第18話 怖いヤツ

 やっと部屋がある集合住宅に辿り着いた。

 見慣れた街並み、案外既視感のない街並み、それらを見ながらここまできたが結局知っている人はもちろん、知らない人の姿もない。『銀の丘』を見やる。きっとあそこも、どこも朝がきても開かない。普段なら明日の朝はあたり前のように開いていると考える、むしろそれがあたり前すぎて考えもしない。それが今は開かないと考えている、どこかで朝が来ればいつも通りになると考えている。後ろ向きなのに前向き……いや、楽観的。


 建物に入り、階段を上って自分の部屋を目指す。建物の中は外よりも暗くてある意味では外より怖い。記憶を頼りにほとんど感覚で自分の部屋へと進んでいく。

 おそらく自分の部屋の前、に辿り着くと、あるはずのない妙な感触に襲われた。今にも崩れ落ちてしまいそうなか弱い感触。

「ちっとも私の言うこと聞いてないじゃない。人間の姿のまま移動してちゃ、あいつらに殺されるわよ?」

 この声音や口調はさっきの黒猫だ。それかさっきの猫に酷似している別の猫かもしくは犬、それかウサギ……けっこう色々ありだ。

「どうすれば姿を変えられるのかがわからない」

 なぜ俺が向かう先を知っていたのかよりも、なぜこの猫の方が早く到着しているのか?ということのほうがショックだった。

「……そう、けっこう不器用なのね」

「ちょっとどいてくれないか。中に入りたいんだ」

「それは私が邪魔っていうこと?」

「そう、それ。邪魔なんだ」

「どけろと指示するあなたも私にとっては邪魔よ」

 こういう時って、先に居たほうが有利だ。先にいたからってそこに居座っていい権利なんてあるわけないのに、まるであるように思える。


「冗談。ずっとここにいても面白くないもの」


 黒猫は扉の前からどけると、俺の肩に飛び乗ってきて驚いた。肩に乗ってきた意図は不明だが思っていたより軽くて、せっかくどけてくれたのだから拒否する必要もないかと思えた。

「私は本当は人間なんだけど、この姿のほうがここでは生きやすいからこうしてるの。本当はすごく美人。つまりあなたはいま美女を肩に乗せてる。感謝して」

 それは拒否する気になれないわけだ。

「ちなみにだけど、その部屋には入らないほうがいいわ。そもそもなんでここに来たの? ここは嫌な気配に満ちてる、いいことなさそうよ」

 確かにちょっと薄汚れた建物ではあるが、親しんでみると案外それが味になったりするもので、その評価は早計だと言いたい。

 突然扉が、ガタガタ、ガタガタという音を立て騒ぎだした。まるで強い風で揺れているようだがそんな風はここに来ていない。

「やっぱり来たわね」

 耳の近くで黒猫が訳知り声で言う。

「やっぱりって、なにが来たんだ? ちょっと扉が揺れるぐらいあるだろ?」

 扉の揺れは激しさを増していき、俺はその前から離れていた。

「何か起きそうなところで何かが起きれば『やっぱり来たわね』って思うの。それだけ。だから何かはわからないけど好ましいことではなさそう。だって見て、この揺れ尋常じゃない。尋常じゃないってことは普通じゃないってこと。ここの普通を私は知らないけど」

 扉が開いた……というより……ドタンと大きな音、扉が前に倒れてきたようだ。バキバキと扉を踏みしめる——踏み壊す音。しかし、暗くて何がいるのかは見えないが、黒の揺らめきは感じる。

「その……逃げたほうがよさそうよ」

 黒猫が言ったのが先か、俺が逃げ出したのが先か、壁が轟音と共に破壊されたのが先か。

 立っていることができなくなった。転倒したのか、自分から立っていることを放棄したのか。立ち上がることができない。

「もっと早く早く!」

 黒猫が背中の上で急き立ててくる。それは俺がいま心の中で猛烈に思っていることだったが、そう思えば思うほど動きがどんどん遅く遅くなっていく。遅いというより、重いなのか。階段を地を這うようにして下りていく。黒い気配が迫ってきているのがわかる。

