第17話 黒い猫
なんとなく冷たい。すっきりしているような靄が掛かっているような思考。重くて軽い体。地面に吸い寄せられる力に抵抗するように力を入れて起き上がる。
まさかこんな道端で睡魔を我慢できずに寝る日がくるなど思ってもいなかった。自分に自分で驚いている。さいわいなのは、おそらく人は通らなかったのだろうということ。それとも無視されたのか。まだ夜だ、案外一刻ほどしか寝ていなかったのかもしれない。
妙な気分。何かに気づかず、何かを知らずに進んできてしまっているような、これでいいのか?という感じ。後ろを振り返ったとしても到底その疑問の地点には戻れない虚脱感。もしかして何かに気づかないようにして、何かを知らないようにして進んできたのでは?という恐怖。結局は戻れない。
首を振った。とにかく『夜空の太陽』に行こう。そう言い聞かせて、歩き出した。
拍子抜けするほどあっさり、違和感はやってきた。
東地帯の街が近づいてくるにつれて、その違和感は増していき、とうとう違和感でいる限界を迎える。
ここは知っている街であって、知っていない街でもあった。
人の気配が、逆にすんなり受け止められるほどに『ない』。人がこの街を捨てたよう、どちらかといえば人がこの街に捨てられたよう。もしこれが俺を驚かせるために企画されたものならすでに大成功だが驚かせる人を間違っているし、そうではないこともわかっている。
仮面の人が街をうろついているのだ。
それを見たとき、自分はまだ逃げている途中なのだと理解して、怠けていた体、どちらかといえば意思に力が入った。それは逃げることが好きだからではなく、死にたくないから。
見かけた仮面の人は数人。やはり皆サーベルを手に持っていて、「一体これはどんな状況なんだ?」と聞くのは躊躇われた。
街の家屋にはとことん明かりがない。そのため見つかるのは下手をしない限り難しいといってもいい。その分、急に仮面の人が現れても驚かないけど驚く。きっとすぐ見つかる、このままでは。
自分で自分が何をしたいのかがわからない。ただ、不思議とこの東地帯から離れよう——危険だから離れようという気にはなれない。もう仮面の人から逃げ切ることをあきらめた……からではない。ここでなにかを掴めなければ……そう、なにかを掴めなければ俺はここで死ぬ、仮面の人に襲われて。この住み慣れた東地帯でこの異常事態を突き抜けなければ、生きては戻れない。どこに戻るのかはよくわからない。
自分の部屋に帰る、辿り着きたいと、ふと思った。そこに戻ればきっと自分がベッドで寝ていて、その自分を叩き起こせば何もかもが元通りなる、そう思えた。もしいま見知った人にばったり会えたらまずそんな説は力説できないが、どうせ会わないからなんとなく信じていられる。
俺の部屋がある住宅街は東地帯の奥地にある。やっとたどり着いてすべてが元通り、やっとたどり着いて何もかも現状維持。どっちかはわからないが、もし後者だったら新たな目標を決めればいい。最悪は、たどり着く前に仮面の人に斬られること。
まずは、身を隠させてもらっている家屋から出なければならない。玄関の扉、その取っ手を握る手に力が入る。
外に出ると、仮面の人の姿はない。妙なもので、姿があれば怖いが、姿がないほうが怖い。少なくとも今は。
部屋を目指して進み始めてわかったが、仮面の人はばったり出くわしそうなほどはいるが、湧いてきているのでは?と疑いたくなるほどはいない。集団で行動をしている姿はないが、組織的な動きをしている可能性はある。街を巡回していて侵入者を見つけ次第応援を呼び、またはその必要がなければ即座に斬り殺す——そんな準備があるように思える。もしかしたらどこかに拠点があってそこに仮面の人がわんさかいるのかも。
家屋と家屋の狭い隙間から路地の様子を窺うと、仮面の人の姿があって身動きが取れなくなる。迂回をするのも手だが、迂回をした先にも現れてもおかしくない。隙を狙ったほうがいい。持ち場のようなものはないようで、うろうろ適当に動いているのは観察でわかっている。待っていればこいつもいなくなる、次が来る前に先に進んで身を隠して——また待つ、そんなことを繰り返せばたどり着ける。突飛なことをする必要はない。
足に変な感触がある。初めはちょっとした違和感だったが、無視できなくなっている。
下を見ると、俺の足に黒い何かが接触してきているのだとわかった。
「驚いた?」
なにに驚いた、と聞いてきたのかは判然としないが、とりあえず猫が人の言葉を喋ったことには驚いた……すごく。
「あ、ああ……」
本当は仮面の人を警戒しなくてはならないのに、黒い猫をまじまじと見つめてしまう。
「あなたダメね」
「すごく驚いた……でも今は大声を出すことはできないんだ」
いきなりのダメ出しに少しショックを受けつつも、事情説明というか言い訳をする。
「この街を歩くときは動物の姿にならないと。殺されたいの? 殺されたくないわよね?」
そういうことだったのか。
「忠告ありがとう。……ところで、おまえは猫なのになんで人の言葉を喋れるんだ?」
それとも俺は猫の言葉がわかるのか。
「だから私は人なの。話せてあたり前。あなた頭がおかしいの?」
見ると仮面人の姿がない。今が好機だ、話してる場合じゃない。
「貴重な話をありがとう。先を急いでるんだ、じゃあ!」
駆け出した。突然のことだ、猫は引きとめようとしたり文句の一つでも言ったりするかと思ったが、俺のことをじっと無言で見送っていた。
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