第16話 仮面の人

 ニアーナが消え、俺が捕らえられそうになった(一度は捕らえられた)林の前にやってきた。番人がいる林、泉があるかもしれない林。以前は仕方なく入ったが、今回は自らの意志で入るだろう林。

 まだ明るい。陽が落ちてから侵入するのがいいため、それまで茂みで待つ。別にわざわざここで待っている必要はないのだが、ここで待っていないと何かが逃げていくように思えて怖かった。それは自分の気持ちか、ニアーナの気配か、それともまだ知らない何か。


 夜を待つ時間は妙に長い。


 まるで自分以外の時間が動いていないのではないかと恐ろしく感じることもある。たまに道を人が通ったり、風が草や木々を揺らしたりする度に安心する。

 そんなことを何度繰り返したか。ようやく夜がやってくる。

 いよいよきた、という渇望や期待とともに、自分がなにかとんでもない場所にいるような実感が湧いてきた。

 闇の林は日中とは驚くほど表情が違う。日中が穏やかな睡眠なら、夜間は野蛮な食事のよう。それが口に飛び込んでくるのを待っている。木々が風で揺れてざわめくたびに、何かが出てきそうな、何かに見られているような気がしてくる。


 そこに入っていく。迷いはないが、恐怖はある。慎重に、あたりの気配に注意しながら進んでいく。なにか物音がするたびにそこから動けなくなりそうになるが、言い聞かせるように止まらない。

 番人はランタンを使っているため、その気配に気づきやすく避けやすい。だから夜を選んだのだが、夜は探し人を見つけにくい状況であると理解したのは探し始めてからだった、ひどい間抜けなことに。俺は気づかれないために当然ランタンを持っていないので、余計に探しにくい。

 ランタンの明かり、人の気配を避けて進んでいるうちに、もはや自分がどこにいるのかわからなくなった。そもそも、日中でもどこにいるかなどわからないだろう、ここには一度しか来たことがないのだから。

 また風が木々をざわめかせる。少し強い風。直後、鳥が何羽か甲高い鳴き声を上げて暴れるように羽ばたいた。翼が葉に乱暴に当たる、心をざわめかせる音。

 その空気に気圧されて足を止めてしまい、あたりを呆然としつつも警戒を強めて眺める。明かりは見えない。気にしすぎだろうか……。風は何かを警告するわけではなくただ通りすぎるだけだし、鳥だって気まぐれで戯れただけだろう。そんなときがあるんだ。そう思い込もうとしても、嫌な予感に深くはまって動けない。なぜ夜の闇は人をこんなに不安にさせるのか。

 物音がした。地を踏みしめ、草木をかき分けこっちに進んでくる気配。明かりは見えない。まさか俺のようにランタンを使わずここを歩いている人間……人間、いや——何かがいるのは計算外だった。もしかしたら人ではないのか、ただどうも人の歩みに思えてしかたない。とにかくこの場を離れよう。

「なんだ……っ⁉」

 思わず驚きの声が漏れた、足が動かなかったからだ。耳を澄ませれば足元でグツグツとなにか音がなっているがよく見えない。まさか足が地にはまって抜けない? そんなバカなと思いつつもそうとしか思えない。足が抜けないのだ。

 少しずつだが確実に気配が近づいてくる。息苦しい焦燥に襲われる。必死に、手を地について足を抜こうとするが全く抜けそうもなく、気づけば手も地に呑まれていた。

 さらに気配が近づいてきて絶望が押し寄せてきても、力を抜くことなく抵抗するが抜けそうにもない。

 ついに気配はすぐ背後にきたのがわかった。声を発することはないがやはり人のように感じる。また鳥が騒いで背後の気配が曖昧になったが、終わりが迫ってくるような危機感に襲われて全身の力を全力で抜いた。

