなら、部屋の中に人がいる。しかしなぜ黒猫は怯えているのか。いや、無理もない。人が怖いのだ、わかる、俺も怖い。


 扉の前に立って、中の気配を探る。物音がない。誰もいないのか、しかし誰かいたから明かりがあるはずだ。数回ノックするが、やはり返事がない。

「誰かいるのか」

 声を出しても反応はない。悪いが勝手に扉を開けることにする。扉を押して中に入る。


「誰も……いないわね。でもなんか、ここの空気生々しい気がするわ。気をつけてね」


 そこまで大きな部屋ではない。特別これといった物もないが、部屋の中央に位置するところに一人掛けの椅子があり、その上に燭台があってロウソクが灯っている。風があるとは思えないのに、時折火が不安定に揺らめく。もしかしたら扉が開いているからだろうかと考え、閉める。

「なんで閉めちゃうの?」

「あ、いや……火が揺れるから」

「火が揺れるのなんてどうでもいいわ。閉めたら怖いじゃない。そう、閉めたら怖い。閉じ込められるの、わかる? だから——」

 窓の外に視線が引きつけられる。ここに窓があることにたった今気づいた。その向こうがやけに気になる。何かを見ているような、何かに見られているような。

「——ねえ、私の話聞いてる?」


 何かがこっちを見ていて、目が合った。


 ロウソクの炎が大きく揺らめき、ついに消える。

「え、なんで? どうしたの——きゃあっ⁉」

 ガラスが割れる派手な音。何かが部屋に入り込んできた。

 扉に駆け寄るが、開かない……というか、ただの壁になっている。

「なんだこれ、どうなって——っ⁉」

 蹴破ろうとするが、そんなことができるわけなく足に強い衝撃。辛うじて倒れずにこらえた。背後に濃い気配を感じて、反射的に動きが止まる。動き続けても、抵抗しようとしてもよくないと思った。

「ああ……だめ、私のしっぽに気安く触らないで……」

 何かの息遣いがする。それは背後からするのか、自分のものかわからず混乱する。

「いいか、動くなよ。動いたら殺されるぞ」

 こいつは生きのいい獲物かを見極めようとしている。動けば動くほど殺される。人間だって怪物だって大した変わりはない。生きの悪い肉を食べたいなんて思わない、よほど飢えてない限りは。

 背中に妙な感触がやってきた。気持ち悪いような、くすぐったいような——ぞくりとする感触。払いたくなるのをぐっと堪える。


「どうすればいい? 私はなにをすればいい?」

「だから何もするな」


 背中から嫌な感触が消えた。そして濃い気配も薄らいでくる。急にひどい眩暈に襲われる。立っていられなくなって座り込もうとするが、そんな暇を許さないとばかりに下へ上へと沈んでいくような感覚。その気分の悪い感覚に耐えるのがやっとで言葉も出ない。目を強くつむって、歯を食いしばってひたすら耐える。自分が立っているのか横になっているかもわからず、黒猫が肩にいるのかもわからない。

「ぐあっ……⁉」

 強い衝撃に襲われたと思ったら、床に座り込んでいた。扉が勢いよく閉まる音がして、扉から漏れてくる赤い光、ロウソクの明かり。部屋の外につまみ出されたのだと理解した。

 肩にあの感触がないことに気づいてはっとして、背中が冷たくなる。扉を開けようとするが、俺にはもう用がないとばかりに開かない。扉を叩いて呼び掛ける。

「おい! 生きてるか、大丈夫か! 生きてても死んでても返事をくれ! 頼む!」

 大声で呼び掛けるも返事はなく、返事があった。


 肩に感触がやってきた。もう慣れた感触が。

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