「あー、だめだめ、これ絶対だめ」

「おまえは動けるんだろ⁉ さっさと逃げろ!」

「私はあなたより動けないわ!」

 動物の姿なら『なんちゃら』って話はなんだったんだ⁉

「もっと気合を入れて! 早くこの建物から出て! 追いつかれちゃう、潰されちゃう! やだやだやだ!」

 足と手に思いっきり力を入れた。階段に鈍い音が走り、それが崩れ落ちた。落下……おかげで一気に一階にたどり着けた。

「いいわ! もうちょっとで外に出れそう!」

 出口が近い、まだ追いつかれていない、これならきっと大丈夫……ちょうど外に仮面人がいるのが見えて、一瞬の迷いが生まれる。仮面人の相手をするのがいいか、黒い気配を相手にするのがいいか。——結論が出る前に外に出ていた。

 一気に身が軽くなり、背後にあった黒い気配が消えていく。この建物に巣くう悪鬼から逃げ切ったのだ。


 そして仮面人に見つかった。


 俺は駆け出した。仮面人に向かって——ではない、逃げるために。仮面人に背を向けた。

「あの仮面をかぶった人みたいな奴らは一体なんなんだ⁉」

「それが何か知ってればわざわざ猫の姿になってないわ」

 ここの事情に詳しい雰囲気を出していながら驚くほど知っていないことに困惑する。


 いつの間にか追手は二人に増えている。

「あいつらは大丈夫なんだろ、いい加減降りてくれ! おまえ軽いけど少しは重い」

「失礼ね、私はあなたのことを思って乗ってあげてるの。私が降りればあなたは困る、だから降りるか降りないかを決める権利は私にある。でも私は優しいから降りるなんて非情な決断はできそうに——きゃああああっ⁉」

 前方に立ちはだかった建物の壁を俺は駆けのぼった。

 仮面人は無尽蔵の体力があるのか走る速度が落ちない、一方で俺は落ちる。もう追いつかれそうだったので壁を蹴り上がるしかなかった。

 夢中で壁を駆けあがっていくと、平らな屋上に出た。さすがの仮面人も壁は駆けあがれないようで、ついてくる気配がない。

「……あ、あ、あなたやるじゃない……! 猫よりも身軽かもしれないわ。きっとあなたなら大丈夫。……ただ、ああいうことをする前は注意して……肩から落ちそうになったんだから。私は置き土産じゃないんだから忘れちゃダメよ——って、なにか嫌な音がしない?」

 下を覗き込むとその音が何かすぐにわかった、それは仮面人が壁にサーベルを突き刺しながら登ってきている音だった。しかも一人増えている。

「……か、怪物だわ」

 黒猫は絶望したように呟く。俺は驚愕している。別にそんなことをしなくても中から上がってくればいいのに。

「大丈夫だ。ここに建物の上から落とされて当たったらすごく痛そうな煉瓦がある」

「あら素敵、やっちゃって!」

 煉瓦を仮面人の頭上に投げ落としていく。割れた、仮面人の頭が——ではなくて煉瓦が。

「ぜんぜん素敵じゃない……」

 まるで煉瓦などどうでもいいようにビクともしないし、気にせず上がってくる。


 仮面人の手が屋上に掛かったのを尻目に駆け出して、屋上から屋上へと飛び移っていく。仮面人が追ってくるので次の屋上に飛び移る。この動作があるおかげで加速が鈍るのか意外に追いつかれない。だが、次に飛び移る屋上がなくなった。

「猫は高いところから落ちても案外大丈夫だったりするらしいな」

 黒猫の首根っこを掴んだ。なんでここまで付き合ってくれたのかは不明で、知りたいが聞く暇がないので聞かないが、ここが限界だろう。


「ちょっと待って! 私は猫じゃなくて人間! 人間なんだから死んじゃう!」


 ジタバタ暴れて肩の上に戻ってくる。仮面人が同じ屋上へと飛び移ってくる。ここから飛び落ちれば怪我をして動けなくなり殺されるだろうが、そうしなくても殺される。仮面人が迫ってくる。いつの間にかその数は四人に。屋上が崩落して仮面人たちが落下していく。端にいた俺たちは難を逃れた。


「……えっと、家屋には怖いヤツが住み着いてることがあるの。ほら、さっきのやつみたいな。これはたぶん罠……ほんと怖いわね」

 黒猫はどこか呆気にとられながら呟いた。

「……多少は詳しいんだな」

 仮面人たちの重い悲鳴が次々と上がっていく。

「……まあね」

 俺は家屋の下に仮面人の姿がないのを確認してから、慎重に下りていった。

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