 また風が木々を騒がせる。

 地べたにうつ伏せになっている、ただただ。

 背後から気配が消えているのがわかった。ゆっくりと起き上がると、近くには誰もいない。


 脅威は去った。まだ進んでいけるという安心感がきたことに安堵する。

 ただ、その安心感に浸っているわけにはいかない。さらにさらに道なき道を進んでいく。なんとなく、この街を目指して荒野を歩いていた時と重なる。あのときはメルブートに辿り着く、今はニアーナを見つけるという目的があるのに、いつの間にかただ進むことに集中している無欲さ——あるいは貪欲さ。その感覚は歓迎すべきか忌避すべきかと不安定に移ろうが、それは無性に気持ちよく——過去のものになると異様に鮮やかになる。

 だから俺はいま無性に気持ちいいはずなのだが、それを意識してしまうと気持ちよくなくなり苦しくなるから難しい。

 いつしか、番人の気配にまったく会わなくなっていた。

 この林はそんなに奥が深いのだろうか。四つの地帯に囲まれている林、そんなに大きいとは思えないのだが……空から見たい気分になるが、見れるわけがない。たとえ見れたとしても、本当にそれで大きさ、とくに深さを測り知ることができるのかどうか。


 茂みの中に何かが現れた。


「これは……」

 木々の隙間から差し込んでくる頼りなくもありがたい月明りを頼りに観察する。

 それは井戸のようなものだった。俺の膝辺りまで積まれた煉瓦よりできた四角い枠。その中に手を入れてみると、冷ややかな風が静かにのぼってきて手をなでる。耳を傾けてみても静か。試しに地にあった小石を投下する。直後にも、少し待ってみても音が返ってくることがない。


 この林には、以前は人間の死体を処理するのに使っていた穴があると聞いたことがあった。もしかしてこれがそうなのか。誰が掘ったのかわからないその穴は死体を入れても入れても一向に埋まることがなく、最下層に死体を喰らう魔物がいるという噂が立ったらしい。もしや魔物はそれを糧に日々力を増していっているのでは——そんな恐れを抱いた人々はそこを使わなくなり火葬をするようになった。

 適当な作り話だと思っていたが、まさか実在した……?


 突然影が現れた。


 それは人で、仮面をつけている。近づいてくる気配など微塵もなく湧いたように出現した。その手には鈍く光るサーベルが握られている。

 驚きや焦りを抑えて、相手の様子を窺うために話しかける。

「やけに物騒なものを持ってるな。さては、ここの警備を任されてるヤツじゃないな?」

 サーベルは基本的に持ち歩かない。それを持ち歩くのは誰かを殺すと言っているようなもので組織の者でも滅多に使わないし、組織の者でなければすぐに組織に捕らわれる——または殺されるだろう。つまりこの者は部外者、俺と同じ侵入者ということになる。どんな目的があってここにいるのかは不明だが、興味はない。

 返事はない。仮面をかぶっているからか若干息苦しそうな呼吸音が聞こえるだけ。ガタイからして男だろうか。

「お互い、今は目立てない身だろ? ここは大人しく別れ——」

「ウゴオオオオオ……ッ!」

 仮面の人は対話重視の俺にイラつくかのように、言葉にならない声をあげて斬りかかってきた。

 後退して避ける。

「わかった、ここから俺がいなくなれば——くっ!」

 本当に俺の言葉などどうでもいいのだろう、続けて斬りかかってくる。後退に後退を重ねて避けていくが、いつまでもそれは続かないだろう、相手は恐れなど微塵もないかのように躊躇なく踏み込んで斬りかかってくるからだ。背中を向けて逃げようとすれば一気に詰め寄られて斬られる。そう思えてしまうほどに動きがいい。

 これは覚悟を決める必要がある。殺す覚悟。仮面の人は、殺すか殺されるまで止まらない。なら受けるしかない。

 斬撃をしゃがんで躱すと一気に仮面の人の懐に突っ込み、腹部に殴打を入れる。しかしその腹部は異様に硬い、まるで壁を殴ったような硬さで、ビクともしないし声一つ上げない。懐に入るのは賭けだった、引き下がれない。さらに力を込めていくとヒビが入っていく音が鳴った。

「ンゴッ……⁉」

 仮面の人もさすがに焦ったか呻きを漏らす。その直後にヒビから暴力的な風が漏れてきて俺は後方の木の幹に叩きつけられると、その風は俺を幹に縛り上げてきて張り付けられて身動きが取れなくなる。

 仮面の人が駆けてくる、俺にサーベルを突き立てんと。ためらいがない。次には刺される、その時に——俺の代わりに木がその刃を受け止めてくれた。仮面の人は焦ってサーベルを抜き取ろうとするが木は力強く握り続ける。

 仮面の人にナイフを投擲する。それは暴力的な風に巻き込まれて暴れ回ると、ヒビに吸い込まれ、仮面の人は猛烈な悲鳴を上げた。

 木が握るサーベルから手を放し、地に倒れて狂ったように手足をバタつかせる。次第にその動きが収まっていくと、仮面の人はまるで闇に溶けるように消えていった。気づけばサーベルも消えている。同時に、縛りが消えた。

 仮面の人がいたところに向かうと、そこにはその者がいた気配が微塵も残っていない。木に一言「ありがとう」と伝えて幹をなでた直後に、何かが迫ってくる音がして慌てて茂みに身を隠した。


 そこに現れたのは仮面の人だった。


 さっきの者かはわからないが、やはりサーベルを握っている。あたりを警戒しているようで、構えながら周囲の気配を探っているように見える。

 とにかくじっと身を潜める。何か音を少しでも立ててしまえば襲われる、そんな予感でありながら確信的な考えに支配される。

 きっとさっきの仮面の人の悲鳴を聞いて駆け付けたのだ。まさか仲間がいたとは……一体この林はどうなっているんだ。警備をしているはずの組織の人間たちはなにをしている。

 仮面の人はなおもあたりを探りながら徐々にこっちに近づいてくる。気づいていないはずなのに、まるで存在に勘付いているように見えてしまう。

 さらに近づいてくる。隠れるならここしかないとわかっているのかのようだ。これは、また戦うしかないのか……。しかし、今度も上手くいく保証はない。

 仮面の人は一度立ち止まり、あの木の幹をなでる。その姿はまるで俺の痕跡を辿っているよう、いや……さっきの仮面の人の痕跡なのか。しばらく幹をなでたその手を見つめたあと、隠れている茂みに向かってくる。これはもう見つかる。


 ——そこに、また仮面の人が現れた!


 二人同時に相手をするなど無理だ! そう絶望したとき、こっちに迫ってきていた一人がその人のもとへと駆け寄っていく。そして二人はなにやら細かく頷き合う。最後に大きく頷き合って、向こうへと駆けていった。

 一気に押し寄せた脅威は、一気に引いていった。

 どこからか呼吸を忘れていた。大きく吸って吐いてを繰り返してから、立ち上がる。

 もう訳がわからない。一度この林を出ようと決断する。おそらく、あまりにも深く入りすぎたのだ、きっと。


 『夜空の太陽』に行って今日も来ているだろうロジカノに話を聞こう、そう考えて駆け出した。どっちに行けばこの林を無事に出られるかなど考えていない。とりあえず仮面の人が去った方向と逆の方向に駆け出しただけ。ただ、これは間違っていない感じがしていて、そういう根拠のない自信みたいなものは思いのほか力になったりする。どんどん進んでいく。


 まるで寝ていたかのように夢を見ていたかのように、それから覚めたように気付けば林から飛び出していた。

 崩れたようになり、地面に手と膝をつく。喉がひりつくように痛い。意識がぼんやりする。少し地に横になる、どうせ誰も通りはしないだろう。

 まぶたがどんどん重くなってくる。このままでは眠るだろう、それはさすがにマズいと感じつつも意思は起き上がることを拒否する。それとも意思などないのか……ただただ何か感知できないところからくる力に動かされているだけでは? それを自分の意思だと思い込んで舞い上がっている、常に。だからきっと今この状況に抗うことは——

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